第三の生(1780 乞食ごっこ(中) 


 幻影はあまりにもリアルで耐えがたいものでした。

「ジム」とフィービーは泣きじゃくりながら声をかけました。「ジム!」さらに大きな声で呼びました。

 ジムは熟睡していたのですが、妹の声を聞き、目をこすりながらヨタヨタと妹に近づきました。フィービーがマフラーについて話すと、ジムはムッとしました。

「どれもこれもおまえがブルーベルをもちこんだせいだぞ。ともかくマフラーを返さなくちゃ。あのむかつく野郎の近くに行きたくないけど、しかたない。でなけりゃ、この家にまでやってきて、ぼくたちが盗んだとかわめきちらすだろう。そしたらアニーは失神してしまうにちがいない」

 部屋にジムがいるせいか、フィービーは勇気づけられたような気がしました。しだいに楽観的になってきたのです。

「たぶんあの男はマフラーがなくなったことに気づいていないわ」

「いや気づいているかもしれないね」ジムは軽蔑のまなざしで反論しました。

「ブルーベルをマフラーで包んでいたのに、あの男は気づいていなかったわ。たぶんもういらないと思ったのよ」

「賭けてもいい、これ、好きだったはずだ」ジムはマフラーを手に取り、指でもてあそびました。「おとうさんがおかあさんに贈ったインド産のショールみたいにおどろくほどやわらかい。こんなものがなくなって気にしない人はいないさ。おや、すみにだれかの名前が縫い込まれている。男がだれなのかわかるかもしれない」

 フィービーのベッドのわきのテーブル上に火口(ほぐち)箱とロウソク立てが置いてありました。ジムはロウソクに火をつけ、妹といっしょに、ネームタグにインクで記された刻印をしらべました。そこには「尊敬されるべきジョン・ホーリー」と書かれていたのです。

「これはあの牧師さんの名前ね!」フィービーは驚いて叫びました。「このマフラー、あのいやな男のではなく、牧師さんのものだったのね。やったわね! あすマフラーを牧師さんのところにもっていきましょう。どうやってマフラーを見つけたか話したら、きっと喜んでくれるにちがいないわ。そしたらまたケーキを食べさせてくれるわ」

「ちょっと待てよ、フィービー。くだらないおしゃべりはやめてくれ。考えさせてくれ。これってけっきょくどこにあったんだ?」

「マフラーのこと? 船尾のシートの下にあったのよ。シートをおろしたら出てきたの」

「わかってるよ。でもなんで座席の下に? はじめ見たときにそれ、あったか? あったら気づきそうなもんだろ?」

「なかったわ! 釣りのリールとロープだけよ。わたし、頭をなかに入れて見まわしたの。すみに何か青いものを見たわ。わたしはそれを引っ張ったの。でもどうして?」

「それが理由だよ」ジムはゆっくりと答えました。「思うんだけど、あの男はマフラーがそこにあるのを知らなかったんだ。ぼくが考えていること、わかる? あのボートの持ち主はドクター・ホーリーだったんだ。ボートがミステリアスに消えたって言ってただろ? あの紫鼻の男が盗んだんだ」

 フィービーの目は驚きのあまり丸くなりました。何がおきたか確信し、変化した状況におそれの気持ちをいだきました。しかしその表情は晴れ晴れしていました。「牧師にマフラーを返すとき、ボートがどこにあったか話しましょう。そうしたら牧師さん、取り返しにくるはずよ」

 このようなやりかたはいい子ちゃんすぎるようにジムには思えました。

「それじゃつまんないよ」と彼は叫びました。「牧師を驚かせようよ。ぼくたち自身でボートを返すってのはどう?」

「そんなのできっこないわ! 紫鼻の男がだまってるわけないじゃない」

「できるさ。もちろん男ははばもうとするだろうけどね。男が目をはなしたときがねらい目だ」

「でもジム、どうしたら目をはなしてるってわかるわけ?」

「偵察するんだよ」ジムは気どっていいました。

「テイサツ?」

「そう、つまり、隠れてのぞくんだ。機会を狙って……。長い草のあいだをはいつくばって進むんだ」

 ジムにとってはかっこいいのでしょうが、フィービーにはそうは思えませんでした。

「紫鼻の男だって隠れてのぞいていたじゃないの。だからやぶから飛び出してきたんじゃないの」

「そうだ、わかってるよ。でもあの男だって四六時中見張ってるわけじゃないだろう。食べたり寝たりもするはずだ。今夜遅くにでも、かっぱらうことができたら最高なんだけどな」

