折々の記 Mikio’s Book Club
宮本神酒男
第13回 ユダヤ陰謀論の原点は偽メシアにあり
ジョン・イーヴリン『シャブタイ・ツヴィ史』
この世界はじつはユダヤ人によって動かされている。金融や政治はもちろんのこと、映画プロデューサーの名簿を見ればわかるとおり、ハリウッドから世界のエンターテイメントを牛耳っているのもユダヤ人である。アインシュタイン、マルクス、フロイト、ハイネ、レヴィ・ストロースなど、偉大なる知能の多くはユダヤ人である。日本の金融だってじつはユダヤ人が裏で操っている。日本銀行の大株主はロスチャイルド家なのである。911もユダヤ人の陰謀であることがあきらかにされた。フリーメイソンやイルミナティと並んで、いやそれ以上に、あるときは手を結び、古くから歴史を動かしてきたのはユダヤ人である。
と、このようにスラスラと書けるほど、ユダヤ陰謀論はわれわれのなかにすっかり溶け込んでいる。ユダヤ人が特別な存在に見えるのは間違いない。なんといっても聖書をもつ民族である。キリスト教もユダヤ教の聖書を取りいれなければ、旧約よりもはるかに薄い新約のみを聖典としなければならなかったのである。歴代ノーベル賞受賞者のなかでも、ユダヤ系は百人をはるかに超えるともいう。
そんなすぐれたユダヤ人だが、歴史を遠く遡れば、アッシリアに侵略され(紀元前721年)、ローマ帝国の攻撃を受け(66年)、国を失って世界に離散したあと(ディアスポラ)イスラエル建国までの2千年間もの間、各地に散らばり、迫害を受けてきた。しかしたんなる悲劇の民ではなく、つねに世界や歴史を動かす優秀な人材を輩出してきたことから、ときには他の人々から嫉妬され、また反感を持たれ、差別され、民族浄化や虐殺の対象になることもあった。*ディアスポラはバビロン捕囚(前597)からはじまっている。
現代のユダヤ人陰謀論を決定的に形作ったのは、『シオン長老議定書』と呼ばれる偽書である。歴史家、というより予言史の専門家であるファビオ・アラウージョによると、(歴史学者リチャード・レヴィの言葉を引用し)「現代でもっとも重要な偽書」ということになる。この偽書の影響力ははかりしれないほど大きかった。議定書がなければ、ホロコーストも起こらなかったかもしれない。実際、ドイツ国内で議定書はナチ御用達の哲学者アルフレッド・ローゼンバーグによってはじめて1923年に出版され、30年代に入ると、毎年3度も版が重ねられたという。
議定書は1895年と1902年の間に、ロシアのジャーナリスト、マトヴェイ・ゴロヴィンスキによって作られたとされる。あるいはビンジャミン・シーゲルによれば、1897年と1899年の間に、パリで、ロシアの秘密警察の長官だったピョートル・イヴァノヴィッチ・ラチコフスキの指揮下で書かれたともいう。だれが書いたかはともかく、1903年にロシアの新聞に掲載され、1919年に英訳されて英国で出版されると、翌年にはヘンリー・フォードが経営する米国の新聞に載って一挙に「ユダヤ人の世界制覇の陰謀」は広く知られるようになった。
ユダヤ陰謀論やこの議定書が生まれるには、フランク派の存在が小さくなかった。「表向きはキリスト教徒だが、じつはユダヤ教徒」とか「表向きはイスラム教徒だが、じつはユダヤ教徒」といった陰謀論に都合のいい複雑な存在が生まれることになったのだから。
フランク派とは、偽メシア、シャブタイ・ツヴィの生まれ変わりを称したポーランド生まれのヤアコヴ・フランク(1726−1791)が創設した宗教のことである。彼はシャブタイ運動のメンバーから秘儀を授けられ、予言者となり、神に準ずる地位を得たと主張するようになる。彼はガザのナタンが編み出した弁証法に従って、通常のトーラーよりも高次の「流出のトーラー」を信奉した。
ヤアコヴ・フランクは1756年、ラビの法廷によってユダヤ教から破門された。彼はトルコに逃亡し、シャブタイ・ツヴィのようにイスラム教を受け入れようとした。そこでユダヤ教側はカトリックに助けを求めたが、フランクのほうもカトリックに助けを求めた。フランクはユダヤ教の聖典タルムードを否定していたので、カトリック側が好感を持ってくれると期待したのだ。そこでカトリックの司教たちは公開討論会を開くことを提案した。討論会が開かれ、司教がフランク派のほうに有利な判定を下し、タルムードを焼却しようとした。そのとき、おそらく偶然だろうが、恐ろしいことに司教が急死してしまう。司教の死を天罰とみなし、勢いを得たユダヤ教のラビたちは、フランク派にたいする迫害をさらに強めた。
