折々の記 Mikio’s Book Club
第11回 明治23年の蝦夷地を探索した英国人旅行作家
A・ヘンリー・サヴィジ・ランドー
『われひとりアイヌの地を行く』
明治23年の蝦夷(北海道)にやってきた英国人
不覚にも、英国人旅行作家であり画家のアーノルド・ヘンリー・サヴィジ・ランドー(1865−1924)の存在をごく最近まで知らなかった。チベット紀行の著作が何冊かあることを知り(チャールズ・アレンの『チベットの山』にはランダーの文がたくさん引用されているので、すでに接していたことになる)、それらを読むついでにほかの著書も調べているとき、この旅行記『われひとりアイヌの地を行く』(原題を訳すと「毛むくじゃらのアイヌの地をたったひとりで 馬に乗って蝦夷の旅6000キロ、舟でクリル諸島まで」。まあ、ちょっと差別的すぎる題ではある)に行き当たった。
私がこの本の存在を知らなかったのは(多くの人が聞いたこともないだろう)ひとえに、このタイトルが示すとおり、差別的な表現が内容に含まれるからである。この裕福な文豪の孫からすればアイヌは、いや日本人全体が野蛮な人々に見えたかもしれない。しかし本人にはその意識はなかったであろうし、日本人のだれも調査をおこなっていなかった時代において、この英国人の見聞記はたいへん貴重なものとなった。
それからもう一つ、珍しい記録といえるのは、彼が北方四島にまで足を伸ばしていることだ。そこはすでに日本領のはずだが、クリル・アイヌの人々は木造のロシア正教会の教会に通い、ロシア語を話したという記述がある。これはちょっと日本人としては本を閉じたくなる箇所である。
彼は1889年(明治22年)に横浜の港に上陸すると、翌年、日本人開拓民の入植が進みつつあった蝦夷(北海道)の地に入り、アイヌの生活や身体的特徴を調べ、人物や風景、物をスケッチしながら道内をくまなく回った。
ヘンリー・サヴィジ・ランダーは1865年、イタリアのフィレンツェに生まれた。サミュエル・ベイカーやジュール・ヴェルヌを読んで旅にあこがれを抱く少年であったヘンリーは、アイルランド人画家H・J・サデアスから絵画の指導を受けた。彼がこのような恵まれた環境のもとに生まれ育ったのは、偉大なロマン派詩人であり作家であった祖父ウォルターの存在が大きかっただろう。世界中を旅する作家兼画家になるには、財政と文化的環境のバックグラウンドが不可欠だったのだ。ヘンリーの話に入る前に、祖父ウォルターの生涯について簡単にまとめたい。
祖父ウォルターはロマン派の詩人だった
ウォルター・サヴィジ・ランドー(1775−1864 江藤淳はウォルター・サベッジ・ランドーと表記)は、イングランド中央部ウォーリックの裕福な医者の家に生まれた。彼はオックスフォード在学中に発砲事件を起こして放逐され、ウェールズのテンビーで謹慎生活を送った。この期間中に彼は情熱的な恋を経験し、最初の詩集を書き上げた。彼はしばらくウェールズのスウォンジーを拠点としながら、初期の代表作『ジェビア』を発表する。その後はロンドンに滞在しながらしばしばバースに出かけていたが、ここで婚約者がいる美しいソフィア(アイアンティと呼んだ)と出会う。アイアンティに夢中になった彼は、実らぬ恋と知りながら、彼女に捧げる美しい詩をたくさん書いた。
1808年、半島戦争(スペイン独立戦争)が勃発すると、血気盛んなウォルターは義勇軍に参加した。帰国後、スペインで聞いた実話をもとに『フリアン伯爵』を書いている。また、この時期に彼はモンマスシャーのLlanthony(グーグルマップはスランソニと表記)小修道院を土地ごと購入している。
1811年、ウォルターはバースで行われた舞踏会に参加し、美女ジュリアに一目ぼれする。ジュリアは破産したスイスの銀行家の娘だった。1805年に父親が逝去したあと、莫大な資産を得ていたウォルターは、ジュリアにとって救いの神だったかもしれない。彼らはすぐに結婚した。
その後、1814年、彼らは英国王室領ジャージー島に滞在したあと、翌年、フランスのトゥールを経てイタリアに到着した。コモにしばらく滞在したあと、1821年に彼らはフィレンツェにやってきた。
44年後にヘンリー・サヴィジ・ランドーが生まれることになるフィレンツェに祖父が来たのである。最初の2年間、パラッツォ・メディチのアパートに居を構えたとき、ヘンリーの父親はすでに生まれていた。彼はその後フィレンツェ県内のフィエーゾレに邸宅を購入し、長くここに住むことになる。
ウォルターはこの時期に代表作のひとつ『空想会談』を書いた。そのアイデアは現代のわれわれから見ても斬新である。たとえば『チャリング・クロス街84番地』(ハンフ編・江藤淳訳)が例として示す、イソップと娼婦ロドピとの対話のように、対話してほしいと願う歴史上のふたり、あるいは3人に対話をさせるという試みだ。ただし「ゴーントのジョンとケントの乙女ジョアンナ」のように、馴染みのない名前ばかりが並び、論点がなかなか捕えがたい難解な書であるのもたしかだ。(総計174の会談)
ウォルターは1832年に久しぶりに英国に戻り、旧友や親戚・家族と会っている。その後ルッカ(トスカナ州)に滞在した期間を除くと、家族をイタリアに残し、ほとんどを英国で単独ですごすようになった。
しかし80歳をすぎたウォルターは1857年、イタリアに戻り、ここを終焉の地とすることにした。年表を見ると、彼の逝去は1864年のことであり、孫のヘンリーが生まれるのはその翌年である。ヘンリーが生きている祖父に会うことはなかったが、祖父が整えてくれた環境のなかで生を受け、書籍に囲まれ、文化サロンのような家で育つのである。偉大なる祖父についての話を聞く機会は多かったはずで、その波乱万丈に満ちた生涯にはあこがれに似た気持ちを抱いていたかもしれない。