 フィービーはその考えにひるみました。

「でもこんなに暗いんじゃ降りていく道がわからないんじゃないかと思う」とジムはつづけました。

「とてもじゃないけど無理だわ」フィービーは必死に同調しました。

「あしたの朝までは実行できないな」とジムは結論づけました。フィービーは安堵のため息をもらしました。

 翌朝鳥たちがさえずり始める前に、ジムは忍び足でフィービーの部屋にはいり、彼女の肩をやさしく揺り動かしました。

「起きて」ジムがささやいたとき、フィービーはちょうど目覚めるところでした。「いまならボートをこぎだすことができるよ。男は寝ているはずだ」

「あの男がどこに住んでいるのか、何時に起きるのかも、わたしたち知らないわ」フィービーはうなるようにいいました。「それにもし朝食抜きで出かけたら、アニーがまた烈火のごとく怒ると思うの」

「アニーのことは気にする必要ないよ。まだ5時前だ。コックが8時の朝食のベルを鳴らす前には、バターベイルに行ってもどってくることができるさ。さあ人食い人種から逃げ出す冒険家ごっこをしよう」

「ごっこじゃないと思うの」フィービーは憂鬱そうにいいました。「紫鼻の男は鬼よ。鬼は人を食べるわ。だから人食い人種とおなじ」

「物事って危険なほうがより面白いだろ」ジムは自信たっぷりに宣言しました。「フィービー、こんどはあの人形をもってきてくれないかな」そう付け加えると、ジムは急いで自分の部屋にもどりました。

 フィービーは、以前はジムが提案するどんな冒険に参加するのも楽しかったのです。いまでも、恐いのですが、あとに残されるほうがもっといやだと感じるのでした。彼女は服を着て、マフラーをポケットに入れました。かれらはオールを手に取るとすぐ、川へ向かいました。

 川の近くでかれらはオールをシダのなかに隠し、川岸に生えた葦のあいだを四つん這いになって進み、垂れ下がった柳の下に到達しました。葦のあいだからのぞいたかれらは茫然としてしまいました。ボートがなくなっていたのです。

「なんてことだ! あいつ、ボートをどこへやったんだ」ジムはうなりました。かれらは立ち上がり、あたりを見回しました。

 川の両側の斜面は森に覆われています。葦と野生の花々に縁どられ、柳と長者イチゴの茂みが水面にかかった深い水の流れはくねり曲がりながら森の奥に消えています。

「ぼくたちにボートを見つけられて、あいつは隠したほうがいいと考えたんだ」とジムは推測しました。「もっと上流に行ったら、きっと見つかるさ」

 ふたりは注意しながら歩きました。水の流れをさかのぼると、つぎの曲がりの向こうにボートを見つけたのです。ほんの目と鼻の先でした。

 ボートはつながれていませんでした。それは流れのなかほどに浮かんでいて、紫鼻の男は背中を船体につけて坐っていました。オールは手付かずで放置され、彼の体の横には釣り竿が置いてありました。彼自身は釣った魚からはらわたを取るのに忙しそうでした。子どもたちが葦の衝立の後ろから見ると、彼は魚を川の水で洗ったあと、オールを手に取るとボートを旋回させました。子どもたちはひょいと頭を下げて視界から消え、息を殺しました。そのあいだに男は数回オールでこぎ、ボートを川岸に移動させました。

 フィービーとジムはちぢこまったまま頭をあげず、聞き耳を立てました。男がボートから出て川岸に降りた音をかれらは聞きました。彼が浅瀬にボートを引き寄せたとき、底がキイというこすれる音がしました。もやい綱を結んだとき、枝がガサガサという音をたてました。オールを取ったときにはそれらが当たってカタカタという音がしました。小枝が泥をはねたときはピシャっという音がしました。そうして重いザックザックという足音がヒュウヒュウうなる長い草のなかをだんだんと消えていきました。つづいて夏のブーンという静かな音、虫のざわめき、葉のささやき、カエルのゲッゲッという鳴き声、鳥のさえずりが聞こえてきました。

 子どもたちはふたたび立ち上がりました。それほど遠くない土手下の砂地のくぼみにピンクと緑がぶちになったボートが留められていたのです。人の気配はありませんでした。

「あいつ、どっちへ行ったのかしら?」フィービーはききました。

「知りっこないよ」ジムはこたえます。 

「ボート、持っていくことできるかしら?」

「そうしたいのはやまやまだけど、あいつがどこへ行ったか知らなきゃ」

 ジムはいくつもの木々の頂が空で交わるあたりをじっと見ました。その瞬間、うっそうとした茂みから立ち昇るらせん状の煙の糸が見えたのです。

「あれが見えるかい?」興奮した口ぶりでジムはたずねました。「あいつ、あそこにいるんだ。神父さまの森だよ! あいつは侵入者だったんだ。毎年秋にやってくる木こりが使う山小屋で魚を焼いてるんだよ。これはチャンス到来かも」