それに反発したフランクは1759年に洗礼を受け、カトリックに入信する。しかしフランクの悪行にまつわる噂(彼は12人の愛妾を持っていた。また秘儀において近親相姦、レイプ、子供との性交、少年との同性愛などが認められたなど)は絶えることがなく、ついにはカトリックからも放逐される。そのあとはギリシア正教に頼ったとされる。
フランクは新たな三位一体説を編み出したという。それは父と子と精霊のかわりに、「善神」と「兄」と「彼女(シェヒナー)」を置くものである。さらに彼はメシアというものは啓蒙主義やフリーメイソンのなかにさえ求めることができると考えた。こうした自由奔放な、あるいは逸脱した考え方は、のちの陰謀論へとつながるものだった。フランクやフランクを信奉したフランキストはカルト宗教的ではあったが、大きな影響力を持っていたのはまちがいない。ポーランドの2万人以上のユダヤ人がキリスト教に転向することになったのだから。
フランクの死後、フランク派組織を引き継いだのは娘のエヴァだった。そのエヴァが死ぬと、表向きは弱体化し、ドンメ(シャブタイ派)のような秘密結社として生き抜いていくことになる。ボヘミアやモラヴィアのフランク派の大きな集団は1848年から翌年にかけて米国に移住した。このなかからユダヤ人としてはじめての最高裁判事(1916年任命)も誕生している。このように、フランキスト(フランク派)の家族も数多く米国に移住しているのだが、ここからユダヤ陰謀論が生まれるとはとうてい思えない。
時代をもう少し遡ろう。17世紀半ばすぎ、メシア(救世主)が出現したというニュースがユダヤ人社会を駆け巡り、メシアを待望していた人々は歓喜の渦に包まれた。しかしその後、メシアがイスラム教に転向したというニュースが流れると、人々は衝撃を受け、動揺することになった。
当時の様子を描いた数少ない証言者のひとりが英国人ジョン・イーヴリン(1620−1706)である。彼がパードレ・オットーマーノとマホメド・ベイ、シャブタイ・ツヴィの3人を三大ペテン師とした著作『三大有名ペテン師の歴史』のうちの一部である『シャブタイ・ツヴィの歴史』を著したのは、1666年のことだった。この年は偽メシア、シャブタイ・ツヴィ(1626−1676)がガザのナタンと出会った翌年であり、さまざまな事件はこれから起ころうとしていたのである。紛れもない同時代の証言である。
イーヴリンはサミュエル・ピープス(1633−1703)と並ぶ当時の代表的な日記作家だった。『ジョン・イーヴリンの日記』を読むと、その冒頭は「私は1620年10月31日火曜日、朝2時20分に、サリー県のワットンに生まれた」ではじまっている。生まれた日時をここまで詳しく述べるのは、彼の情報の正確さを物語っているとともに、几帳面すぎる性格を露呈してしまってもいるともいえる。
当時、ユダヤ人の間にはさまざまな噂が飛び交い、メシアを受け入れる機運が高まりつつあった。たとえば、イスラエルの失われた10の部族と思われる大勢の人々が集まり、アラビアの砂漠を行進しているとか、スコットランドの北部に船が着いたが、乗組員はヘブライ語をしゃべっていたとか、流言飛語の類が広がったのは、漠然とした期待が膨らんでいたことを示しているだろう。
イーヴリンはこの年、どうやらブダペストを訪ねているらしい。彼は直接コンスタンティノープルからブダペストにかけて、約束の地が再建されると信じてエルサレムへ向かう数多くのユダヤ人を見かけた。そんな雰囲気のなか、スミルナ(現在のトルコ)生まれのユダヤ人、シャブタイ・ツヴィは自らをメシアと呼ぶようになっていた。