パリで学び、ヨーロッパや北アフリカを巡り、アメリカへ。そして日本へ
16歳になったヘンリーはパリに行って、ヨーロッパを代表する美術校であったアカデミー・ジュリアで本格的に美術を学んだ。その後もオランダ、スペイン、マルタ、モロッコ、エジプトなどへ行き、絵を描き続けた。画家兼旅行家としてすでに歩み始めていたのである。母国であるロンドンを訪れたさいには、奇才詩人アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンや詩人、批評家セオドア・ワッツ・ダントン、作家エリザ・リン・リントンらと会った。
そして彼はアメリカに渡る。アメリカでは肖像画家としてさっそく好評を博したようである。ハリソン大統領やエイブラハム・リンカーンの孫娘、また当時人気があった舞台俳優の肖像画を依頼されたことがそれを物語っている。ある程度のお金を得たヘンリーはバンクーバーから横浜行きの船に乗った。
『われひとりアイヌの地を行く』の冒頭で「なぜ蝦夷に行くことにしたか、何度も自問した」とヘンリーは明かし、「人生には説明がつかないことがある。この旅もそのひとつだ」と答えを述べている。当時、インドは英国人にとってある意味、身近な存在になっていたが、日本は遠く、足を伸ばす人はそれほど多くなかった。ヘンリーは日本に着いたあと、探検家魂のようなものがもたげてきて、もっと人が行ったことのない未開の地、蝦夷へ行こうと考えるようになったのではないだろうか。
あるいは、あくまで推測にすぎないけれど、英国政府か東インド会社と話をした可能性もありえなくもない。米国大統領の肖像画を描くことができたのも、そのつながりがあったからかもしれない。覇権国家をめざす大英帝国にとって、日本およびロシアと接する北海道の情報は喉から手が出るほど欲していたはずだ。彼は日本のあと朝鮮半島や中国にも行って旅をつづけているが、英国はアジア戦略を立てるさいに、彼によって明らかにされた東アジアの状況を参考にしたはずである。
とはいえ、ヘンリー・サヴィジ・ランドーは当時20代半ばの若者にすぎず、サミュエル・ベイカーやヴェルヌの影響を受けた恐いもの知らずの冒険好きとみるべきだろう。彼は薩摩丸が函館の港に着いたとき、よほどの感銘を受けたようだ。景色を詳しく描写しながら「かぎりなく美しい」とほめたたえている。彼の印象では、函館の景色はジブラルタルによく似ていた。
函館では地元のH氏が出迎えてくれた。H氏によればひとりで蝦夷を一周した人はいないということで、単独で旅をするのは「とても無理だ」と反対した。
「不可能です。それにあなたは若くて華奢すぎる。あなたは言ってみれば骨と皮でできた袋のようなものだ」
ヘンリーが旅に持っていった物のリストがあきらかにされている。2つの籠に、彼は300枚の油彩用の木製パネル、油絵具と絵筆の入れ物、12冊のスケッチブック、3組の靴、3枚のシャツ、3組のウールの靴下、拳銃と100個の銃弾が入れられた。残りの物はH氏の家に置かれた。
こうして最初の50キロだけだが、馬車に乗って蝦夷探索の旅がはじまった。
アイヌに襲われる
洞爺湖や有珠山、室蘭を過ぎて、ヘンリー・サヴィジ・ランドーはアイヌと日本人が半々の幌別(アイヌ語で大きな川の意)村に着いた。ここでアイヌのイメージを決定づける強烈な体験をすることになる。
蝦夷に来る前、彼は幌別のアイヌはみな「よきクリスチャン」になったと聞いていたという。漠然とした安心感もあって、彼は茶屋に荷物を置き、絵描きの道具だけを持ってビーチを散歩した。遠くに人だかりがあったので近づくと、漁民が長いナイフを使って牛魚(スケトウダラ?)という大きな魚の皮をはいでいるところだった。彼らは作業に夢中で、ヘンリーの存在をほとんど気にかけないように見えた。彼に言わせると「同時に二つのことを考えられない人々」なのだという。
彼はこの光景が「絵になる」と考え、急いで絵描き道具の箱を開けて描き始めた。そこに魚を手に持った少年が近づいてきて、絵を描く様子を眺めはじめた。「何をしているの?」と聞かれたヘンリーが、人々全体を描いているのだと答えると、少年は漁民のなかに入ってヘンリーのことについて話し始めた。
しかしこのことは予期せぬショックを彼らに与えてしまった。その驚きは嫌悪と怒りに変わっていったのである。彼らが口々にぶつぶつと不満げにつぶやいていたかと思うと、ひとりがヘンリーの耳元で、大声でどなった。
すると彼らはいっせいにヘンリーにとびかかった。絵具道具や絵、パレット、筆はもぎ取られ、投げ捨てられた。彼らはヘンリーを砂の上に倒して、手や足を押さえ、ナイフを頭上に突きつけた。せっかく描いた絵も破られてしまった。
キリスト教徒になったと教えられた人々から暴行を受けたことに彼は大変なショックを覚えたようだ。彼は生命の危機さえ感じていた。
「あの世への最初の一歩を踏み出したようだった。道中どちらが連れになるか、天使と悪魔が言い争っていた。そしてもちろん、大きな鎖を持った悪魔が勝とうとしていた」
しかしそのとき蹴りを入れられ、彼は立ち上がり、その場を去ることを促された。彼が起き上がって見ると、絵具箱は壊されて海の上に散乱し、筆はあちこちの砂の上にめりこみ、スケッチは破られていた。
