折々の  Mikio’s Book Club  

  宮本神酒男 


14回 小説よりも奇なる事実よりも奇なり 偽冒険家の生涯 
    ルイ・ド・ルージュモン『ルイ・ド・ルージュモンの冒険』 

 

 1930年、英国の作家オズバート・シットウェル卿は新しい本を執筆しながら、ロンドンのシャフツベリー・アベニュー(ピカデリー・サーカスに通ずる繁華街)でかつてよく見かけたマッチ売りの背の高い髭を生やした年老いた浮浪者のことを思い出していた。

「亡霊のように通りにたたずむその老人は、古くてよれよれのコートに身を包み、まばらになった長髪を襟元までたらしていたが、その表情を見ると、おだやかで、哲学的で、不思議なほどの知性を漂わせていた」

 このマッチ売りの老人がド・ルージュモンであることは、いろいろな人から何度も聞かされていたので間違いなかった。これは言外に、あれだけ世間を騒がせた男の成れの果ての姿がこうであるとはどうしても信じがたい、というシットウェル卿の気持ちがあらわれている。

ルイス・レドモンドことルイ・ド・ルージュモン(18471921)、あるいはグリン、またはグリーンは、1921年6月9日、ロンドンの救貧院の病院で息を引き取った。死亡記事が出されることもなかった。世紀の曲がり角の頃、英国を揺るがすセンセーションを巻き起こした人物にしては静かすぎる最期だった。

 

 このルイ・ド・ルージュモン自身が語った『ルイ・ド・ルージュモンの冒険』は、1898年から1899年にかけてワイド・ワールド・マガジン誌に掲載された記事を集めたものである。この自身の30年に及ぶ冒険的生涯について書いた記事の反響はすさまじく、毎号40万部の売れ行きを記録したほどだった。編集者のエドワード・フィッツジェラルドが考えた「人類が語ったもっとも驚異的な物語」というおおげさな謳い文句にたがわず中身は面白かったが、雑誌が発行されるや「こんなことはありえない」という苦情が殺到するとともに、「ありえないのではなく、ありえないような体験をしたのだ」という擁護する声も殺到し、ほかの新聞なども巻き込んでド・ルージュモンは一夜にして時の人になったのである。

 冒頭でド・ルージュモンは1844年に(実際は1847年)パリで(実際はスイスのヴォー州グレシーで)生まれたと書いている。彼は母とともにスイスのモントルーに移り住んでいたが、フランスの父親から戻ってくるように促されると、それに反発して彼は東方へ向かう。仏領インドシナをめざしていた彼はシンガポールでオランダの(じつはデンマークの)真珠採り業者のピーター・イェンセンと会い、ニューギニア南部へと針路を変更した。彼は母親から受け取っていた7千フランを出資してイェンセンの共同経営者となった。彼らはバタビア(ジャカルタ)で水夫や必要な物をそろえてめざす海域に向けて出港した。

 海では数々の危険な目に遭ったが、とくに記憶に残ったのはサメよりも恐ろしい巨大タコとの遭遇だった。それは船を沈ませるほど巨大で力強く、実際水夫がひとり海中に引きずり込まれた。しかし全般的に真珠の採集は好調で、5万ポンド相当の真珠が採集された。また、非常にまれな黒真珠を採ることもできた。

 順調な日々は長く続かなかった。彼らの船はサイクロンに襲われ、イェンセンを含む乗組員はド・ルージュモンと犬のブルーノを残して海の藻屑と消えてしまう。彼もあやうく命を落とすところだったが、勇敢なるブルーノが彼の髪の毛を引っ張り、白波を越え、わずかな面積の無人島にたどり着いた。そこは長さが100ヤード(90m)、幅が10ヤード(9m)しかなく、高さも高潮の海面から8フィート(2・4m)にすぎなかった。難破した船から道具や物資を取り出すことができたこともあり、彼は木も茂みもない砂地にトウモロコシ畑を作り、2年半もサバイバル生活を送った。

 この時期に彼はウミガメの乗り方を会得する。カメに乗った彼は足で目を片方ずつ押さえ、それで自在に左や右に曲がることができたと主張した。彼の記事がのちにワイド・ワールド・マガジン誌に載ったとき、非難が殺到したのはこのウミガメ乗りについてであった。ウミガメが人を乗せたまま海面を泳ぐとは考えられなかったからだ。海中にもぐってしまったら、右も左もないだろう。ずっとのちの1906年、ロンドンのヒッポドロームで彼はウミガメ乗りの実演をして見せねばならなかった。

