折々の  Mikio’s Book Club  

  宮本神酒男 

 

10回 オカルトの女王が古代の秘密を明かす ブラヴァツキー『インド幻想紀行』 

 
 『シークレット・ドクトリン』や『ベールを脱いだイシス』など、神智学のバイブルともいうべきブラヴァツキー夫人ことヘレナ・P・ブラヴァツキーの神秘的な著作になじんできたので、私ははじめて『インド幻想紀行』(加藤大典訳 2003)を読んだとき、新鮮な驚きを覚えたものである。オカルトの女ボスといったイメージは影をひそめ、それは駆け出しの研究者が書いた随筆のような、初々しさをも感じさせる紀行ジャーナルだった。

 最近になって、私はキンドルで0円本(無料本)の『ヒンドスタンの石窟とジャングルから(From the Caves and Jungles of Hindostan)』(『インド幻想紀行』の英語版)を読み直し、あらためて、ブラヴァツキー夫人がいかにインドの聖地や重要な場所に足を運び、さまざまな思索を重ねていたかを知った。*無料本版(英文)は翻訳版の半分(上巻)にすぎない。


バドリナート上方(西チベット)の洞窟群の一例。 また「キュンルン銀城」参照。

 私が驚いたのは、本書の冒頭の注釈である。

 ヒンドゥー教徒の間には、次のような古くからの抜きがたい信仰があります。それはバドリナート山脈(海抜7200m)上に何千という隠者が住む地下式の広い住居がある、というのです。バドリナート(北インド、ビシャンガンガー川の右岸にある)は、町の中心に建てられたヴィシュヌ神の寺院で有名。(原文はバドリーナトだが、バドリナートに修正した。バドリナートの位置はビシェーグンジ川沿い。また原文の22000フィートを7200mに修正した)

 この著書全体の翻訳は優れているのだが、残念ながらこの節は誤訳だらけだ。バドリナート山脈の上方にあるのは「何千という隠者が住む地下式の広い住居」ではなく、広く大きな洞窟群である。そこに何千年にもわたって隠者らが暮らしてきた。この隠者とは、ギリシアやローマの年代記作家たちが書き記したインドのギムノソフィスト(裸の哲学者)のことである。

 原文には単純に洞窟と書いてあるのに誤訳してしまったのは、訳者自身が19世紀のオカルティストたちの言説をファンタジーとみなしていたからだろう。しかし正しくは「何千年にもわたって隠者らが住んできた広く大きな洞窟群」であり、これはファンタジーなどではなかった。たしかな、貴重な情報なのである。

 私自身、バドリナートの上方(そこは西チベットである MAP)へ行ったことがあり、10か所程度の規模の大きな洞窟群を確認している。規模が大きいというのは、200から300個の洞窟があるということである。確認していないものを含めれば、洞窟群は20か所から30か所にものぼるだろう。10個未満の小規模の洞窟群も含めれば、全体で何百か所にもなると思われる。つまりこのあたりは洞窟だらけなのである。ひとつの岩山に数多くの洞窟が掘られ、内部で洞窟が互いに連結されていることもある。グゲ王宮の廃墟もそのような構造を持っている。

 西チベットほど洞窟だらけの土地は世界に類を見ないだろう。これらの洞窟群についてインド人がその存在を知っていたことが確認できた意義は大きい。ラサを中心としたチベットの人々はおそらく知らないだろうからだ。シャンシュン国の人々は当然知っていただろうし、ボン教徒にとっても常識的な知識だった。

 現在、バドリナートからヒマラヤを越えてチベットに入ったところにあるダパ村周辺の数百の洞窟群は、軍事警戒地域であり、隠者が修行する場所とは程遠くなっている。荒涼とした平原(海抜4300m)にはトーチカが見え、つねに見張られているようで、われわれは自由に歩くこともできない。 

 さて、これらの洞窟は本当に隠者のために掘られたのだろうか? 多くの洞窟が隠者の修行のために用いられたのは間違いない。私が訪ねた一部の洞窟の内部の壁には、煤煙がびっしりとこびりついていて、人がそこで修行しながら生活していたことがうかがえたのである。また私はスパイダーマンのように切り立った岩壁を登って洞窟に入り、修行僧が読んでいた経典を見つけたこともある。

