折々の記 Mikio’s Book Club
宮本神酒男
第9回 天才奇術師が描く奇術師列伝 フーディーニ『奇術師の種明かし』
前回(第8回)書いたように、1920年代、スピリチュアリズム(心霊主義)を固く信じるコナン・ドイルと、その虚偽性をあばこうとした奇術師フーディーニとのあいだで、微妙な緊張戦が繰り広げられていた。ドイルは第一次大戦で息子や親族を亡くしたこともあって、魂の死後の存続を強く信じるようになり、スピリチュアリズムに傾倒するようになっていた。一方のフーディーニは、交霊会でさまざまな心霊現象を見せる霊媒をイカサマと断じ、まったく信じていなかった。そこで使われているトリックは、彼にとって低レベルなものにさえ思えたのだ。
彼らの関係に亀裂を作ったきっかけは、ドイル夫妻がプライベートで開いた交霊会だった。招いたフーディーニのために、彼の母親のメッセージを自動書記によって書きとめた霊媒は、ドイル夫人ジーンその人だった。彼女はプロなみの能力を持ったアマチュアの霊媒だったが、ドイルも本人も、それが本物であるという確信を持っていた。
交霊会の場ではフーディーニは口に出さなかったが、霊媒(ドイル夫人)が書きなぐった紙の上方に霊媒の手で十字架が書き添えられていたたこと(フーディーニ母子はユダヤ人だった)、母語でない英語で書かれていることから、彼はそれが母のメッセージだと信じることはできなかった。のちに彼が懐疑心を持っていることがドイル夫妻に伝わると、彼らは深く傷ついてしまったのである。しかしドイルはそれによってスピリチュアリズムにたいして疑いを持つようになるどころか、「(フーディーニは)自分に具わっている霊媒としての能力に気づいていなかった」(『コナン・ドイルの心霊ミステリー』小泉純訳)という結論にいたったのである。
フーディーニといえば、脱出王と呼ばれるほど、縄抜けや密閉からの脱出が得意だった。若い頃は、妻ベスとともに町から町へと渡り歩き、警察署を訪ねては本物の手錠をかけさせ、集まった大衆の前でそれをはずしてみせた。ドサ回りの時代は、しかしすぐに終わる。ボードビル・シアターの全米チェーンを持つ興行主マーティン・ベックに見出されてから、フーディーニの名はとんとん拍子で全国的に有名になった。やがて彼は脱出の難易度をさらに高くし、橋から両腕を強くしばられたまま凍った川に飛び込むというような危険な離れ業を見せるようになった。
フーディーニは脱出だけでなく、奇術師として、さまざまなマジックを研究し、会得した。そうした奇術師としての自信があるからこそ、信じやすいコナン・ドイルが取り込まれてしまったペテン的な霊媒の存在に我慢がならなかったのである。もし霊媒になっていたら、フーディーニはダヴェンポート兄弟やD・D・ヒューム以上の大霊媒師になっていたことだろう。
フーディーニ名義の著書は数冊ある。そのなかで現在0円本(無料本)が出されているのは『奇術師の種明かし(The Miracle Mongers, an Expose)』(1920)だけである。読んでわかったのは、意外なことだが、その中身の質は高く、情報量が多く、読み応えがあることだった。
しかし本当にこの本はフーディーニによって書かれたのだろうか、という疑問がもたげてくる。巧みにトリックを使うような人間が自分の筆力で書くだろうか。実際、フーディーニにはゴーストライターがいたのだ。
ゴーストライターはフーディーニ(1874−1926)よりずっと若いウォルター・ブラウン・ギブソン(1897−1985)だった。この名を聞いてピンとくる人は、相当の近代アメリカ大衆文化通である。ギブソンは、マックスウェル・グラントというペンネームを使って、コミックにもなったパルプ・フィクション「ザ・シャドウ」を書いた作家だった。300冊を超える「ザ・シャドウ」シリーズは1930年代、一世を風靡した。
このパルプ・フィクションの作者とフーディーニとの間にどんな関係があったのだろうかと思われるかもしれない。じつはギブソンはマジシャンだった。彼はフーディーニのもとに弟子入りし、ゴーストライターになったのである。