 待てど暮らせど、救助は来なかった。かわりに現れたのは、アボリジニの家族を乗せた難破したカタマラン(丸太を縛ってつなげただけのいかだ舟)だった。舟に乗っていたのは男、女、ふたりの男の子だった。彼らは衰弱しきっていたので、ラムと大量の水を使って手当てをした。最初彼らは死んであの世へ行き、神秘的な「大いなる神霊」の前にいるのだと考えているようだった。しかしド・ルージュモンが食べ物を与え、世話をしていくうちに、恐怖は薄らいだようだった。彼らは関節を鳴らしたが、それは畏敬の念を覚えて、神に向ってその気持ちを表現しているのだった。

 男はグンダという名で、気難しくて陰気だった。ド・ルージュモンがガラスに映る男の鏡像を見せると、恐怖の叫び声をあげ、それをも疑ってかかるのだった。敵対心は見せないものの、気を許すことはできなかった。

 一方、妻のヤンバは輝く目をした知的である種の美しさを持った女で、鏡像が何であるかすぐ理解した。簡単な英単語をすぐに覚え、意思の疎通ができるようになった。

 さて、彼らが回復すると、あらかじめ彼が作っておいた桶のような舟に乗って彼らの村をめざすことになった。もちろん犬のブルーノもいっしょに。

 こうしてド・ルージュモンは食人の習慣があるアボリジニの地域に入ることになる。白人がオーストラリアのアボリジニの地域に入ったり、捕らわれたりすることは多くはないが、けっしてありえないことではなかった。たとえば1823年、3人の男がクインーンズランドのアボリジニの村に7か月滞在し、楽しく過ごした。1849年にはバーバラ・トンプソン夫人がプリンス・オブ・ウェールズ島のアボリジニのもとでそれほど楽しくない時を5か月過ごし、逃げ出した。エセックス出身のジェームズ・モリスはクイーンズランドで17年間に及ぶ滞在を始めたばかりだった。ウィリアム・バックリーは、オーストラリア南部の砂漠のアボリジニのもとに32年間も滞在した。彼はこうした「捕らわれた白人」の仲間入りをしたのである。

 ド・ルージュモンが作った桶のような舟に乗った彼らはなんとか陸地に上陸する。彼が舟に乗っていることを知った近隣のアボリジニが海岸にやってきて、岸に沿って並んで待っているありさまだった。彼の持ち物である舟、弓、犬、斧、そして日本製の赤い絹のフンドシ(!)まで仔細に見るのだった。彼らは赤いフンドシにも驚いたが、もっと驚いたのは彼が砂地を歩いたときの足跡だった。彼らの足跡は半分しかつかないという。彼らは極端なガニ股で歩いたということなのだろうか。

 アボリジニのなかで次第に信頼を勝ち得ていったド・ルージュモンではあったが、直面せざるをえない困難な点があった。それは彼らが人食い人種であるということだった。彼の前に乙女が連れてこられ、彼はワディと呼ばれるごつごつした棍棒を渡される。この棍棒で少女を殴り殺し、みなでその肉を食おうというのだ。

 彼は「大いなる神霊」の言葉を受け取ったと主張した。神は少女の命を欲してなどいないと告げたと彼は必死に述べた。しかしそれを聞いたアボリジニの男たちは腹を抱えて笑い出した。いったい何を笑っているのだろうか。

 そこへヤンバが現れ、冗談を交えながら救いの手を差し伸べた。少女は食べるためでなく、彼の妻となるために連れてこられたというのだ。一種の儀礼で、夫は棍棒で新妻の頭を軽く叩く習慣があるという。ド・ルージュモンはそんなふうに機転がきくヤンバが気に入り、彼女の夫グンダと相談し、手に入れたばかりの少女とヤンバを交換した。以後15年間、彼はヤンバと苦楽を共にすることになる。ヤンバはそのとき30歳くらいで、バイタリティに富み、大自然を生き抜く知恵を持っていた。彼は次第にヤンバなしには生きていけなくなっていった。

 そのあと何か月も彼らはケンブリッジ湾にいて、水平線上に現れる船をチェックし、陸上の旅の可能性を探った。その間ジュゴンやウォンバット、エミューなどの動物を狩猟し、タンパク質を摂取した。ときには子供のクジラを捕獲することがあった。