よほど腹に据えかねたのか、ヘンリーは茶屋に戻り、荷物から拳銃を取り出すと、ビーチに戻ってきた。茂みの陰から覗くと、ヘンリーをまねて画家ごっこをする者もいれば、寝そべった少年に向ってナイフをつきつけるシーンを再現する者もいた。抑えきれなくなったヘンリーは彼らに拳銃を向け、自分といっしに来るよう促した。前を歩かせながら、彼は彼らを鷲別村にある唯一の警察署に連れて行った。そして二度とこういうことをしないよう約束させたのである。
アイヌの代表者のひとりは、つぎのように説明した。「奇妙な作り物の魚」(魚の絵のこと)を破壊しなければ、海の中の魚が消えてしまうだろう。するとすべてのアイヌが餓死してしまうことになるだろう」と。この襲撃事件は彼らの迷信深さに起因するものだったのだ。
おそらく彼らはヘンリーに危害を加えるつもりはなかったのだろうが、商売道具でもある絵具や筆をばらまかれ、せっかく描いた絵を破られたのには我慢がならなかったのである。この小さなほろ苦い体験によって、彼のアイヌを見る目が厳しくなったのは、致し方ないことだろう。
奇祭イオマンテを見る
1890年(明治23年)にヘンリー・サヴィジ・ランドーがピラトリ(平取)に来てイオマンテ(熊送り)を見たことは、ほとんど知られていない。それは彼の文章に差別的な表現がたくさん含まれていることと無関係ではないだろう。
そもそも本書のタイトルに「毛むくじゃらのアイヌ」という表現が用いられているのだが、作者自身が序文で示すように、アイヌの語源であるAi-numという言葉が「毛深い人々」を意味しているのだ。
彼はイオマンテを「野蛮で動物的」で「人間の理性に反する獣の感覚」と、差別的な表現で形容する一方、「こんなすばらしい光景は見たことがない」とほめちぎってもいるのだ。煙が充満して薄暗くなった祭礼の現場に一条の光が射す光景は、「レンブラントなら喜んで描くだろう」と彼は興奮気味に述べている。
3人の長老たちはその長い髭を鉢に浸し、偉大なる太陽神「チョプ・カムイ」に向って振り、敬礼した。この時点で小屋の中は人と煙でいっぱいだった。人は200人近くいて、すし詰め状態だった。彼自身、長老たちに向って髪と髭を撫でるポーズを取り、群衆を抜けて小屋の外に出た。
外ではきれいな乙女たちがタプカラというダンスを踊っていた。彼らはときには中央にひとりか二人の子供を置き、輪になって踊った。彼らは手を叩いて拍子を取り、「ウーエ、ウーエ(火、火)」と叫び、火を作るときの息を吹く仕草をした。
それから彼らは「ル、ル、ル、ル」と声に出しながらロープを引っ張る仕草をし、「ピレロ、ピレロ」と言いながらカヌーをこぐ仕草に移った。
アイヌの人々はスポーツ好きで、一種の競馬を楽しんだ。体重の軽い人々から騎手が選ばれる。勝者は勝利を満喫するが、敗者は群衆によって馬から引きずりおろされという。
その夜、部屋に退いたヘンリーのもとに長老のベンリが訪ねてくる。
「ニシュパ(旦那さま)、あなたの国に戻られましたら、ピラトリはすばらしい場所だったとお伝えください。アイヌはみないい人だとおっしゃってください。シャモ(日本人、あるいは日本人とのハーフ)とはまったく違っていたと」
彼はそう言ってヘンリーの手を取り、彼の毛むくじゃらの胸に押し当てた。そして彼の小屋へ連れていき、彼の妻と家に最後の別れを告げさせた。それがアイヌの別れのエチケットだった。
蜘蛛の巣だらけの部屋に泊まる
現在の日高本線に沿って海岸線を進み、ヘンリーは美しい漁村様似(サマニ)を通って、幌泉(えりも町)に達した。彼は襟裳岬の風景画を描いているが、スケッチしただけで幌泉に戻ったのだろう。彼は岬の向こう側の庶野(ショヤ)へ行くのに、熊が出没する危険な山の中のルートを選んでいる。
庶野の崖は美しいが、漁村は貧しかった。宿の主人に食事を頼もうとすると、こう言ったという。
「私たちはとても貧しいのです。米はちょうどなくなってしまいました。ほかの村人はもっと貧しくて、食べ物などありません。この数日天候が荒れているので、魚も獲れないのです」
ヘンリーはもう14時間も何も食べていなかった。そのあと18時間から20時間は食事にありつくことができそうになかった。しかし疲れていたので、部屋で休んで睡眠を取ることがベストの選択だった。
しかし宿の部屋に入ると、中は蜘蛛の巣だらけだった。蜘蛛は部屋の空間いっぱいに、縦横無尽に糸を引いていた。しかも数百匹の蝿や虻が飛び回っていた。天井の隅には巨大な蜘蛛がいて、ビッグサイズの虻を捕え、舌鼓を打って食べていた。ヘンリーは蜘蛛にたいしてさえうらやましいと思った。
寝床は固い木板だったので、なかなか眠れなかったが、なんとか睡眠に落ちた。しかし巨大蜘蛛に食べられる悪夢を見たという。
泥棒は宿の主人
ヘンリーは十勝川の河口の大津から、2頭の馬を使って丈の高い葦と草がぎっしりと生えた湿地帯を抜けた。その先にはヤマクビロ(?)やチオタ(?)、ヤンマカ(?)などと呼ばれるいくつかの集落があった。ヤンマカの宿の主人は悪党だった。ヘンリーがデッサン画を描いたお礼に、少女に銀貨を渡したとき、その様子を見ていた彼の目つきからそれがわかったという。視線はヘンリーのチョッキのポケットに注がれていた。
その夜、ヘンリーが寝入ったものと思った主人は暗闇の中、部屋に忍び込んできた。彼が聞き耳をたてたとき、ヘンリーはいびきをかくふりをした。彼はチョッキのポケットをまさぐった。しかしポケットの底は抜けていたのだ。ヘンリーは主人の腕を抑え、右手の拳で彼の頭に一撃を加えた。
部屋の隅にとびのいた彼は、ふるえる声で、隅は風が入って寒いので、あなたの暖かい隣で寝ようと思っただけだと下手な言い訳をした。翌朝、危険な2か所で川を渡らなければならないので、途中まで送りたいとその悪党の主人は申し出たが、ヘンリーは断った。その日の午後には帯広に着いた。
