折々の  Mikio’s Book Club   宮本神酒男 

19回 幽霊屋敷ラローリー邸はこうして生まれた 

ジョージ・ワシントン・ケーブル 『ルイジアナの奇妙な実話』 


ロイヤル通りの文芸サロン 

 本題に入る前に、この『ルイジアナの奇妙な実話』が出版された1890年前後のルイジアナ州ニューオーリンズに思いを馳せたい。怪異現象が頻繁に目撃されることで知られる旧ラローリー邸があったロイヤル通りに作家、詩人のモーリー・ムーア・デーヴィス(18441909)の邸宅があった。ここで毎週金曜日の午後、文芸サロンが開かれていた。

常連メンバーには有名な作家のケイト・ショパン(18511904 『目覚め』など複数の邦訳あり)やグレース・E・キング(18521932)のほか、このジョージ・ワシントン・ケーブル(18441925)が含まれていた。ただし地元のクレオール文化を愛し、人種の平等と融和を説いたために、KKK(クー・クラックス・クラン)などの過激組織から脅迫を受けることになったケーブルは、1885年に家族とともにマサチューセッツに移住していたので、1890年の時点ではニューオーリンズにいなかったことになる。

『ルイジアナの奇妙な実話』には、1874年、ホワイト・リーグ(白人同盟)の民兵が公立高校として使われていた旧ラローリー邸を占拠し、有色人種の血が少しでも混じった生徒を選別し、追放するという事件があったことが記されている。身の危険が迫っていたニューオーリンズにいたら、こういうことは書けなかっただろう。

 女性ジャーナリストのネリー・ブライ(18641922)と世界一周を競ったことで知られるルイジアナ出身のエリザベス・ビスランド(18611929)も、ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット紙の若き編集者として、このサロンに姿を見せていた。彼女は1887年にニューヨークに移り、サン紙に編集職を得たほか、ニューヨーク・ワールド誌などの雑誌や新聞に作品を寄稿した。

1889年11月、このニューヨーク・ワールド誌がジュール・ヴェルヌの小説の通り80日間で世界を一周することができるかどうかチャレンジするという斬新な企画を立て(発案者はブライ自身)レポーターのブライが出発した。それにたいし、創刊されて間もないコスモポリタン誌が対向手として選んだのがビスランドだった。このあたりの事情はマシュー・グッドマンの『ヴェルヌの八十日間世界一周に挑む』(2013年・柏書房)に詳しい。

 サロンに現れたもうひとりの重要人物は、英領ギリシア出身(父はアイルランド人、母はギリシア人)のラフカディオ・ハーンこと小泉八雲だった。ここでエリザベス・ビスランドやケーブルと知り合ったのではないかと思われる。ビスランド自身がまとめた書簡集を見ると、ハーンは1887年にすでに相当数の書簡を11歳年下の彼女に書いている。背が高くて知性あふれる美人として知られていた彼女に、羨望と恋心という、相反する感情をいだいていたのかもしれない。(最初の妻とは10年前に離婚していた)

1890年、世界一周を終えたビスランドから日本の話を聞いたことが、彼が日本へ行くきっかけのひとつとなった。もしビスランドと出会わなかったら、小泉八雲の存在はなかったかもしれない。どういう因果か、のちにビスランドはラフカディオ・ハーンの伝記をまとめることになるが、この時点でその予感はあっただろうか。

 この時代にニューオーリンズに生きていた有名人といえば、ブードゥー教の女王(ブードゥー・クイーン)ことマリー・ラヴォー(母は1794?−1881、娘は18271895)がいる。アカデミックかつ上流の雰囲気を醸し出していたモーリーのサロンに呼ばれることはなかったろうが(現在なら特別ゲストとして招かれるだろう)ラフカディオ・ハーンやケーブルは当然娘のマリー・ラヴォーを(マリー・ラヴォー2世。ただし作家のジュエル・パーカー・ローズらは、何人かがこの名を名乗っていると考えている。マーサ・ワードが作製した家系図によればマリー・ラヴォーは4人)知っていたはずである。マダム・ラローリーことデルフィーン・ラローリー(17751842 本稿では1787−1849)については、半世紀前の1834年にニューオーリンズからフランスに逃走したと考えられるので、直接会ったことがあるとすれば、マリー・ラヴォー1世だけである。