つまりフーディーニ名義の『奇術師の種明かし』(1924)は、じつはギブソンの著書ということになる。1927年に急逝するフーディーニがどの程度この著作をチェックしていたかわからないが、少なくとも一部はフーディーニの考えや知識、情報を取り入れていただろう。
この著作でフーディーニ(ギブソン)がこだわったもののひとつは、火の奇術だった。そのためにまず、歴史上の火の崇拝や世界中の火の儀礼について語り始める。古代のギリシア人やローマ人、ペルシア人、メキシコ人、ペルー人、マヤ人らは一様に火を崇拝し、火の儀礼を行っていたと彼は説明する。民俗学者ばりの入り方は、奇術師ならではのこけおどしだろうか。そこに薔薇十字軍や錬金術師パラケルスス、シナイ山のモーセの前に現れた神まで、エピソードをつぎつぎと出されと、読者は完全に煙に巻かれてしまう。
フーディーニ(ギブソン)がスペースをたっぷりと割いて引用しているのは、日本の火渡りだった。これはジェイムソン・リードの「日本の狂信的な火行の儀礼」という記事を元ダネにしたものである。彼はリードの長い描写をえんえんと引用しているが、火渡りという奇跡の行が行われるには、ミョウバンと塩が欠かせないと書くのを忘れていない。いかなる聖なる奇跡にもトリックはあるのだと言いたいのだ。
そしてフーディーニ(ギブソン)は、偉大なる火食い(fire-eating)マスターとして、ムッシュ・シャベール(Chabert 1792−1859)を礼賛する。フーディーニの説明によれば、古い友人のヘンリー・エヴァニオン(1832−1905)から記事の切り抜きやチラシ広告を見せてもらいながら、シャベールやその他の歴代の奇術師たちのことについて聞かされたという。
シャベールは1792年、フランスのアビニョンに生まれた。ナポレオン戦争に参加し、シベリアに追放されたが、なんとか逃亡して英国にたどりついた。その後、彼はパリに戻り、耐熱(heat-resistance)パフォーマンスを行う奇術師になっていた。彼はパン屋の窯を思わせる灼熱する巨大な鉄のキャビネットに入るという目立ったパフォーマンスをおこなった。彼はヤギの脚を持ってキャビネットに入り、出てきたとき、ヤギの脚はこんがりと焼けていたが、彼自身は無事だった。別の日には、燃え盛る石炭でできた樽に入り、まわりがすべて焼け落ちても彼だけは無傷というパフォーマンスをおこなった。
1828年、シャベールはロンドンのアーガイル・ルームで驚くべきパフォーマンスを披露し、センセーションを巻き起こした。彼はリン石でできた食事を楽しんだのである。彼はメイン・ディッシュをリン酸やシュウ酸の溶液といっしょに喉に流し込んだ。それから彼は煮えたぎった油をスプーン数杯分飲み込んだ。さらにデザートとして、素手で取った溶解した鉛を口に入れた。
もちろんこれらのパフォーマンスにもトリックはあるはずだ。アルカリ性のものを使って肌の表皮を固くし、煮えたぎる油や溶解した鉛に耐えたのではないかとフーディーニは推測している。タイミングを間違えば大事故につながる危険なパフォーマンスであることに違いはない。
ついでフーディーニ(ギブソン)は歴代の著名な火食い奇術師の名を挙げる。代表的なパフォーマーとして挙げるのは、チン・リン・フー(1854−1922 金陵福)とチャン・リン・スー(1861−1918 ウィリアム・E・ロビンソン)だ。オリジナルの芸を磨いたのはフーで、少年の首を切るといったショッキングな奇術を得意としたが、火を口に入れる奇術もレパートリーに入れていた。それを真似たスーは、ブルックリン生まれの白人だが、フーの向こうを張り、中国人のようなかっこうをして中国名を名乗った。彼は弾丸を手で受け取るというパフォーマンスを行っているときにあやまって死亡してしまった。奇術師の事故死の最初の例としてこのことはよく知られることになった。
彼らが活躍する百年前の1816年に、シュール・ボアスという奇術師が火の奇術を得意とし「サラマンダー(火とかげ)男」の異名で人気を博した。