彼は英国人の貿易商人のためのブローカーを務める父親モルデカイ・ツヴィのもとに生まれた。父親が商売ばかりに熱中したのに対し、息子はユダヤの学問(ヘブライ語と形而上学)に没頭した。彼は成長してからは、ラビからカバラー(ユダヤ神秘思想)を学び、とくにその中心的な書のひとつである「ゾーハル」(光輝の書)を愛読した。もっとも、イーヴリンはゾーハルには言及していない。
シャブタイ・ツヴィの人となりについても、イーヴリンは述べていない。同時代すぎてそこまでの情報が得られなかったのだろう。ここはカバラー学の権威でシャブタイ・ツヴィの研究家でもあるゲルショム・ショーレムの説明を聞こう。(邦訳『サバタイ・ツヴィ伝』も出版されているがここでは英訳本を参照)
「同時代の人々は彼のことを狂人、精神異常者、愚者などと呼んだ。彼の信奉者でさえ、少なくとも思春期からつづいてきたその奇妙なふるまいを受け入れ、そう呼ばれるだけの厖大な理由を用意した」
ショーレムは単刀直入に、シャブタイ・ツヴィの症状は、躁鬱(そううつ)病だったと指摘する。彼は激しいアップ・ダウンにみまわれた。一般の躁鬱病患者がそうであるように、「アップ」のときは、彼は極度の高揚感を覚え、至福感に満たされ、エクスタシーのなかでインスピレーションを得ることができた。彼はこのとき自分はメシアだと感じたのである。しかしひとたび「ダウン」の状態に入ると、心はメランコリーな気持ちでいっぱいになり、内に引きこもり、だれとも話さなくなった。
シャブタイの躁鬱病患者のようなふるまいについては、身近な人々のいくつかの証言がある。カイロの法廷から要注意人物であるガザのナタンのもとに監視するために派遣され、そのままナタンの信者になり、15年間も旅をともにしたサムエル・ガンドールの証言がある。彼は長年のあいだ、シャブタイを間近で見てきた。
それによると、不安(抑鬱)がもたげてくると、シャブタイは鬱(うつ)状態になり、ひどい苦痛がやってきて、本を読むことさえできなくなった。この不安(抑鬱)が去ると、大いなる喜びがもどってきて、ふたたび勉強することができるようになった。この病気に何年も苦しんだが、治せる医者はいなかった。本人は天国によって苛まれていると感じていたという。
1666年以降、シャブタイの信者たちは、この病気を病気とは呼ばなくなった。彼らはあらたに光明(イルミネーション)という言葉を使った。そして鬱状態にあるとき、彼らは「シャブタイはユダヤ国家のために苦しんでいる」とみなした。またナタンは、苦しむシャブタイをメシア的王の原形であるヨブになぞらえた。
躁状態のときは、どんなふうに見えたのだろうか。トルコ内に伝わるシャブタイ・ツヴィの伝承を収集したトビアス・ロフ・アシュケナジが興味深いことを言っている。
「彼(シャブタイ)は多くを学び、知識を十分に持っているにもかかわらず、いつもふるまいは子供じみていた。あたかも魂が愚鈍に支配されたかのようだった。あまりにも愚者のようにふるまうので、人々は彼のことを馬鹿者と呼んでいたほどだ」
いったいどんな姿を想像すればいいのだろうか。私は映画「12モンキーズ」でブラッド・ピットが演じたクレージーな男を思い浮かべるのだが、肖像画を見る限りシャブタイは小太りで、やせ型のピットとはイメージが違うかもしれない。
イルミネーション(光明)の状態に入ったシャブタイは、手が付けられないほど陽気になり、自信過剰気味で、はしゃぎ回ったのではなかろうか。そして鬱状態に入ると、彼はだれの姿も認識することができなくなった。まさに暗闇のなかにいたのである。まわりの人々が他人によって制御できないそんな姿を見て、「神のようだ」と思ったとしても不思議ではない。
シャブタイは1648年、すなわち28歳のときに神の啓示を受け、自身がメシアであることを認識している。シャブタイに心酔していたソロモン・ラニアドというラビがクルディスタンにいるふたりのラビに宛てた手紙のなかで、そのことを詳しく述べている。
「あの方(シャブタイ)がアレッポ(現シリア)を通りかかったとき、私たちに体験されたことを話してくださいました。1648年のある晩、町から2時間ほどのところをひとりで瞑想しながら歩いていたときのこと、突然神の霊が(シャブタイに)降りてきたというのです。そして神の声が話しかけてきました。