 最近の米国のTVドラマ『アメリカン・ホラー・ストーリー 魔女団』(2013年)に、マダム・ラローリーとブードゥー・クイーンのマリー・ラヴォーがそろい踏みで登場しているのを見て、感慨深く思った。目と鼻の先に住んでいたのだから、顔見知りではあったろうが、どの程度の交流があったかとなると、不明としか言いようがない。映画『ミザリー』で知られるかの怪女優キャシー・ベイツが演じるマダム・ラローリーは、生前、たくさんの奴隷を痛めつけ、殺しまくったため、罰として「死ぬことができない」呪いをかけられていた。200年近く、棺桶に生きたまま入れられ、地中深くに埋められていたのである。その間、暗闇の中で身動きできず、じっと耐えねばならなかったと想像してみるだけでもつらくなる。

 このような設定がされうるほど、マダム・ラローリーの極悪非道の悪名は高かったのである。しかし現実の彼女は本当にそんな人間だったのだろうか。それとも、噂話や風説に尾鰭(ひれ)がついてふくれあがり、みなが真実だと信じる一種の猟奇フィクションができあがったのだろうか。

 

デルフィーンがマダム・ラローリーとなるまで 

 多くの黒人奴隷を虐待、拷問したすえ死に至らしめた悪名高きマダム・ラローリーとして知られることになるデルフィーンの、1787年に生まれたときの名は、マリー・デルフィーン・マカーティだった。*生年に関しては1775年説など諸説あるが、本稿ではキャロライン・モロウ・ロングに従っている。

マカーティ家は1730年頃に先祖(デルフィーンの祖父)がアイルランドからやってきた、ニューオーリンズ屈指の名家である。上述の文芸サロン常連客の女性作家グレース・エリザベス・キングも、『ニューオーリンズのクレオールの家族』(1923)のなかで、50の名家のうちのひとつとして、マカーティ家に1章を割いている。

 不思議なことに、ジョージ・ワシントン・ケーブルをよく知っていたはずのキングは、あたかもマダム・ラローリーの事件のことを知らないかのようにデルフィーン・ラローリーをたんに「美しいデルフィーン・マカーティ」と記している。

デルフィーンは1800年、14歳のときにスペイン人高官のドン・ラモン・ロペス・イ・アングロ(35歳の男やもめ)と最初の結婚をする。当時ルイジアナはスペインの植民地だった。1804年、本国に召喚された夫とともにデルフィーンはスペインに渡航するが、その途中のハバナで夫は帰らぬ人となったという。しかしグレース・E・キングによると、デルフィーンは夫とともにスペイン上陸を果たしている。謁見したスペインの女王は、彼女を見てその美しさに強い印象を受けたという。デルフィーンにとって、夫ドン・ラモスは人におもねるところがあり、いつも繰り言ばかりこぼしていて、性格的にはあわなかったようである。

スペインから戻る途中の船の上で、デルフィーンは娘マリー・ボージャ(通称ボルキテ。群れの意)を産んでいる。娘マリーも母親に負けないくらい美しかったという。彼女は名家のひとつフォーストール家に嫁ぎ、12人の子を産む。

1807年にデルフィーンは銀行家で奴隷商人のジャン(ジーン)・ブランクと二度目の結婚をし、4人の子をもうけている。この年と翌年、夫婦はデルフィーンの両親から4つのプランテーションと数十人の奴隷を譲り受けている。*1834年の火災発生のときデルフィーンは30人の奴隷を所有していた。

 またブランクは、ロイヤル通りにある自身が重役を務めるルイジアナ銀行に隣接した邸宅を購入しているが、それはのちにヴィラ・ブランクと呼ばれた。上述のモーリー・ムーア・デーヴィスの自宅兼文学サロンは、時期がずれるがすぐ隣のブロックである。

夫ジャン(ジーン)は弁舌たくみで人を動かす力があり、冷徹で辣腕をふるった人物であったらしく、性格的にはデルフィーンとウマがあった。彼は米英戦争で名を挙げた海賊ジャン・ラフィットとも深いつながりがあった。政治的な力も持っていて、米政府からは敵対する存在とみなされることもあった。当時の地方長官クレイボーンがトマス・ジェファーソン大統領に宛てた書簡が残っているが、そこには彼が「広大な土地を持ち、地元の数多くの名家とつながりのあるクレオールの美しい女性(デルフィーンのこと)と結婚した」と警戒感をあらわにしていた。