帯広で渡辺勝、カネ夫妻と会う
30時間以上も食事を取れなかったり、蜘蛛の巣だらけの部屋に泊まったり、盗難にあいそうになったりと、この何日間は苦難の連続だった。それだけに帯広で会った洗練された渡辺夫妻には驚かされたようだ。渡辺夫妻の住まいも、外側はあまりぱっとしなかったが、中は「天国かと思うほどすばらしくきれいだった」のである。
渡辺勝は8年か10年前に本土からやってきた入植者だった。妻(カネ)と彼女の父とともに、本土からジャンク船に乗って十勝川の河口に着いた。そこからアイヌのカヌーに乗って十勝川をさかのぼり、文明から遠く離れた帯広に開拓地を開いたのである。最初こそ現地の人々とのトラブルが絶えなかったが、いまではだれからも愛されるようになっていた。ふたりの子宝にも恵まれ、世界の喧騒からも、世俗の煩わしさからも離れて理想的な生活を送っていた。
ヘンリーは馬に乗って近くのフリシコベツ(おそらく伏古別フシコベツ)村を訪ねている。ここには28の家があり、互いに数百ヤード離れていたという。十勝川上流のアイヌの家や小屋は、沙流川アイヌや噴火湾アイヌが使う葦のかわりに、木の皮を用いるという特色があった。
彼はこの村で一風変わった言い伝えを耳にしている。ここのアイヌの女たちは、祭りのために自ら小熊に授乳して育て、太らせると言う。また、女たちが食べ物を噛みくだき、赤ん坊の熊に口から与える情景がしばしば目撃された。
トカプチ地区のアイヌは戦争に明け暮れる民族だった。互いに夜討ちをかけることはしょっちゅうだった。そのときに殺したり、女を奪って奴隷にしたり、妾にしたりした。噂によれば、たんに殺すだけでなく、食べることもあったという。カニバリズムがおこなわれていたというのである。
こう書いたあとで、ヘンリーはこれらの風説を否定する。彼が旅の途上で会ったアイヌはほとんどが穏やかで、親切で、平和的だったという。彼は何度かアイヌの村で悲惨な体験をしているが、それはきまって「よく文明化された」と言われるアイヌの地域でのことだった。
ヘンリーは渡辺勝とともに帯広の北方の山に登ったことを、よき思い出として語っている。彼らはフリシコベツ(伏古別)村まで馬に乗って行く。彼らは馬をここに置き、アイヌのカヌーに乗って十勝川を渡り、さらに北方へ数マイル進むと、山の麓に至る。そこは切り立った崖のような斜面だった。しかしアイヌ語でウナチャロという登攀すべきポイントがあった。渡辺は何度も熊狩りに来ていたので、そのあたりのことは熟知しているようだった。彼らはナイフで木の枝や茂みを切ったり、折ったりしながら進んでいった。そうやって鬱蒼とした灌木の林を数時間かけて抜け、頂上に達すると、そこから見える絶景は苦労に報いるすばらしいものだった。眼下には十勝平野が広がり、それは海にまで達していた。そして丈の高い草と葦からできた緑の下地に、無数の銀色のリボンが這い、光り輝いていた。
ヘンリーが記した名称は現在と違っている場合があり、混同も見られるので、整理しておこう。オプタテイシケ連峰は、オプタテシケ山地のことだろう。この最高峰はオトプケ山で、富士山に似ているという。
音更山(1932m)はそれほど遠くないが、石狩岳(1967m)の向こうの峰のことであり、大雪山山系に属する。このあたりの最高峰はトムラウシ山(2141m)であり、つぎがオプタテシケ山(2013m)である。富士に似ているのであれば、その南側にある美瑛富士(1888m)のことかもしれない。ヘンリーは、オトプケ山の北東にはニピリベツ温泉が湧き出ているとも記している。音更山の東方にピリベツ岳という山があり、そこから流れる川がピリベツ川とすれば、オトプケ山はやはり音更山ということになる。それにオトプケ山へ行く道は然別(しかりべつ)川とオトプケ川のあいだの谷間のルートだというのだから、やはり音更山でいいのかもしれない。このあたりのことはもう少し調べたい。
ヘンリーは然別(しかりべつ)川を渡るとき、鮭の川上りを間近に見て感動している。間近どころか、あまたの巨大な魚が彼の足をかすめて泳いでいったのである。私(宮本)もカナダで鮭の川上りを見たことがあるが、たしかに大きな体の魚が水量の少ない浅瀬を必死に上って行くさまは感動的だった。
こうして渡辺勝と訪ねた大自然の思い出について語ったあと、ヘンリーはあらためて渡辺夫妻を賞賛している。
「渡辺とその妻ほど文明的で、親切で、思慮深く、心やさしい人々に会ったことがない」
そして結論に達する。
「文明は野生を悪くしてしまうものだ。しかし野生の生活は文明的な人々をよくするものなのだ!」
宿で大立ち回り
帯広を去ったヘンリーは、十勝川河口の大津に一泊する。ここにイノマタ・ヨシタロウという名の日本人が経営する宿屋があった。ヨシタロウはヘンリーに「ヨーロッパ式ディナー」を出した。それは生の鶏肉を細かく切ったものに、生の鮭、大根とごはんを添えたものだった。ヘンリーはとても生では食べられないと思い、火鉢の上で肉を焼こうとしたが、ヨシタロウは「焼かないで食べてください」と言うのである。
北海道に鶏は珍しかったので、こんな高価な生き物を殺すべきではないのではないかと彼はヨシタロウに言った。するとヨシタロウは日本式に深々と頭を下げて言った。
「さようでござります。しかるに」と彼は間を置いて、理屈を述べた。「この鶏はとても年老いていまして、殺さなかったとしてもじきに死んでいたのです」
彼はディナーを供するかわりに、12枚の肖像画を描くことを望んだ。写真家とまちがわれたのかもしれないとヘンリーは考えたが、翌日一枚の小さなスケッチを描くことを約束した。