 とはいえ、何千という洞窟すべてが修行のために掘られたとは思えない。たとえばキュンルンというところの洞窟群は古代シャンシュン国(7世紀か8世紀に滅亡)の都と考えられている。この洞窟群は、一種の要塞的な王城の可能性がある。

 チベット人、とくにボン教徒にとって、古代シャンシュン国は理想的な国である。シャンシュン国の中心地域には、かならず洞窟群が存在する。そうするとこれらは隠者の住まいというより、シャンシュン国の民の住居ということになる。

 インド人からすれば、インド北部でもっとも神聖なる場所はシヴァの住むカイラース山である。カイラース山は須弥山(メルー山)のモデルであり、何千年も前から崇拝され、巡礼者が訪れていた。インド平原から聖地バドリナートおよびバドリナート山脈(ヒマラヤ)を越えて洞窟群の多い地域を抜けると、そこには聖なるマナサロワル湖が美しい水を湛え、カイラース山が鎮座するのだ。何千という洞窟は修行者や巡礼者が宿泊するためにも必要だっただろう。

 一方、チベット人からすれば洞窟はあくまで住居であり、要塞であり、ときとしては瞑想のための庵である。カイラース山はシャンシュン国民やボン教徒にとっても神聖な山だった。近年、シャンシュン国の一部であったムスタン(ネパール)地方の洞窟群に科学的な調査が入っている。これらの洞窟は崖の上の方にあり、調査するだけでも危険だが、それでも住居として使われていたことがわかってきている。シャンシュンの人々は、世界でもっとも危険なところに住む人々だったのだ。

 『インド幻想紀行』の主題からははずれてしまったが、西チベットの洞窟群について言及した本はきわめて珍しく、それだけでもこの本は価値があると私は考えている。しかしもちろんそれだけでなく、ブラヴァツキー夫人はさまざまな角度からインドの奥義に迫っているのだ。


 最近私はチベット学の先駆者、ハンガリー人のチョマ・ド・ケレシュ17841842)についてまとめたばかりなので、ブラヴァツキー夫人が比較的詳しくケレシュのことを書いているのを再確認し、あらためて感服した。

 彼女はチョマ・ド・ケレシュについてつぎのように解説する。

 何の手立てもなく、正真正銘の乞食として、徒歩で、見も知らぬ危険な国々を通り、チベットをめざしました。動機はひとえに、学問への愛と自国民の歴史的起源に光を当てることでした。結果は、あの膨大で貴重な文献の山を偶然掘り当てることになったのです。

 ブラヴァツキー夫人は本題からずれるので、具体名を書いていないが、チョマの当初の目的は出自に謎の多いハンガリー人の起源をつきとめるというものであった。もともとチベットに興味を持っていたわけではないが、17もの言語を修得することになり、そのうちの一つの言語として、ザンスカル地方やキナウル地方(ともに現在はインド領)に長期滞在し、チベット語を学び、それにともなってチベット仏教やチベットの文化に詳しくなったのである。

 彼女はザンスカルやキナウルとラサとをごっちゃに扱っているが、当時も今も、前者はチベット国の外であり、後者は都(現在は自治区の都)であって、同等とみなすことはできない。チョマは生涯最後の旅でラサをめざしたが、チベット国に入るのが容易でないことは当然よく知っていたはずだ。

 彼女はまた、チョマが後ろ盾もお金もないのにかかわらずチベット(ザンスカルやキナウル)に入ることができたのは、モンゴル人やチベット人を下等民族とみなさなかったからだと書いている。このあたりは、白人とはいっても英国人から差別を受けていたロシア人であったので、書かずにはいられなかったのだろう。

チョマに後ろ盾も金もないというのは大きな間違いである。著名な探険家であり、東インド会社で力を持っていたウィリアム・ムーアクロフト(17671825)の庇護があったからこそ、ラダックの宰相から理想的な環境を与えられ、学習や研究に集中することができたのだ。こうしたこまかい誤謬はあるにしても、チベット学とインド学の要となる部分をもらさず記すのはさすがだと思ってしまう。

残念なのは、邦題の「幻想紀行」だ。「幻想」よりはるかに多く具体的なことが書かれているのに、この言葉のためにオカルティストのファンタジーだと思われてしまっているのではなかろうか。