英米戦争(最後の戦争はニューオーリンズの戦いと呼ばれる)終結から10か月後の1815年10月7日、ジャンは50歳で死去する。28歳のデルフィーンは5人の子ども(前夫の子マリー・ボージャは11歳、一番下のポーリーンは生後6か月)と数多くの奴隷を含む莫大な遺産(もちろん多くはデルフィーンの親から譲り受けたもの)とともに残された。ジャンは有数の奴隷商人のひとりだったので、奴隷の数が多かったのは当然のことだった。

 デルフィーンがはるかに年下の医師レナード・ルイス・ニコラス・ラローリー(英語読み 1802126日フランス南部の生まれ。1824年に渡米)と三度目の結婚をするのは1828年、41歳のときのことである。ラローリーが船の中で親しくなったラヌッセという青年が1826年にマカーティ家の女性と結婚している。そのつながりで、デルフィーンはこの曲がった背中を矯正するのが専門のイケメン医師と出会い、ふたりの間にロマンスが芽生えたのかもしれない。38歳の未亡人はまだまだ美しく魅力的であったにちがいない。

私はイケメン医師と書いたけれど、流布している伝承によれば、彼は目立たない、従順な青年ということになっている。しかしそれはデルフィーン像が誇張され、暴君のようなイメージが定着してしまったため、その夫はこうであったに違いないと推測された姿にすぎない。

 

1834年4月10日に何が起きたのか 

 これほどまでに突然、栄華からどん底に突き落とされた例を私は知らない。1834年4月10日のデルフィーン・ラローリーのことである。ニューオーリンズのロイヤル通りにある豪邸ラローリー邸で、毎晩のように上流のゲストを招いてカクテル・パーティを開いていた名士は、突然災難にみまわれる。キッチンから出火した火と煙は瞬く間に豪邸全体を包んだのである。

 しかし世間を驚かせたのは火事そのものというより、多くの奴隷が屋根裏部屋に閉じ込められ、虐待され、拷問を受け、死亡した者もいたことである。そのことが明るみになるや、群衆は怒ってラローリー邸に押しかけた。しかしデルフィーンと娘たちは扉に鍵をかけてなかに閉じこもってしまったのである。一日ですべてを失った彼女は脱出に成功し、フランスに逃亡したとされる。

 一度は世間から忘れられかけていたマダム・ラローリーと旧ラローリー邸、および奴隷虐待について掘り起し、だれもが知るようになる逸話を再構成した功績は、ジョージ・ワシントン・ケーブルに帰せられるだろう。彼のひとつの地方(ニューオーリンズ)にこだわり、その多様な文化(クレオール文化、ヴードゥー教など)を描き続けるスタイルは、地味ながらも多大な影響を後世に残し、ウィリアム・フォークナーのような巨匠が登場する道を開いたと言われる。

 彼のエポック・メーキングな作品『ルイジアナの奇妙な実話』を見てみよう。

 火事が発生する前に、重大な事件が目撃される。隣の家の女性がたまたまラローリー邸を眺めていると、女主人に追いかけられた奴隷の少女が屋根の上まで逃げ、そこから墜落するのを見てしまうのである。この話は有名になり、幽霊屋敷となった後世において、何度も「目撃」されることになる。ケーブルはこのシーンをつぎのように書いている。

 マダム・ラローリー邸に隣接した家の東側に螺旋階段があり、そこから小さな庭を見下ろすことができた。ある日、たまたまその家の婦人が階段を上がっていると、隣の中庭から子供の恐怖におびえた叫び声が聞こえてきた。彼女が窓辺に飛んで下を見ると、8歳ぐらいの黒人の少女が必死に走って庭を横切り、家の中に入ったところだった。そのあとを手に牛追いの鞭を持って追いかけているのはマダム・ラローリーだった。彼女はすさまじく速く、ほとんど少女に追いつきそうだった。

 彼らの姿は見えなくなった。しかし格子の暗闇の合間にちらちらと見え、またそのドタバタと騒がしい音が聞こえたので、少女が階段から階段へ、回廊から回廊へと駆け上がり、血相を変えた女主人に次第に追い詰められているのがわかった。すぐに彼らが屋根裏部屋に入ったことが物音から知れた。つぎの瞬間、彼らは屋根の上に飛び出していた。屋根の谷間に降りたかと思えばその端を走っていることもあった。この小さな逃亡者は滑り降りたつぎの瞬間は、屋根の上を這っていた。少女がいちばん端に追い詰められたときは、見ていた婦人も耐えきれなくなって思わず手で顔を隠したほどである。そして、下の舗装された庭に何かが落ちたドサリという鈍い不快な音。少女はだれかに抱き起されるが、だらりとして、動かなくなった。