 その後彼らは東へ向かって赤い砂の砂漠を歩いていった。砂漠には水がなく、ネズミを捕まえてその血をすするしかなかった。しかしついにド・ルージュモンは倒れてしまう。主人の容態を心配した犬のブルーノは彼の体をなめて元気づけようとした。このときも彼を救ったのはヤンバだった。彼女は斧を使ってボトル・ツリー(豪州青桐)の樹幹を切り、その樹液を取ったのである。

 ド・ルージュモンは病に臥せている間に、ヤンバが少し変わったように感じた。判明したのは、彼女が子供を産み(彼らの子供である)その子を食べたというのだ。しかしそれはこの子供の父親(つまりド・ルージュモン)を救うため、生贄としたのである。彼にはまったく理解できないことだった。そうやって滋養を得たヤンバは、自身の胸から乳を瀕死の状態の夫に捧げた。

 彼らの旅はそのあと20年もつづく。彼らにはアボリジニの族長のもとに捕らわれていた白人姉妹(ロジャーズ姉妹。名はブランシュとグラディス)を救い出し、家族に加える。しかしあるとき20艘のカタマラン舟に野蛮人と勘違いされて追いかけられ、銃撃を受けたとき、乗っていたカヌーがひっくり返ってしまう。そのとき姉妹は行方不明になってしまった。

 ド・ルージュモンが記すさまざまなエピソードのなかでも際立っているのが、呪術師との戦いである。戦いの前日、彼はその場のあらゆる毒蛇(とくに強烈な毒をもつクロヘビ)の毒を抜き、ナイフで印をつけたのである。全身を毒蛇にかまれながら平然としているド・ルージュモンの姿を見て、呪術師は戦意を失ってしまった。

 またあるとき彼らは白人探検隊と出くわすが、銃で追い払われてしまった。しばらくして頭がおかしくなったギブソンという白人と出会った。彼はもともと白人探検隊のメンバーだったが、いまはひとりでさまよっていた。犬のブルーノはギブソンになついていた。ギブソンが死ぬと、数週間後、追いかけるようにブルーノも静かに息を引き取った。犬としてはかなり長生きしたほうなので、大往生と呼べるだろう。

 ヤンバもまた老化が目立っていた。ド・ルージュは時期をはっきりと書いていないが、ヤンバとの間に子供がふたり生まれていた。しかし両者とも早くに死んでしまったようである。ヤンバがこの世を去ると、彼は妻も子もいない独り身になった。

 彼は探鉱者のキャンプに侵入して衣服を失敬すると、それを着て「それらしいかっこうをして」別のキャンプへ行った。そこではじめは探鉱者のふりをしていたが、20年以上も世間のことを知らなかったので、まともな会話ができず、害のない、頭がおかしくなった者として扱われるようになった。そして町であるクールガーディ、さらにパースへと送られた。

 それからさまざまな職に就きながら、船でメルボルン、シドニー、ブリスベーン、オークランドと渡り、1897年にロンドンに着いた。ロンドンに着くと彼が向かったのはワイド・ワールド・マガジン誌の編集部だった。

 最初に述べたように、記事が載った雑誌が発行されると、世の反響はすさまじかった。しかしオーストラリアを探検したプロイセン出身の博物学者、探検家ルドヴィッヒ・ライヒハート(18131848)の例もあり、たとえその内容が驚くべきものであったとしても、記述が具体的である以上、疑う余地はなかったのである。

 この真贋論争で部数を大幅に伸ばした媒体のひとつが、デイリー・クロニクル紙だった。連日肯定派と否定派が投稿し、紙上で論戦が繰り広げられたのだ。しかし突然論戦は中断される。ソロモンという名の人物がド・ルージュモンの身元を明かしたのである。

 それによると、ド・ルージュモンはグリーンという名のスイス人だった。彼はかつてない高性能の潜水服を発明したと言って売り込んできたが、そんなものはなく、一種の詐欺だった。今回ド・ルージュモンが稀有な体験をした者として世間をにぎわし、彼の写真が出て、彼とグリーンが同一人物であることに気づいたのだという。

 さらにさまざまな情報が寄せられ、彼がスイス人アンリ・ルイ・グリンであり、もともと女優ファニー・ケンブルの付き人をやったり、ロンドンのスイス人銀行家ド・ミーヴィユの召使いであったりしたことが暴露された。