翌朝、ヨシタロウは男女の友人とともに部屋にやってきた。彼らの肖像画を油絵で描くと、彼らは非常に喜び、ヨシタロウはその絵を大事そうに箱の中に入れた。そのあとシャウベツ(尺別?)へ向けて出発しようとすると、ヨシタロウが戻ってきた。先ほどとは違った顔のヨシタロウだった。彼は請求書を差し出した。そこには16円と書かれていた。北海道では、食事込みの宿代が1円を超えることはなかったので、16円はべらぼうに高かったのだ。これがヨーロッパ式ディナーの値段なのだろうか。
頭に血が上ったヘンリーはヨシタロウの首もとをつかみ、激しく揺さぶった。彼の友人らが助けようと近づいたとき、彼は床の上にヨシタロウを叩きつけた。友人らはヨシタロウを隣の部屋に運んでいった。ヘンリーが重いかばんを持って去ろうとしたとき、隣からヨシタロウが妻に刀を持ってこいと命じたのが聞こえた。彼が「馬鹿な異人さん」を殺そうとしているのはあきらかだった。隣の部屋に入ると、火鉢の傍らで青ざめてふるえるヨシタロウを8人から10人の男が取り巻いていた。みな小さなパイプのたばこを詰めながら、どうすべきか討議していたところだった。ヘンリーはポケットから拳銃を取り出した。じつは弾は装填されていなかったのだが。
「ヨシタロウ、絵をここに持ってこい」
「いやだ、断る」
「そうだ」と仲間たち。
「ヨシタロウ!」とヘンリーは拳銃を彼に向けた。「20数えて、持ってこなかったら、おまえの命はないと思え」
異人を脅していた男たちは瞬時のうちに飛びのいた。ある者は西洋式の窓から、ある者は障子を破って外に出た。人数分のパイプとタバコの粉だけが床の上に散乱していた。ヨシタロウだけがふるえてそこに縮こまっていた。
ヘンリーは数を読み上げて行った。16まで数えたとき、ひとりの少女が「旦那さま、絵はどちらにあるのですか」と聞いた。少女はなかなか絵が入った箱を見つけることができなかった。20を数えたときと、絵が見つかったときはほぼ同時だった。
集まって遠目から眺めていた村人の前に彼を引きずり出して、もう二度とこういうことはしないと約束させた。そのうえでヘンリーはヨシタロウに気前よく16円を渡したのである。2円は宿代の清算、14円は彼の健康のためという理由で。
盗人に追い銭のようなことをなぜしたのかと思うが、村人の前で恥をかかせたのだから、十分の罰を与えたと思い、むしろこのお金で悪行を反省してもらいたいと考えたのかもしれない。ともかくもこうしてヘンリーは十勝川河口の大津を出発し、釧路方面へと向かった。
白人は汚い?
釧路の町自体はそれほど美しくないとヘンリーは感想を綴っている。町の通りは広く、そこを通る線路は春採(はるとり)鉱山で採れた石炭を運ぶために敷かれたものである。この鉱山は江戸時代後期にはすでに開発されていたのだ。
川岸に沿って、高台の上や、春採湖と海の間の砂地にいくつかのアイヌの小屋が建っているという。しかし不幸なことに、アイヌの人々は日本人に雇われているために、日本人の着物を着て、習慣やマナーを取り入れ、言葉も日本語を使うようになっていた。若いアイヌには純潔がほとんどいなくなっていた。
日本人とのハーフのアイヌが日本式の入浴をしていることに、ヘンリーは興味を持った。ニシンを煮てその油を抽出する大釜を用いて、入浴するさまを彼はこまかく描写している。石や土を円筒状に固めて土台を作り、その上に大釜を載せる。薪を大釜の下に入れて火をつける。大釜に入れた水が高温に達すると、藁のサンダル(わらじ)をはいたまま、やけどをしないように気をつけながら中に入るのだ。もちろんこれは五右衛門風呂のことである。ヘンリーは入浴に誘われたが断っている。やけどをしそうで怖かったのだろうか。
彼が興味を持ったのは、清潔好きとは言い難いアイヌが喜んで入浴していたことだろう。ヘンリーに言わせれば、アイヌは中国人と似た考え方を持っていた。
「あんたら白人は汚ないに違いねえ」と澄んだ川に飛び込んだヘンリーを見て、アイヌの男が言った。「毎日川で体を洗ってるんだからな」
「あんたはどうなんだい?」
「旦那」と軽蔑のまなざしで彼はヘンリーを見た。「おれはきれいだ。だから体を洗う必要などねえんだ」
コロポックル
釧路に来たヘンリーは、コロポックルにすっかり夢中になった。現在、北海道を訪ね、土産物屋をのぞくと、かならず売られているのが可愛らしいコロポックル人形である。観光客のほとんどがそれをアイヌに伝わる妖精伝説、あるいはこびと伝説と考えているようだ。児童文学『コロボックル物語』(佐藤さとる)のこびとの妖精のような主人公として知っている人も多いかもしれない。
明治時代の初期に北海道東部を訪れたヘンリーは、コロポックルをミステリアスな先住民と考え、興味をそそられたのである。コロポックルとは、アイヌ語で「竪穴に住む人々」という意味であると彼は述べている。ウィキペデアには「蕗(ふき)の葉の下の人」という意味だと説明されている。
釧路近辺には無数の竪穴住居跡が発見されている。とくに春採湖東岸の丘には、3マイルから4マイルにわたって竪穴住居跡が並び、湖と海の間の砂地にはいくつかの巨大な竪穴住居跡が発見されている。海岸近くにはシリトと呼ばれる要塞跡があり、丘の並びの端にはモシリヤという要塞跡が残っているという。とくに後者からは石器の武器が多数発見されている。
これだけはっきりした住居や要塞の跡を残しているのに、彼らは蝦夷(北海道)やクリル諸島(千島列島)から姿を消してしまったのである。ヘンリーは自らに質問を投げかける。
これら竪穴住居人はだれなのか? 彼らはどこから来て、どこへ去ったのか?