*この章「暴かれたぞっとする真実」の全文はこちら 

 

 一方それから半世紀後、ジャンヌ・ドラヴィーニュは『オールド・ニューオーリンズの亡霊譚』のなかでこのエピソードに具体性を与えている。

 マダムはさらにリネン、フランス製コルセット、トルコ製の敷物を注文した。彼女は階段で歌をうたい、髪にバラや真珠を挿し、すこしばかりしゃれた詩を詠んだ。彼女は黒人のベルタに若いリアを呼んでこさせ、髪の整え方やスカートの畳み方、ハンカチの選び方などを仕込ませた。リアはチョコレート色の肌をした、やせた少女で、きびきびしていて、まじめで、物静かだった。マダムはリアがお付きのメイドに育つよう、ベルタに監督、教育係を任せていたのだ。

 しかしある朝、リアのやせっぽちの体は屋根からほうり出されて、中庭の端の歩道にドサリと叩きつけられたのだった。あやうく隣に住むマダム・ラローリーの遠い親戚であるムッシュー・モントレイユを直撃するところだった。この若い奴隷は賢くて役に立っていただけに、無念なことだった。しかしマダムは損失をすぐ埋めることができた。彼女は奴隷の軍隊を持っていて、いつでも新しい奴隷を買うことができたのである。どうしてこういうことになったかはともかく、リアが屋根に上ったのは愚かなことだった。

*この章「ロイヤル通りの幽霊屋敷」(1946 『ニューオーリンズの亡霊、ヴードゥー教、ヴァンパイア』所収)の全文はこちら 

 

 つぎはこの物語の中核部分である。ラローリー邸で火災が発生し、貴重品を運びだし、人々を避難させているとき、屋根裏部屋に幽閉された多数の奴隷が発見される。『ルイジアナの奇妙な実話』にはその様子がつぎのように描かれている。

ルファブルは戻ってくると、叫んだ。
「扉を見つけましたよ! そのかんぬきは壊したのだけれど、さらに扉があって鍵がかかっていました!」
 カノンジ判事は煙の中を突進して、その二重扉まで行った。
「さあこの扉を壊そう!」

 扉を破ると、そこには「巣」があった。彼らはすぐにふたりの黒人女を救出した。ひとりは大きな重い鉄の首枷(かせ)が首にはめられ、足は重い鉄球につながれていた。

「火勢が弱まってきたのでもっと探しましょう」と男たちは言った。
 そこにギロット氏がやってきた。彼はほかの部屋で幽閉されていた使用人を見つけたようだった。彼らがその部屋に入り、蚊帳を押し分けて入ると、そこには年老いた無力な黒人女がいた。彼女は頭部に深い傷を負っていた。
 数人の若い男がやってきて、彼女をかかえて外に連れ出す手助けをした。

 カノンジ判事はドクター・ラローリーの前に立ちはだかった。

「ムッシュー、屋根裏部屋にはもっと奴隷が閉じ込められているのですか」
 ドクター・ラローリーはムッとしてこたえた。
「勝手に人のうちに入って指図するとは差し出がましい。そんな友人にはお引き取り願いたいですな!」 
 それでも探索はつづけられた。つぎからつぎへと幽閉されていた奴隷たちが見つかって救出された。群衆はこの光景を見て震え上がり、憤って叫び始めた。

 『オールド・ニューオーリンズの亡霊譚』ではさらに脚色されて、おどろおどろしく描かれている。

 1834年4月10日にあきらかになった驚くべき事実に話を戻そう。その日、ラローリー邸で出火した。ある人が言うには、絶望的になった年老いた黒人女奴隷が火をつけたということである。ともかく炎が広がり、興奮した消防士が屋根裏部屋の扉に向った。伝承によれば火をつけた年老いた黒人女奴隷がそこへ行くよう示唆したということである。火災自体はだんだん収まってきた。