 彼はかつて結婚していたが、妻は捨てられ、シドニーで娘二人と貧窮の暮らしにあえいでいた。娘二人の名はロジャース姉妹とおなじブランシュとグラディスだった。

 
一夜にして国民的英雄になったド・ルージュモンは、あっという間にペテン師の身に堕ちたのである。

 とはいえ、1906年にロンドンのヒッポドロームでウミガメ乗りのパフォーマンスを見せている姿を見ると、世間はまだまだ騙され続けていたことがわかる。数多くの冒険譚が作り事ではもったいないという心理が働いたのだろうか。話が面白ければ、多少は脚色が強くてもかまわないと人々は考えたのだろう。雑誌や新聞だって、彼のおかげで部数を大幅に伸ばすことができたのだ。

 かえすがえすも思うのは、この『ルイ・ド・ルージュモンの冒険』を読めばわかるように、冒険小説として読めばかなりのレベルにあり、いつまでも「真実の話」というスタンスを保持しなくてもよかったのではないかということだ。『ダ・ヴィンチ・コード』を思い浮かべてほしい。表紙の裏に「これらはすべて事実に基づいている」と書かれているが、それもフィクションの一部なのである。『レンヌ・ル・シャトーの謎』などを読んできた者にとっては、主題はありふれた題材であり、その根幹にシオン修道会というペテンがあったことはよく知られている。『ダ・ヴィンチ・コード』のように、「本当にあった話」というフィクションにすればよかったのである。

 しかし当時の英国の読者は探険や冒険の話に飢えていた。彼らにとってフィクションはウソであり、心を躍らせない作り物にすぎなかった。それにド・ルージュモン本人が人をだますことに喜びを感じるペテン師気質の持ち主であった。

 彼の冒険的な話も興味深いが、彼の生涯そのものも刺激に満ちていて、映画化したくなるような面白さを持っている。いまのところ彼を題材にしたフィクションはドナルド・マーグリーズの『難破して』(戯曲)くらいのものだが。*ドナルド・マーグリーズ(1954− )は『ディナー・ウィズ・フレンズ』でピュリッツァー賞を受賞した劇作家。2014年にはマーグリーズ原作の『永遠の一瞬』が新国立劇場で上演された。

 彼の余生はみじめなものであったようだが、それは顔が知られてしまったため、詐欺師商売ができなくなったことが大きいだろう。しかし、あのマッチ売りの老人は本当にド・ルージュモンなのだろうか。長身の身寄りのない老人なんて掃いて捨てるほどいただろう。救貧院で見つけ出した自分と似た老人をド・ルージュモンに仕立てるのは彼にとっては簡単だったはずだ。身代わりを探すのは、焦眉の急だった。探検家になりすましたとき、大金を得ていた彼は、損害賠償を求めてくる人々から身を隠さなければならなかったのだから。


*サラ・バートン『あの人が誰だか知っていますか』(野中邦子訳)の第1章「神を騙った男」には、ド・ルージュモンのことが描かれている。
*ジョン・キイは『並外れた探検家たち』でド・ルージュモンを取り上げている。
*マーグリーズは上記の作品(戯曲)を書くとき、サラ・バートンとジェフリー・マスリンの著書からインスピレーションを得たと記している。
*ド・ルージュモンの空想冒険譚の一部は事実を反映していただろう。たとえば真珠採り。若い頃はダーウィンの沖合(つまりニューギニア島の南)で実際に真珠採りをしていたのだろう。そこで日本人を見ていたので、文中の彼は日本製の赤いフンドシを着けていたのだ。また妻子をシドニーに残しているので(娘たちの名はブランシュとグラディス、すなわち上述のロジャーズ姉妹とおなじ名前)、オーストラリアに一時期滞在していたと考えられる。

*マーグリーズの戯曲の最後のシーンでは、ド・ルージュモンはマッチではなく「物語」を売っている。
「物語、物語。奥様、1ペニーで物語はいかがですか」
通行人に声をかけながら、彼は独白する。

「わしも年を取ったものだのう。持ち物といえば、これからやってくる冒険の物語だけだ。すべての生きものにやってくるあの冒険の物語。名前と、本人が語る物語以外に、いったい何が残る? ほかのものはみな塵と化すだけではないか」