アイヌの人々によれば、彼らはこびと族で、アイヌにとって敵であり、長年の血なまぐさい戦いのすえ、根絶やしにされたという。しかしその戦いがいつ、どこでおこなわれたか、だれも明確に答えることができなかった。
彼らの身長は3フィートか4フィート(90センチ〜120センチ)しかなかった。伝説によっては数インチ(およそ10センチ)しかなかったということになっている。ほとんど一寸法師のようである。あまりにも小さくて、雨が突然降り始めたとき、蕗(ふき)の葉の下に隠れることができたほどである。(上述のようにそれが名前の由来)
別の説によれば、コロポックルはアイヌの祖先だという。そして現在のアイヌよりも毛むくじゃらだったという。彼らは頑丈で、狩猟が好きで、すばやく山を越えることができた。バチェラー氏によれば(アイヌ研究で知られる宣教師)アイヌ自身、以前竪穴住居に住んでいたと語ったという。日本人が来るようになってから、家の建て方を彼らは変更した。しかしこれはありえないことだとヘンリーは主張する。日本の家の建て方を取り入れたのに、日本の生活習慣を取り入れていないのは不自然なのだ。
多くのアイヌは、コロポックルを先祖ではなく敵とみなしている。まったく異なる民族と考えるほうが自然だろう。バチェラー氏の考えでは、竪穴住居人はアイヌの先祖ではあるが、とくに色丹(シコタン)や他のクリル諸島のアイヌとつながりが深いのだという。色丹の住人は蝦夷(北海道)のアイヌより背が低く、あまり見栄えがせず、思慮深くない人々だとバチェラー氏は断じている。これはひとつの意見にすぎないが、彼らはいまでも竪穴住居人なのだから、竪穴住居人と呼ぶことにまちがいはないとヘンリーは述べる。
しかし色丹のアイヌが蝦夷のアイヌより小さいという指摘は間違っているとヘンリーは言う。彼は1890年9月に色丹島を訪ね、人類学者のようにアイヌの人々の身体を測定したのだ。
計測の結果、色丹のアイヌの平均は61から62インチ(150センチ余り)で、蝦夷のアイヌの平均も61から62インチだった。身長はまったくおなじだったのである。ただし腕が長い体型は色丹アイヌのほうに多く見られた。また脛骨が丸いのも色丹アイヌの特徴だという。
根室の新聞記者たち
このA・ヘンリー・サヴィジ・ランダーの紀行本は地名やできごとの記述が詳しく、信憑性を疑う余地はないように思われる。帯広の渡辺夫妻とのやりとりなどは、地元の資料もあり、油絵も残っていて、相互に信頼性を高めている。
しかし信憑性が揺らぐ箇所もいくつかある。それが根室新聞の記者とのやりとりの場面である。
そもそも根室新聞という新聞があったかどうかがあやしいのだ。もちろん根室新聞という新聞は存在するのだが、創刊は半世紀あとの1947年である。うがった見方をするなら、記者たちの英語能力を低くみる内容だけに、あえて存在しない新聞名を使用したのかもしれない。新聞名が仮名なら、場所もまた実際の場所とは異なるのかもしれない。部分の信憑性が低いと、全体の信憑性にも影響を与えるので、名前や場所を変更するさいには気を配らねばならない。それとも何らかの理由で初代根室新聞の名は記録から抹消されてしまったのだろうか。
記者とのやりとりはつぎのようになっている。場所はジャマルル(ヤマルル?)という名の茶屋。そこで食事を取っていると、4人の日本人の若者がやってきて握手を求めた。ひとりはヘンリーに名刺を渡した。そこには「Nemuro Shimbun K・Sato」と書かれていた。
「おお、根室には新聞まであるのですね」
「イエス」と答えながら、湯浅という青年が自分の名刺をヘンリーに渡した。
「あなたは英語を話せるのですね」
「イエス」
「何か飲み物、あるいは食べ物でもいかがですか」
「イエス」
「何がよろしいですか」
「イエス」
「日本酒はどうですか」
「ノー、ノー、我々は話をしにきただけですから」
「ありがとう」
「ノー、ノー、根室新聞があなたの命を取る(take your life)のです。どうか教えてください。あなた、どこ? 何歳? どこ行く?」
命を取ると言われてヘンリーはドキリとしたが、その奇妙な英語は湯浅氏の恥ずかしがり屋の性格のせいだった。しばらく話すうちに彼が十分な英語の知識を持っていることがわかってきた。結局インタビューは数時間にも及ぶものになった。
その日の午後、新聞社のスタッフが金持ちの商人である中村夫妻をつれてきた。そしてヨーロッパ式ディナーに招待したのである。大津でのことがあったので、ヨーロッパ式ディナーには拒絶反応を起こしたが、親切な招待を断るわけにはいかなかった。
ディナーはビスケットとジャムからはじまった。つぎにスープ、野菜、ロースト・チキンの順に出された。そしてサラダ、魚のフライとつづいた。今度のディナーは本物のヨーロッパ式といえたし、なんといってもよく調理されていた。
ホストたちを見ると、ナイフとフォークを使うのに悪戦苦闘しているようだった。とくにチキンの「解剖」は決定的に彼らの弱点だった。見渡すと夕食会の参加者全員が苦労していた。人によってはチキンを刻むのをあきらめていた。ある者は果敢に挑戦した。その結果あちこちから、ナイフが皿をこすって発するキーキーという音が響いた。