 消防士は屋根裏部屋の扉を叩き破り、狭くて暗い階段を上って行った。そこで彼は吐き気を催すようなおそろしい光景を目にする。

 そこにいたのはマダム・ラローリーだった。その柔らかくて美しい容貌の下に悪魔の魂を持っていた。友人や家族に愛くるしくほほえんでいるが、突然怒りの塊に豹変した。この変化を見たことがあるのは奴隷だけだった。ひとたび豹変すると(それは珍しくなかった)サディスティックな性向は、あまり知られていない種類の拷問を黒人奴隷たちに加えるまで収まることはなかった。この家では彼女の言葉が法律であり、好きなように罰する権力を持っていたので、死よりもつらい痛めつけかたをした。この極悪非道なドラマのなかで彼女は命令を下し、人に手伝ってもらうこともあった。

 マダムの毒牙から逃げたり、詰所(奴隷は病院でなく詰所に逃げ込んだ)に逃れたりした奴隷たちは、マダムのしていることがいかにひどいか語った。

 屋根裏部屋の扉を打ち破った消防士が見たのは、素っ裸で、壁に鎖でつながれていた屈強な黒人奴隷たちだった。彼らの目玉はえぐり取られ、指の爪ははぎとられていた。ある者は関節部分が見えるまで皮をむかれ、ただれ、臀部には大きな穴が開いていた。その穴は肉を削り取られることによってできたものだった。耳もちぎられて垂れ下がっていた。唇は縫い合わされていた。舌は引き出され、あごのところで縫い合わされていた。両手は切断され、胴体に縫い付けられていた。足は関節部からはずされていた。女奴隷もたくさんいた。彼女らの口や耳は灰や鳥の贓物が詰められ、体はきつく縛られていた。ある者は全身に蜂蜜を塗られ、黒蟻の大軍を放たれた。おなかから腸が引き出され、腰の回りで結われた。頭蓋骨にはたくさん穴が開いていたが、それは棒をこすって頭の中に入れ、脳みそをかきまぜようとしたのである。あわれな者たちの多くはすでに死んでいた。意識を失っているだけの者もいた。まだ息があるのはごくわずかにすぎなかった。その塗炭の苦しみはどんな筆でも描写できないだろう。

 

真実はどこにあるのか 

 上述のように、ニューオーリンズの文芸サロンの常連であった作家のグレース・E・キングは『ニューオーリンズのクレオールの家族』のなかでデルフィーン・マカーティ(マダム・ラローリー)の家族についてかなり細かいことまで書いている。にもかかわらず、ラローリー邸の事件に触れていないのはなぜだろうか。マカーティ家や(娘が嫁いだ)ファーストール家はだれもが知る名門であり、権力者である。あえてこの汚点を隠蔽しようとしているのだろうか。

 それともキングはこれも一種の冤罪と考えていたのだろうか。当時の上流階級ともなれば奴隷を所有し、使役させるのはごく普通のことだった。奴隷の扱い方は悪かったかもしれないが、特別にひどかったわけではない、とキングは言いたいのかもしれない。

 デルフィーンと奴隷との関係が深まるのは、二度目の結婚をした1807年頃からである。夫ジャンは銀行家であり、野心家であり、なんといっても奴隷商人だった。マカーティ家のプランテーションや財産が手に入り、奴隷貿易をいっそう強化した。自分のプランテーションの労働者だけでも相当数の奴隷が必要だったのである。しかし1815年に夫ジャンが死亡すると、突然手元の奴隷が飽和状態になり、彼らを大量にかかえこむことになったのかもしれない。1828年に三度目の結婚をしたときも、奴隷を持て余していたのかもしれない。そういった背景があり、奴隷の虐待につながったのだろうか。

 もうひとつ大きな謎がある。群衆がラローリー邸を取り囲んで騒いでいるさなか、デルフィーンは脱出し、馬車を走らせてポンチャートレイン湖岸まで行き、そこでスクーナーに乗って国外に出てパリに渡ったというのである。この種の伝説の場合、大半は、実際には殺されて遺体が捨てられたり埋められたりしているのだが、デルフィーンは本当にパリに到達しているようなのだ。彼女は1842年、フランス南部の森の中で狩猟をしているときイノシシに襲われて命を落としたと、一般的には信じられている。