 かれらは急いでシダの茂みにもどりました。ここにオールを隠していたのです。オールを手に取ると、かれらはボートに飛び乗りました。フィービーはとも綱をゆるめ、ジムはボートをつついて岸から離れさせました。そしてオールを所定の位置にいれ、下流に向かってこぎだしました。けれども急げば急ぐほど、ボートはやかましい音を立てたのです。数メートルと行かないうちにやぶからガサガサという音がして、敵であるあの男の姿があらわれたのです。

 土手を必死に走りながら、男はにらめつけ、歯をむき出し、こぶしを振り上げました。

「ボートから出てきやがれ! このドブネズミどもめ!」うなるような声で男は叫びました。

 小さなボートは軽く、操作も簡単でした。ゆるやかな流れに乗ってボートが滑るように進むいっぽうで、ジムは必死に激しくこぎました。とても速いように思われました。けれども男もおそろしく速く土手を走っていたのです。ときにはやぶの向こうに消えましたが、またあらわれ、中国の悪魔みたいに悪態をついたりにらみつけたりしました。そして首根っこをへし折ってやるとおどしてきました。

 フィービーは恐怖のあまり船尾で縮みあがりました。ジムは全力でこぎつづけたのですが、恐ろしいことに、この悪夢に出てきそうな魔物を振り切ることはなかなかできませんでした。

 荒れ野原村の森と牧場が背後に消えたとき、流れが変わりました。絹のようになめらかな水の流れは広く、浅くなり、渦巻くようになりました。流れは大きな岩によってふたつに分かれました。流れは激しくなり、下流に向かってほとばしったのです。ジムは岩を避け、深い水面を選び、座礁しないように気をつけました。水につかったり、左右に大きく揺れたりしながらなんとかうまく操作して窮地をのがれることができました。

 ふたつの丘のあいだで流れは突如瓶(びん)の首のように狭くなり、水はそこを押し流され、渦巻いたのです。男がもし最初に到達したら、丘の上から駆け下りて、通り過ぎるボートを横からつかむことができたでしょう。

 しかし男はすこし離れたところにいました。肩で息をし、あえぎながら、悪態をついていました。まだ追いつけると思ったのか、彼はさらにペースをあげました。

 ジムは全身の力をこめてこぎました。水の吸い込む力によってボートは狭い流れの潮流に乗ったように思われました。そのときです、頭越しにどなり声がとどろいたのは。そして毛むくじゃらの手がのびてきてボートをつかんだのです。子どもたちはふるえあがり、手はオールでなく空をにぎっていました。ボートはムチうたれたように激しく揺れ、横から流れを受けて、そのまま深い湾にはいりました。

 この湾はバターベイル村の子どもたちが使うスイミングプールのようなところでした。ジムはそれが流れの入り口にあり、川がそれほど遠くないことを知っていました。

 ジムは疲れ切っていたので、ボートがプールの出口に向かって流れていくあいだ、オールに身体をもたせて休みました。しかし男はまだかれらを追っていたのです。彼はしつこく迫ってきて、流れが切れるところで追いつこうとしました。ジムはオールをふたたびつかみ、こぎはじめたのですが、男も猛ダッシュしてきました。しかし彼はバランスを失い、頭から水に突っ込んでしまいました。

 男は水の底にタッチすると、一挙に水面に出てきました。彼が立ち上がると、水深は首の高さほどありました。彼の赤紫色の頭が水の上をさまようさまはグロテスクでエキゾチックな水仙のように見えました。

 フィービーは神経質そうにクスクス笑いました。ジムは顔をひきつらせながら高笑いしました。男は息を詰まらせ、咳き込み、わけのわからないことばを発しました。

「やっとつかまえたぞ」と男はしわがれた声でいいました。「この見下げたドロボウどもめ!」

「ドロボウはあんた自身だろ!」ジムは叫びました。「あんたはこのボートを盗んだんだ! このボートはバターベイルのジョン・ホーリーのさまのものだ。ぼくらはこのボートを神父さまに返そうとしているんだ」

 いまや抜け殻のようになった男の顔には、怒りと恐怖がないまぜになって浮かんでいました。水と泥がまじりあう浅瀬を紫鼻の男はトボトボと歩き出し、土手を駆け上がってどこかへ姿をくらましました。子どもたちは喜びに満たされました。

 

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