折々の  Mikio’s Book Club  

  宮本神酒男

2回 猫殺し 柳田國男『どら猫観察記』と豊島与志雄『猫先生の弁』 


 猫について書きたくなる気持ちはよくわかる。野良猫にしろ、家猫にしろ、飼えば、あるいはエサやりすれば(野良猫にエサやりしてはいけません、一応)、何かしらドラマが生まれ、それを人に話したくなるものだ。オルダス・ハックスリーにしても、作家志望の青年に贈ったアドバイスは「猫を二匹買い求めよ」だった。

 だから日本民俗学の巨匠、柳田國男(1875−1962)が猫についてのエッセイを書いていたとしても不思議ではない。哲学者吉本隆明だって『なぜ、猫とつきあうか』というインタビュー形式の本を出している。とはいっても、この0円の『どら猫観察記』を見つけたときは、何度か目をこすって名前を確認しなければならなかった。昔、まちがって柳田邦男の本を買ってしまった経験をもつ者として(それはそれですばらしい本だったが)このタイトルからは民俗学者の本とは思えなかったのだ。

 しかしあとで調べると、「柳田國男全集」に一応収録されているし、『日本の名随筆3・猫』(作品社)にも選ばれているので、このエッセイがまったく無名であったわけではないようだ。

 このエッセイのなかで、柳田國男が注目している猫の特性のひとつは「猫の終わり」である。猫が目の前で死ぬことはまれで、いつのまにか姿を消すことが多いが、そこから「老猫は化ける」という伝説が生まれたのだろうと言う。

 もうひとつの猫の特性は「猫がしゃべる」ということだ。当時路上をゴマメ売りが「ゴマメゴマメ」と呼びながら歩いていた。外で「ゴマメゴマメ」という声がするので障子を開けて見ると、縁側に猫がいるきりだったという。(つまり猫がしゃべった)

 最近もテレビを見ていると、視聴者が投稿したビデオのなかで、猫が「ゴハン」と鳴いていると投稿者が主張しているものがあった。ゴハンと言っているようでもあり、言ってないようでもあったが、実際はわれわれの脳が作り出しているのだろう。

 数年前私が「飼っていた」きれいな白いメスの野良猫は、野良猫らしく、絶対に鳴かなかった。どうしてもエサがほしいときは、口を大きく開けて鳴くような仕草をして、かすかにかすれるような声を発した。こういった猫の「努力」から考えるに、家猫であれば、人間に「ゴハン」と聞こえるような鳴き声を発したとしても不思議ではない。(この白いメス猫はベランダに置いていた段ボール箱のなかで勝手に3匹の子供を産み、育て始めた。私が寝ているとき、母猫は子猫たちを私の足元で遊ばせていたが、彼らは最後まで飼い猫になることはなかった。私の足首のまわりは猫ダニに何百か所もかまれたが、ここは猫好きのはしくれとして、不満ひとつ洩らさなかった)

 

 0円本といえば、私は豊島与志雄(18901955)の0円本をなんと300アイテムくらい購入した。豊島与志雄という名を私はほとんど知らなかったが、『レ・ミセラブル』などの翻訳が知られているので、目にしたことぐらいはあっただろう。そのなかにいくつか猫に関するエッセイや童話が含まれていた。どうやら無類の猫好きだったようだ。

 しかし『猫先生の弁』というエッセイのなかに捨て置くことのできない一節があった。

 だいぶ前のことだが、野上彰君が猫を食う会を拵えようと私に提案したことがある。猫好きである以上、猫の血の一滴ぐらいは体内に入れておくべきだ、との趣旨から、猫の肉を食おうというわけだ。

 これがブラックジョークなのかどうか、しばらく文面を見ながら考えた。猫を好きで飼っている人が、猫を食おうなどと思うだろうか。しかしつぎの文章でたんなる冗談でないことがわかる。

 問題は、猫の肉をどうして手に入れるか、そしてどういうふうに料理するかだ。知り合いの料理屋や料理人に相談してみたところ、はじめから断られたり、請けあったままで立ち消えになったり、遂に実現をみない。

 つづいてこう述べる。

 そのうちに、猫肉試食などに対する興味を私も失った。猫を可愛がることだけで充分に面白い。

 な、なんだと! と心の中で私は拳を挙げた。この人は、猫を可愛がることにあきたら、そしてだれかが猫を取ってきて、調理してくれたら、喜んで猫肉を食べてしまいそうではないか。猫好きの風上にも置けないやつだ、と私は思った。まあ、実行に移したわけではないから、やはり冗談なのかもしれないが。

 

 しかし世界には猫を食う人たちがいる。イタリア人が猫を食べるのは、知る人ぞ知る話だ。最近も、イタリア北部で、動物を保護する施設(殺処分するのかもしれないが)から引き取った猫15匹を、50歳の男がじつは食べていた、という事件があったばかりである。男は「ぽっちゃりした猫が好き」と言ったという。施設の人が「私もぽっちゃりした猫が好きです」とでも言ったなら、これはアンジャッシュのコントだ。

 

中国人は犬ほどではないが、猫も食べてきた。猫肉はおいしくないが、活力がつくという。文字通り猫鍋にして食うのである。(⇒産経新聞記事 飼い猫をうさぎ肉として販売 この場合ウサギ肉として食べられていた。ただ一部は猫肉と知っていた可能性がある