汝はイスラエルの救世主であり、メシアであり、ダビデの子であり、ヤコブの神によって油を注がれた者である。汝はイスラエルを救うべく運命づけられた者である。それゆえ地上の四隅から民をエルサレムに集めなければならぬ。
このとき以来、あの方は聖霊と大いなる光輝を身にまとっておられるのです。あの方は神の(言えないほど神聖な)名前をおっしゃいました。そして不思議なティックン(魂の刷新)によってあの方にふさわしいと思われる奇矯なふるまいをおこなうのです」
このようにガザのナタンに会うまでに、シャブタイ・ツヴィはすでに自身をメシアと認識していたのである。そして1650年代、スミルナから追放された彼は、サロニカ(テッサロニキ)、コンスタンティノープルからも追放されている。
流浪の生活を送る間に彼は三度の結婚をしている。最初の相手はサロニカで知り合った美女である。しかし彼女とはすぐに離婚し、二度目の結婚をする。彼女はもっと美女であったという。そしてモレアからトリポリ、ガザ、エルサレムを旅している間に三番目の妻となる女性と婚姻関係を結んだ、とイーヴリンは述べる。
しかしこのあたりのことは、もともと曖昧な点が多いとはいえ、事実誤認がある。シャブタイ派の敵対勢力の長、ヤコブ・サスポルタスはアムステルダムでのちにシャブタイの妻となるサラと会ったという。彼女は美しいが変わった女で、いつの日かメシア王の妻となると言い続けていた。彼女の出自ははっきりしないが、フメリニツキーの虐殺(1648年)によって家族を失い、孤児になったともいう。彼女はカイロにメシアが現れたと聞き、アムステルダムからカイロへと向かった。もちろんこの話はうまくできすぎているので、捏造された(伝説化した)と考えるべきかもしれない。たんなる売春婦だったとも言われているのだ。
1665年にシャブタイと出会ったとき、ガザのナタンはまだ22歳だった。シャブタイよりも18歳も年下の若造であるにもかかわらず、知識と教養においてはるかに凌駕し、人を惹きつける魅力も持っていた。ナタンは予言者を名乗っていた。一方シャブタイは自称メシアだった。つまりここに予言者とメシアが邂逅したのである。
ナタンはつぎのように考えた。
「予言者エリヤはメシアに先行し、洗礼者ヨハネはキリストの前触れだった。おれほど予言者にふさわしい者はいない」
ここにヨハネのような前触れで、エリヤのような予言者であるナタンと、キリストのようなメシアであるシャブタイという強力な組み合わせが誕生したのである。ガザではさっそくラビたちにも受け入れられ、人々は歓喜の声をあげた。
ナタンは各地のユダヤ人居住区のユダヤ人に手紙を送り、シャブタイがメシアであることを訴えた。大胆にも、メシアはトルコのスルタンの前に現れ、その冠をかわりに戴き、スルタンを捕虜のように鎖につなげるだろうと述べた。
メシアが現れたという驚天動地のニュースは燎原の火のごとく広がった。シャブタイとナタンがアレッポ、スミルナ、コンスタンティノープルへと北上していくにしたがい、各地のユダヤ人社会は興奮に包まれていった。かつてないほどの社会現象が起こったのである。シャブタイはあきらかに凡人とは違っていた。彼は禁じられた聖なる神の名を口にし、脂(あぶら)肉を食べた。つまりあえて神と律法にそむく行為をし、民衆にもおなじことを強いた。
シャブタイとナタンの勢いをはじめて挫いたのはネヘミア・ハ=コーヘンなのだが、イーヴリンがこの文を書いている年(1666年)のことであり、彼はコーヘンの名に言及していない。この年の9月3日、ガリポリに滞在していたシャブタイのもとをコーヘンが訪ね、二人の間に2、3日に及ぶ激論があったことがいくつかの資料からうかがえる。
ネヘミア・ハ=コーヘンがどういう人物であったか、はっきりとはわからない。サストラスはポーランドで流布する噂として、ネヘミアもまたさまざまな予言をおこなってきたが、一般的には狂人とみなされていたと書いている。
レイブ・ベン・オゼルによれば、ポーランドのユダヤ人社会がカバリストとして、また予言者として有名なネヘミアを派遣したのだという。しかしネヘミアは「ゾーハル」ではなく、「メシアの徴」という本をもとにしていたので、議論が噛みあわなかった。