南クリル(北方四島)を訪ねる
冒険者魂のようなものに駆り立てられたのか、ヘンリーは南クリルを、おそらく色丹(しこたん)に短期間上陸しただけのようだが、訪ねている。北方四島と書きたいところだが、そもそもヘンリーは歯舞(はぼまい)島についてはひとことも触れていない。他の島と同列に並べるにはあまりにも小さすぎるのだ。
ヘンリーがどの程度領土問題に関する知識があったかわからないが、彼がここに来る35年前の1855年に、択捉(えとろふ)島と得撫(ウルップ)島の間に国境線が引かれ(つまり北方四島を日本領とする)、15年前の1875年に千島列島全体が日本に帰属している。
しかし実体はかならずしも国同士の取り決め通りにはなっていない。ヘンリーが色丹に上陸して見たのは木造のロシア正教教会だった。イグサや葦で作ったアイヌのほかの粗末な小屋と比べると、立派な建物だった。村長のジャッコ(=ジャック)が教会の聖職者を兼ねていた。前任者のアレクサンドロヴィッチと同様、彼も洗礼を受けてアイヌの名前を捨てていた。
蝦夷(北海道)のアイヌが日本語を少なからず話すように、クリルのアイヌは母語のアイヌ語方言以外にロシア語を話すことができた。このあたりの状況は、ヘンリーが去ったあと、日本統治が進むにしたがい、変わった可能性がある。
ヘンリーは日曜ミサについても述べている。日曜日(ジャッコが日曜だと考えた日が日曜日)、集まったロシア正教を信じる59人のアイヌ・クリスチャンの前で、ジャッコはミサをとりおこない、説教に惜しみなく時間をさいた。聴衆もまた一生懸命にそれを聞いていた。しかし募金プレートが回っていなかったことからしても、心の底から彼らがクリスチャンになったとはいえないだろうとヘンリーは考えた。それというのも「野蛮な考えや迷信が頭の中に根付いている」からである。
90人のアイヌが色丹に移されたが、ヘンリーがここを訪ねたときにはすでに30人が病に倒れて死亡していた。彼らの多くが結核やリューマチに悩まされていた。この現状を見たヘンリーは「10年以内にクリル・アイヌは地上から消えるだろう」と悲しい予言をしている。
通りすがりのラブ・ロマンス
探険する者は、現地の人と恋に落ちることはないのだろうか。映画やドラマならともかく、実際に僻地や奥地を探検する者のロマンスなど、ほとんど聞いたことがない。ここまで読み進んで、こんな人口過疎なところばかりでは、ヘンリーも恋に落ちるどころではないだろうと思っていると、ようやく美しいアイヌの女性と出会うことになった。さすがは情熱的な恋に生きたロマン派詩人の孫の面目躍如である。
クリル諸島にまで足を伸ばしたヘンリーは、根室に戻るとすぐ出発し、知床半島の根元を抜け、網走をへて、サロマ湖入り口のトブツ(北見市トウフツ)という集落に一晩泊まった。現在の常呂遺跡の近くである。集落といっても、数軒アイヌの小屋があるだけだった。ここでは大きな牡蠣が採れた。厚岸(あっけし)の牡蠣(かき)ほどおいしいわけではなかったが、牡蠣の食事には堪能できた。しかし牡蠣以上にヘンリーを喜ばせたのは、エキゾチックなアイヌの美女だった。
湖畔の牧歌的な黄昏のなかで風景をスケッチしているとき、アイヌの小屋から出てきた女性の美しさにヘンリーは息をのんだ。彼女が着ていた衣を脱ぐと、胸や腕、足があらわになった。彼女の腕には刺青が施され、上唇には黒い環が描かれていた。彼女はヘンリーのほうにやってきて、立ち止り、じっと見た。彼もまた彼女をじっと見た。彼女の瞳にみつめられると、彼は全身を射抜かれたような気がした。彼女の右手は木の皮でできたバケツを持ち、左手は蔦をなえた縄を持っていた。やわらかな黄昏の光のなか、彼女の長い髪は、そよ風に吹かれてなびいていた。まるで夢から飛び出してきたかのようだった。
「ワッカ!(水!)」老いた男の声が中から聞こえてきた。彼女は小川へ行き、バケツに水を汲んで戻ってくると、そのまま家の中に消えた。しかしすぐに現れると、ヘンリーのほうに近づいてきた。彼は急いでスケッチを仕上げる。
「腕のタトゥーを見せてもらえないか」とヘンリーは彼女にきいた。すると彼女は両腕で彼の手を包みながら、タトゥーを見せた。彼女は頭を彼の肩にもたせかけてきたかと思うと、彼の手を強く握りしめ、それを胸に引き寄せた。そしてヘンリーを近くの森に引っ張っていった。
彼らは夕暮れ時の森を歩いて回った。腰を下ろし、おしゃべりをし、それから愛し合った。「彼女のいちゃつきかたが、特別で、変わっていなかったら、このことについて記さなかっただろう」とヘンリーは書いている。
彼女は愛撫しながら、噛むのが好きだった。薄暗闇の中で岩の上に坐ると、愛された犬が主人にそうするようにやさしくヘンリーの指を噛んだ。彼女はそれから彼の腕を、肩を噛んだ。彼女が情熱に体を任せたときも、彼の首の回りに腕をまわして彼の頬を噛んだ。