 1941年にジャーナリスト、ボブ・ブラウンが「マダム・ラローリーが1842年に死んだ証拠を発見した」という記事を書いた。銅のプレートの墓碑銘が発見されたというのである。しかしこれは信憑性に欠けるものであり、そもそもジョージ・ワシントン・ケーブルとアシスタントのドラ・リチャーズ・ミラーが得た1842年死亡説の情報が根拠に欠けている。キャロライン・モロウ・ロングによれば、デルフィーンは1849年に死去したらしい。

 火事から2年後の1836年、ミス・マーティノウはニューオーリンズに10日間滞在したとき、たまたまラローリー邸に行き当たり、中に入っている。奴隷の少女がマダム・ラローリーに追いかけられ、最後は屋根から飛び降りたという話も聞いている。彼女はそのときの見聞を『西欧の旅の回顧』のなかに記しているが、火事の直後に出た多数の新聞記事のあと、作家がこれについて書いたはじめての記事だった。

 その15年後、旧ラローリー邸を訪れたのはスウェーデン人の作家フェデリカ・ブレマーだった。人々の記憶はまだ生々しく、ブレマーはマダム・ラローリーの数々の悪行のエピソードを収集することができた。

 時の経過とともにマダム・ラローリーの事件は風化し、忘れられつつあった。そんなときにジョージ・ワシントン・ケーブルが現れ、たんなるドキュメントでなく、血肉を加え、事実に依拠した(と主張した)物語を作り上げたのである。

 これに対し、マダム・ラローリーを擁護する人々が現れるのは当然の成り行きだろう。その先頭に立ってきたのはマダム・ラローリーの子孫である名門ディブイーズ家の人々である。とくに有名な建築家ラスボーン・ディブイーズの妻コリン・フォン・マイセンブルグと小児科医ローレンス・リチャード・ディブイーズの妻ミリアム・ドゥガンは積極的に名誉回復の運動を進めた。

 彼らやその影響を受けたジャーナリストは、マダム・ラローリーは「嫉妬とゴシップの無垢な犠牲者」だと主張した。たとえばマイグス・フロストは、「デルフィーンの鞭に追われた黒人の少女が屋根から飛び降りたというが、あれは螺旋階段の手すりで遊んでいるうちに落下してしまったのだ」と書いている。

 ディブイーズ家の妻たちはとくに、ジョージ・ワシントン・ケーブルに対する怒りをおさめることができないようだ。ケーブルは噂話をたしかめもせずに書いたのだと攻め立てる。

「ケーブルはしょせん作家です、歴史家じゃございません」

 彼らはケーブルが「色の着いた血筋」(colored blood)の者であり、いわば腹いせに物語を考え出したのだと決めつけた。しかしケーブルはクレオールではなく、純粋なコーカサス系である。

 またスタンリー・アーサーはケーブルが書いた話は、とんでもなく誇張されたものだと考えている。だから「マダム・ラローリーはイエロー・ジャーナリズムの犠牲者である」と主張する。

 一方で、ライル・サクソン(1928年)やハーバート・アスベリー(1936年)はマダム・ラローリーを「モンスター級のサディスト」と決めつけている。もちろん彼らは「まれに見る残虐な女主人」というイメージを作り出してきた当の人々である。先に引用したドラヴィーニュの『ロイヤル通りの幽霊屋敷』は、そうしたフィクショナルなマダム・ラローリーの完成形といえるだろう。

 マダム・ラローリーの末裔ならともかく、一般の人々にとって180年前の事件は風化しすぎていて、真実が何であるかに興味はもてないだろう。しかしもし富裕で名門の美貌の貴婦人が異常人格者でシリアル・キラーだとしたら、これほど好奇心を駆り立てる対象もないだろう。真偽はともあれ、すくなくともニューオーリンズの観光業にはおおいに役に立っているのである。またハリウッド・スターのニコラス・ケイジが一時、旧ラローリー邸の所有者であったことも、観光的(?)資産価値を高めるのに寄与しただろう。

 ジョン・ディクスン・カーの歴史ミステリー小説『ヴードゥーの悪魔』(Papa La-bas 1968)はまさにこのマダム・ラローリーの事件を取り扱っている。作者は小説の中で、直接彼女に会ったことがあるイザベル・ド・サンセールという女性に語らせている。彼女はマダム・ラローリーが奴隷を虐待していたという噂を否定した。