同時代の歴史家ポール・ライコートはトルコのスミルナのユダヤ人社会に伝わる伝承を紹介している。それによると、カバリストのネヘミアは、メシアには2つのタイプがあると考えていた。すなわちエフライム型とダビデ型である。エフライムは、法の教師であり、貧しく、軽蔑され、ダビデに仕えるが、彼の先駆者でもある。ダビデは偉大で、豊かで、ユダヤ人にエルサレムを取り戻させる。彼はダビデの玉座に坐り、勝利と征服のすべてを遂行することができる。シャブタイはダビデであり、ネヘミアはエフライムであることが期待された。
しかし先駆者(エフライム)であるネヘミアが世に認知される前に、ダビデであるシャブタイがメシア宣言をしてしまったことが問題だというのである。シャブタイはその言葉を信じず、彼がメシアとしての地位を自分から奪おうとしていると感じた。ユダヤ人社会でも、多くは「悪党はネヘミアのほうだとみなした」(ショーレム)のである。
いずれにしてもネヘミアがはなはだしく気分を害したのはまちがいなく、ガリポリの町に戻ったあと、大勢の反シャブタイ派のラビたちとともに反シャブタイ運動を起こした。そしてシャブタイをペテン師として告発した。
この年の9月15日、シャブタイはガリポリから200キロほどのコンスタンティノープルで開かれた諮問会に召喚された。スルタンも傍聴したという。シャブタイは死刑とイスラム教への改宗ならどちらを選ぶかと問われ、改宗を選んだ。そしてアズィズ・アフメド・エフェンディというイスラム名をもらった。
これがのちのちまで問題となる「メシアの棄教」である。どんな困難に遭ってもメシアは最終的にはユダヤ民族を救ってくれると信じていたユダヤの人々に、どれだけのショックを与えたか、計り知れない。この改宗に関して、見方は大きく分けて二つある。
(1)しょせんはガザのナタンという頭のいい偽予言者に操られ、利用されただけの偽メシアにすぎなかった。死刑という言葉を聞いてあわてふためき、現実に戻り、安楽な生活が保障された改宗を選んだ。
(2)処刑されてはメシアとしての役をまっとうできないと考え、表面上のみ改宗することにした。一部の人のみシャブタイの真の姿を理解することができるのだ。最終的に、彼はユダヤの民を導き、約束の地イスラエルを復活させることができるだろう。
一般的には(1)の偽メシアとして見られることが多いが、(2)の「改宗は仮の姿にすぎない」という考え方が死滅することはなかった。前述のように、シャブタイ・ツヴィの生まれ変わりを主張したヤアコヴ・フランクおよびフランク派は、(2)の「仮の姿」説を信じて疑わなかった。
(2)の説を極めれば、メシア(シャブタイ)はたとえ死んでもユダヤの民を救うことができるということになるだろう。しかも表向きの姿はめくらましであり、本当の姿はつねにどこかほかにあるのだ。この考え方はのちの陰謀論につながっていく。
幽囚の身となりながらもある程度の自由が与えられたシャブタイではあったが、イスラム教徒や保守的なユダヤ教徒らの圧力に屈したスルタンによって、アルバニアに追放されてしまう。シャブタイは1676年に逝去するが、ガザのナタンは「メシアはお隠れになった」として、むしろ神聖化するのに都合がよかった。しかしその4年後にナタンもあとを追うように没する。
置かれた状況ほどには、シャブタイやナタンの晩年はみじめなものではなかった。彼らが作り出したシャブタイ派はその後百年以上も生きながらえたのである。とくにシャブタイ運動を再興したのはすでに述べたようにヤアコヴ・フランクだった。
ヤアコヴのあとを継いだ娘のエヴァが死ぬと(1816年)フランク派(フランキスト)は地下にもぐって秘密結社となった。こうなると、存在しているのか、していないのか、それさえもわからなくなってしまうものだ。
そして同時期にユダヤ人のロスチャイルド家やロックフェラー家が金融界で絶大な力を得て世界を動かすようになると、その裏で操っているのはフランキストかもしれないという噂が流れても不思議ではない。ユダヤ陰謀論にはそういった根拠があるのだ。それに、実際に彼らが地球を牛耳っているのかもしれないのだから。