 

 ブラヴァツキー夫人はタグ(強盗団)についても詳しく書いている。もちろんthugという英単語になっているほどだから、インドを支配していた英国人にとっては厄介な存在だったのだろう。ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』に(映画『八十日間世界一周』にも)登場するほど、悪名高い存在だった。

 タグ(サグと書く場合もあるが、元の言葉のタグのタは有気音のタ)は、強盗全般を指す言葉ではなく、女神カーリーをかかげるいわば血の秘密結社だった。彼らは一年にひとりは殺してカーリーに捧げなければならなかった。殺人の際には黄色いスカーフを用いて旅人などを絞殺した。入信式は、森の中で、頭蓋骨のネックレスをかけたバヴァーニー(女神パールヴァティーの憤怒相)の像の前でおこなわれた。

 タギー(タグ)はごく最近までおこなわれてきた。あるいはもしかするといまもおこなわれているかもしれない。作家のケヴィン・ラシュビーはタギーが実践されていた地域に入り、『カーリーの子供たち』(Children of Kali 2003)という紀行小説を書いている。最近まで外国人旅行者が絞殺されるという事件が続いており、レポートするだけでも相当の勇気と覚悟が必要だったろう。

 

 この著書にはそれほど多くないが、不思議な物語も収録されている。ブラヴァツキー夫人はラーオ・クリシュナというその到底ありえそうもない物語の主人公と実際に会っている。

 ラーオは14歳のとき、例年通り、父に連れられてハリドワル近くの寺院に巡礼に行った。その年は巡礼者の間にコレラが発生し、多くの人が命を落とした。森の湿地を抜けるとき、ラーオもコレラにかかってしまう。まもなくしてラーオは死んでしまい、父は泣き叫びながら火葬の薪を積み上げた。

 そのときどこからともなく百歳を越えると思われる老いた苦行僧が近づいてきた。その額の印から彼がアドヴァイダ派に属することがわかった。苦行僧はかがみこむようにして若者の遺体をのぞきこんでいた。しばらくすると、若者の体は痙攣しはじめ、息を吹き返した。一方、老苦行僧は若者の横に倒れて動かなくなった。若者は起き上がり、何が起きたかわからずキョロキョロしていた。驚いたことに、彼がコレラにかかっていたことを示す痕跡はきれいに消えていた。

 このエピソードをもとに、ブラヴァツキー夫人はヴェーダンタ哲学者たち(目撃者)と論議をかわしている。彼らは、老いてヨボヨボの肉体を捨て、若者の体に入ったのだから、どちらも損をしていないと主張した。いまで言うウィン・ウィンの関係である。

「ラーオがその霊的性格、霊の不滅の個性を失ったことはたしかです」と夫人は反駁する。

「われわれの霊が個性を持ち、独自のアイデンティティーを持つというのは危険な信念です。人間のなかにある不死の霊は、宇宙霊(ユニバーサル・スピリット)と一体のものなのです」と彼らは答えた。

「するとみなさんは、パラブラフマンが私のなかにも住んでいる、と言うのですか」

「パラブラフマンがあなたのなかに住むのではなく、言うならば、あなたが永遠の存在であるパラブラフマンのなかに住んでいるのです。そしてあなたの霊(アートマン)は、ほかの人間の霊とまったく変わるところはありません。

 いいですか、魂(マナス、あるいは生体の魂、ヴァイタル・ソウル)は、霊のように不死ではありません。霊は、神性、つまり始まりも終わりもなく、創造されることのないパラブラフマンの一部ですが、心は始まりがあり、したがって終わりがあります。マナスは生まれ、成長し、そして死にます。ですから不死ではありません」

 こうしていつものブラヴァツキー節、あるいは神智学調がはじまると、なんとなくうれしくなってくる。彼女自身がこのあと説明するように、彼らの主張はシャンカラチャリヤを信奉したヴェーダンタ哲学(アドヴァイダ派、不二一元論派)の教えなのである。もしかすると上述のエピソードは、アドヴァイダ派が好んで用いた寓話かもしれないが、ブラヴァツキー夫人好みであるのはたしかで、体験談として語っているのかもしれない。真偽などはどうでもいいのである。