とても変わった愛し方だとヘンリーは思ったけれど、感性が新しすぎたせいか、彼は疲れを感じ、早めに部屋に戻った。
その夜、牡蠣殻のランプの明かりのもとでヘンリーが日記を書いていると、だれかが音もなく忍び寄ってきた。彼女がやってきたのである。それは望外な喜びだった。彼女は彼を愛撫し、またも噛んできた。彼はそのときはじめて、彼女らにキスの習慣がないことに気づいたのである。
現在のわれわれからすれば驚きなのは、その夜かぎりでふたりは別れていることである。文字通り、一夜妻なのだ。ここに定住して将来の観光客増加を見込んでホテルを開業するとか、彼女を連れて行きたいとか、そういうことはまったく考えもしないのだ。彼女のほうがこの突然現れた異人さんのことをどう思ったかはわからない。しかしもう少し引き留めたかったのは間違いないだろう。
ヘンリーは、旅行作家としては駆け出しだった。旅の経験はすでに相当積んでいたけれど、出版物としてはこの書が最初なのである。ロマン派詩人として名を馳せた祖父のウォルター・サヴィジ・ランダーや尊敬する旅行作家サミュエル・ベイカーと肩を並べるためには、旅の途上で感情にほだされて、立ち止るわけにはいかなかったのだ。
増毛古道を行く
ヘンリーはサロマ湖を出発したあと、オホーツク海を右手に見ながら北上し、最北端の宗谷岬に達する。それから南下し、天塩(てしお)や留萌(るもい)を過ぎて、増毛(ましけ)に至る。
正直言って、このあとの難所を通るルートの特定がなかなかできず、何度も読み直さなければならなかった。ようやく理解できたのは、ヘンリーが取ったルートは増毛古道なのである。ネット上のいくつかのソースによると、この古道は江戸時代後期に開削された増毛の別苅(べつかり)と浜益(はまます)の幌とを結ぶ山道のようだ。海岸沿いに道路が開通し、すっかり廃れていたが、最近は古道ブームもあって復活しつつあるという。
そもそもなぜ山のルートを取るのかわからなかった。ヘンリー自身の説明によると、海はひどく荒れていて、カヌーで行くには危険すぎるのだという。しかし雨が降ったせいで、陸地のルートを取ったのはいいが、川の水量が増え、渡るのは困難をきわめた。そこで彼は馬を置き、荷物を頭の上にくくりつけて激流を渡り始めた。地元の人々はそんなヘンリーを取り囲み、危ないから渡らないように忠告した。それをも振り切って川の中央にさしかかったとき、水面は口の高さに達し、流されないように必死にこらえた。
そのとき川岸から「危ない! 危ない!」という合唱が聞こえた。それは絶叫に変わった。彼が振り向くと、大木の幹が目の前に迫っていたのだ。それは体に激しくぶつかり、彼を激流に投げ飛ばした。
気がつくと彼は川岸の浅瀬に打ち上げられていた。しかし右足がふたつの石のあいだにはさまれたため、ふたたび倒れ、そのときに踵(かかと)の骨が折れてしまったのである。半分気絶し、溺れかけたヘンリーは、人々によって水から救い出されたが、寒さのため木の葉のように震えていた。
起きようとしたが、立ち上がった瞬間に彼は崩れ落ちた。自分の足首を見ると、それは血がたまっておそろしく大きく膨らみ、折れた骨が皮膚を突き破っていた。彼はあわてることなく、着ていた服の裏地を切り、枝で作った急ごしらえのそえ木をあてて、骨折した足首を固定した。
とうてい山道を歩けるような状態ではなかったが、冬が近づきつつある今、そこにとどまることはできなかった。ヘンリーは結局ふたりの男に頼んで、海抜3600フィートの増毛山を越えるルートを運んでもらったのである。この増毛山は、その高さから言って雄冬山(1192m)のことだろう。
この山は鬱蒼とした森に囲まれ、山道は険しく、きつく、ところどころに危険な箇所があった。ある程度の高さまで上ると、道はいつのまにか小川の川底になり、そこには大きな石がごろごろしていた。このような状態(おそらく担架で運ばれているような状態)は、あたかもだれかの葬式のようだった。
なんとか山頂に着いた。そこから見える風景は絶景だった。片方には天塩川が流れ込む海岸が、もう片方には石狩川が見えた。東には美しい森が鬱蒼とした山なみが見えた。反対側には遠くアイルップ岬(愛冠岬)が見えた。この愛冠岬は、現在では「恋人たちの聖地」として人気があるようだ。
彼はここでグリズリー(灰色熊)の話を聞いた。このあたりで以前、グリズリーがふたりの子供を殺して食べた。さらに子供たちを助けようとした父親までも殺した。このように山を越えるときに熊に襲われることは珍しくないという。雪嵐で死ぬことも多かったという。崖から落ちることもあれば、雪崩に巻き込まれて死ぬこともあるという。
こうした話を聞きながら、夜までにヘンリーは浜益の茂生(もい)に着くことができた。結局25マイルの距離を18時間で走破(大半は運ばれていたのだが)することができたのである。
39歳のアーノルド・ヘンリー・
サヴィジ・ランダー
愛猫家であったことは間違いない
こんなに可愛かったら、現代なら
子役スターになれそうだ
タバコをふかすアイヌの古老(ランダー画)
京都の花見(ランダー画)
1890年頃の幌別