 90年代の話なので、古い話だが、広州で自転車(マウンテンバイク)に乗って走っていると、追い抜こうとした人民自転車の荷台の箱から、ミャーミャーという声が聞こえた。50代くらいの平凡な男が自転車をこいでいた。私はその自転車がどこに向うのか気になり、あとをつけてみた。すると市場の食肉部門に消えていった。

 その市場では、男がアナグマのような大きな動物を撲殺している最中だった。日本なら動物園でしか目にすることがない珍しい動物である。そんな動物を棍棒でぶんなぐり、気絶させ、熱湯につけて皮をはぐのである。荷台の猫の運命は知る由もないが、おなじような目にあったのはまちがいないだろう。

 

 猫殺しなら、インド南部で目撃したことがある。インド南端のカニヤクマリ岬で20世紀最後の日没と21世紀最初の日の出を見よう、とそこに行ったのだから、2000年12月31日か2001年1月1日前後のことだったと思う。

 町の裏通りを歩いていると、人だかりがあった。後ろから人をかきわけて中に入ると、中央に家猫よりずっと大きい毛並が美しい立派な感じの猫が座っていた。なんてきれいで、気品がある猫だろう、こんな猫を飼うことができたらどんなにすばらしいだろう、と思った瞬間、棍棒が振り下ろされた。ドカっという鈍い音とともに猫はその場に崩れた。

「いったい何のために猫を殺したんだ?」と、私は目の前の理不尽な行為が許せず、まわりのインド人たちに訴えるような目で問いただした。

「食うためだろう」とある男は吐き捨てるように言った。

「インド人は猫肉を食うのか?」

「もちろん普通は食わないさ。こいつらはトライブ(部族)だからな」

 もしもう少し早く猫を殺そうとしていることに気づいていたら、お金を払ってでも猫を救出していたのに、とそのときの私は思った。もちろん、救出したところで、そのあたりに放ったら、また遅かれ早かれ彼らに捕まり、殺されていただろう。かといって野良猫を日本まで持って帰るわけにもいかなかった。どうしようもなかったのはわかっているが、いまも悔しい気持ちが残っている。


 毎月のように、どこかで、異常者によって猫が殺されている。神戸児童連続殺傷事件の犯人(酒鬼薔薇)も、児童を殺傷する前、猫を殺していた。最近も、柏の通り魔事件の犯人も、猫を殺していたといわれる。いつも、なぜか、猫が狙われる。猫はエサをくれる人間にたいして心を許してしまう傾向があり、そのお人よし(お猫よし)のところにつけこまれてしまうのだ。*2014年7月26日に起きた佐世保女子高校生殺人事件の加害者の少女が複数の猫を殺し、頭部を切断していたことがわかり、世間に衝撃を与えた。猫殺しが人殺しに発展したことは本人も認めている。また大田区では、2014年4月から8月までの間に25匹の猫の死骸が見つかっている。*この犯人は9月に捕まった。50匹近い猫を殺したとされるが、実数は不明だ。驚くべきことに、彼は家に猫を飼っていた。

 猫殺しといえば、私は稀代の魔術師アレイスター・クロウリー(18751947)を思い浮かべる。クロウリーはじつに興味深い人間で、その著作も何冊か読んでいるが、この猫殺しの記述を読むと、やはり彼は異常性格者であり、犯罪者的だったのではないかと思ってしまう。

 十四歳のときに自分は本当に猫には命が九つあるのかどうか見きわめるために猫を殺すことに決め、「一匹見つけてきて、砒素を大量にのませ、クロロフォルムを嗅がせてから、ガスの火の上に吊るし、刺したり喉を切ったり、頭部を打ち割ったりし、猫がほぼ完全に焼けてしまうと、今度は水に漬け、窓からほうり出した。そうすればたとえ九つの命があっても、墜落死するのではないかと思ったからだ。……今でもおぼえているが、そのとき私は猫が気の毒でたまらず、ひたすら純粋な科学実験を遂行するために心を鬼にしているのだ」と書いている。 (中村保男訳 コリン・ウィルソン著『現代の魔術師 クローリー伝』) 

 何がそら恐ろしいって、こんな残虐なことをやっておきながら、「猫が気の毒でたまらず」などと平気で書いていることだ。憐憫を感じながらも、生き物を殺す快感には勝てなかった、と正直に言ったらどうだ、と思う。猫好きとしては許しがたい行為ではあるが、しかしこれも含めて、クロウリーが尋常ならざる人間であり、尋常ならざる生涯の持ち主であることに変わりはないのだ。

 









My Cat Stories

中国(雲南独竜江)とミャンマー(カチン州)の国境上の森にいた愛想のいい猫。翡翠色の目をして、軟体動物のように体が柔らかかった 


乱舞する蝶(青色のはいった黒蝶と白い蝶が写っている)を捕らえようと身構える猫。でも空振りばかり。捕らえる気などないのだろう。このあと黒いニワトリがやってきて嘴で数羽の蝶を捕らえ、蝶たちをパニックに陥れた 
*『猫の古典文学誌』(田中貴子)によると、中国や朝鮮の絵画のモティーフに多い「猫が蝶を追う」すがたは、実際的なものではなく、長寿を願う縁起のよい画題なのだという。しかしこうしてこの猫は蝶をとらえようとしていたのだから、実際にありえるということになる 


寒いせいか犬も猫も兄弟のように仲よく身を寄せ合って生きている(中国雲南独竜江) 


マンダレーのシャン料理食堂にいた猫。ミャーミャーと鳴いてねだるのがかわいい 


でも食べ物をやらないとムッとする