2年後の1818年、カールトンという名の化学の教授が、レイ(Rae)という名のバーソロミュー・フェアのマジシャンをつれて巡業の旅をしていた。チラシには「化学教授が奇術のトリックを説明してさしあげます」と謳われていたという。
1820年にはカシリスという奇術師が、少年少女をつれて、ボアスそっくりのパフォーマンスを見せながら英国中を興業していた。そのひとり9才のミス・カシリスは「シナ人の火の手品」を得意としていた。
1843年にロンドンで「南の魔法使い」と名乗って興業を行っていたのは、火の王様こと黒人奇術師のカルロ・アルベルトだった。彼は歌もうまかったらしい。黒人シンガーの先駆けである。
1877年にケラー・カンパニーの一員として世界を回っていた奇術師リング・ルック(中国人の扮装をしていたがブダペスト生まれの白人)は、火食い(fire-eating)だけでなく、刀呑み(sword-swallowing)もあわせて行っていた。この刀は熱せられて真っ赤になっていた。*ちなみにフーディーニの注釈によると、刀を飲む奇術を行うとき、事前に鞘を飲み込んでおくとのことである。
リング・ルックの弟ヤマデーヴァもケラー・カンパニーの一員だった。彼はキャビネット・パフォーマンスと縄ぬけを得意としていた。ヤマデーヴァは巡業先の上海で、ボーリングをしているときに血管が切れて命を落とした。それをはかなんだリング・ルックは、その直後、まるで後を追うように香港で手術中に亡くなった。兄弟はハッピーバレーに埋葬された。
こうした話は、1908年に、アトランティック・シティでケラー・カンパニーの支配人ディーン・ハリー・ケラー自身から聞いたという。あえてこう述べるのは、フーディーニ自身が書いていると強調したかったからだろう。
このあと何人かの火食い奇術師が紹介されているが、ここでは省略したい。そして最後に耐火パフォーマンスを得意としたサザン氏について詳しく述べている。
サザン氏はガス・バーナーを使って、ゆっくりと腕に火を噴きつける。腕全体が炎に包まれることもあった。彼は火箸で白くなるほど熱せられたコイル状の針金を炎から取り出し、それを足に巻いた。そして客から選び出した「検証委員会」メンバーに、本当に熱いのか、本物の炎なのか検証させた。
インター・オーシャン誌によると、これにもトリックがあり、どうやらレモンが用いられているらしい。フーディーニ(ギブソン)は別のところで、アルベルトゥス・マグヌス(1193?−1280 著名な神学者。錬金術を実践したことで知られる)が書き記した耐熱法を引用(ミラー誌からの孫引き)している。
マシュマロの搾り汁と卵の白身、蚤除け草の種、ライムを用意する。それらを打ち砕き、大根の搾り汁と白身を混ぜる。それらすべてをよく混ぜて、あなたの体や手に塗りなさい。しばらく乾かしてから、もう一度塗りなさい。そうすれば熱い鉄を体に押し付けても、無傷ですむでしょう。
フーディーニ(ギブソン)は毒や刀(剣)、カミソリ、はては傘までも飲み込む奇術師たちを「ダチョウ人間」」と呼び、そうしたパフォーマンスをおこなった著名な人々をリストアップしている。
1896年のストランド・マガジン誌が取り上げているのがフランス系カナダ人奇術師のクリクオ(Cliquot)だ。記事には「騎士クリクオ」が22インチ(56センチ)の剣を飲み込んだと書かれている。その後彼のパフォーマンスは過激になり、18ポンド(8キロ)のダンベル2つをつけた銃剣を飲み込んだことがあった。また金の腕時計を飲み込んだことがあった。そのときは医師がすぐ駆けつけ、クリクオの体を調べると、なかからチクタクという秒針の音が聞こえたという。
奇術師たちはガラスや留め金、小石などさまざまなものを飲み込んだ。彼らはパフォーマンスのあと吐き出したが、しばしば吐き出せないこともあった。彼らが病院に運び込まれ、外科手術を受けることも珍しくなかった。
これらのパフォーマンスが危険を伴うため、フェイクの剣が登場するのは当然の成り行きだった。フランスの奇術用品メーカー、ヴォサンは刃が入れ子状になっている剣を作り始めた。
フーディーニ(ギブソン)は悲惨な例も取り上げている。1799年頃、米国人の船乗りジョン・カミングは、奇術師をまねて、船乗りが愛用する折り畳みナイフ4本を飲み込んでみせた。それらは問題なく体外に排出された。6年後、彼はさまざまなサイズのナイフ14本を飲み込んだ。それらは苦痛をもたらしたが、なんとか回復した。しかし1809年に17本の刀を飲み込んだときは、回復することができなかった。死に至ったのである。解剖した結果、ナイフの一本が腸を切り裂いていたことがわかった。
フーディーニは女性の剣呑み(sword-swllowing)の存在に言及している。もっとも有名な女性剣呑みのひとりは、マドモアゼル・イーディス・クリフォード(1884−1942)である。フーディーニ自身、1919年にバルナム&ベイリー・ショーを訪ね、彼女のパフォーマンスを見て強い印象を受けたようだ。
フーディーニがクリクオから直接聞いた話では、偉大なショーマンである奇術師デルノ・フリッツ(1875?−1930年代)はクリクオの弟子であり、このマドモアゼル・イーディス・クリフォードはデルノ・フリッツの弟子であると主張しているという。
このあとフーディーニは石食い(stone-eating)を得意とする奇術師の名を挙げているが、そのなかに日本人の名が見える。フーディーニは1895年、ウェールズ兄弟サーカス団と仕事をしているとき、サン・キッチー・アキモト(San Kitchy Akimoto)一座の年老いた日本人と親しくなったという。座長は秋本三吉とかそういう名前なのだろう。フーディーニはこの日本人(アキモト?)から石食いのテクニックについて教えてもらっている。
それによると、まず小石のかわりに小さなイモからはじめるという。それを飲み込んでは吐きだす訓練をする。イモを次第に大きくしていき、最後には喉がいっぱいになるほどの大きさのイモを飲み込む。
石ではなく、カエルを飲み込む奇術師たちがいた。もっとも知られていたのはノルトンという名のフランス人奇術師だった。フーディーニはベルリンのサーカス・ブッシュ一座でいっしょに仕事をする機会があり、そのパフォーマンスをじかに見たという。
ノルトンはたくさんの成熟していないカエルを飲み込むことができた。あるとき、楽屋に戻ってきたノルトンは一匹のカエルがいなくなったことを気に病んでいた。一匹消化してしまったかもしれないというのである。一匹のカエルもまたノルトンの共演者だったのである。
つぎにフーディーニは毒蛇にかまれるパフォーマンスを見せる人々を紹介している。強く印象に残っているのは、スタイル抜群で美人の「ガラガラ蛇の毒と戦う驚異的な女」サルド(Thardo)である。シカゴのコール&ミドルトン座でフーディーニはともに働いたことがあり、至近距離で観察したことがあるので、彼女が本当にかまれているのは間違いないという。
フーディーニの推測によると、パフォーマンスの前に胃をからにし、大量のミルクを飲むのだという。それによって、毒蛇にかまれても、毒がきくのは胃の内容物だから大丈夫なのである。この説明は説明になっていないようにも思えるが。
サルドは彼女のむきだしの腕や肩でガラガラ蛇をひきつける。蛇にかませたあと、彼女は蛇をはがし、殺す。そこで医師が毒液を抽出し、ウサギに与える。瞬時のうちにウサギは倒れてひきつけを起こし、死んでしまった。ガラガラ蛇から毒を抜き取ったわけではないことが立証されたのである。
思うに、つまりフーディーニは説明していないが、この場合ガラガラ蛇は2匹いて、1匹の蛇の毒だけ抜いていたのではなかろうか。種明かしをすると言いながら、明かしたくない部分の秘密は死守したのではないだろうか。
このように実際暴露された奇術のタネは限られているが、耐火、耐熱、火食い、石食い、耐毒などの奇術についてはずいぶんと詳しく述べられている。その名を冠した映画も数多く作られているので、フーディーニの名は(少なくとも名だけは)広く知られているだろう。しかしイメージと違い、一部はゴーストライターによるものかもしれないが、フーディーニの知識と経験は広く、深く、まるで筆の立つ研究者のようである。その名からオカルトの大家のような印象をもってしまうが、実像はミステリー探求者だったのではないかと思うのだ。