 四月十日、女主人が家を空けているあいだに、一人の年配の料理人が家に火を放ったの。駆けつけた近所の人たちは、火を消して、家具や貴重品を安全な場所に運び出すために、地獄のような現場に足を踏み入れた。彼らは火を消し止める前に奴隷の部屋で六、七人の痩せ衰えたみじめな人たちが鎖でつながれているのを見たわ。
(……)
 人づてのうわさ話が混乱と怒りに油をそそいだ。彼女は毎日の刺激剤がわりに奴隷を鞭打つ習慣があったとか、鞭打ちはバスティアン(お気に入りの御者)がやって、彼女はそのあいだうっとりと見つめていたとか。しまいには、この気晴らしでほかの奴隷たちが殺されて、中庭に埋められているといううわさまで流れた。それから五日後の四月十五日、民衆の怒りがついに爆発した。
 毒婦に死を! あの女をやっつけろ! 
(……)
 あなたもご存じのとおり、ニューオーリンズの住民全員にとって、デルフィーン・ラローリーの家は幽霊屋敷になっているわ。あそこに住もうとする人間は誰もいない。もっとも、ラローリー家が逃げだしたあとで修繕されて以来、さまざまな家族が住もうと試みてはみたのだけれど、叫び声、悲鳴、拷問を受ける奴隷の苦悩! 理性的な人たちは幽霊の存在を否定するわ。でも、迷信の存在を否定することはできないの。
(……)
 さあ、これが話の一部始終よ、マクレイさん! どこまでが真実で、どこまでが嘘なのかしら? 
(……)
 ごくわずかの奴隷がおとなしくさせるために鎖につながれていたかもしれないということはみんな認めている。彼女を弁護する側の人間にいわせれば、それ以外はすべて新聞記事の誇張か嫉妬深い敵の悪意にすぎない。鞭打ちなどなかった。それに埋められた死体もなかった。これはどうやら事実だったらしいわ。なかでもいちばんひどい話――幼い奴隷の少女がデルフィーンの鞭打ちにこれ以上耐えきれなくなって屋根から投身自殺したという話――は、ほぼまちがいなく嘘よ。
(ジョン・ディクスン・カー 『ヴードゥーの悪魔』 村上和久訳) 一部改変 

 ディクスン・カーはどうやらマダム・ラローリーが奴隷を虐待・拷問していたという事実はないのではないかと考えていたようだ。しかしそれが意図的に捏造された話、流された噂話であるとするなら、それには背景、動機があるはずである。火災が発生したのは事実であり、もしかすると奴隷のなかに死者が出たのかもしれない。だからこそ彼女はニューオーリンズの生活に見切りをつけて母国フランスに安息の地を見出そうとしたのかもしれない。


マダム・ラローリーはブラック奴隷主だったのか 

 残虐なマダム・ラローリーのイメージを最初に作り出したのは、ハリエット・マーティノウだった。

「げっそり痩せ衰えた奴隷たち、健康的で輝いている御者、屋根の上で追いかけられる子供の奴隷、不法な残虐行為を証明することになる審理、没収され公開オークションで売られる9人の奴隷、火災当日に発見されたおぞましい発見、ラローリー邸に押し寄せた怒った群衆、彼女がひいきにしている御者が疾駆する馬車に乗って逃亡するマダム・ラローリー」といった、のちに脚色され、誇張されるもとのテーマは彼女が書いたものだった。もちろん火災から2年後に当地を訪ね、何人かの目撃者や証人から話を聞いているので、それらが大きなまちがいであることはないだろうが、噂話や風説をうのみにしている面があることも否めない。

マダム・ラローリーことデルフィーンの奴隷の扱い方に問題があったことは疑う余地がない。1829年に彼女は「奴隷に対する野蛮な扱い」に関して訴えられているのだ。(キャロライン・モロウ・ロング)

しかしこのときは進んで証言者になろうとした者がいなかったために、有罪が証明されず、彼女は無罪放免となっている。もちろん彼女の地位と財力がものをいったのである。すこし前の市長がマカーティ家から出ていたほどで、罪をもみ消すのはむつかしくなかった。

 しかし上流社会のだれもが奴隷を所有していた時代で、あえて訴えられるというのは、よほど奴隷に対して厳しく当たっていたのだろう。現代日本の「ブラック企業」という言い方をあてはめるなら、「ブラック奴隷主」といったところだろうか。多くの奴隷があまりにも厳しすぎると感じ、周辺の人々も「やりすぎだ」と感じていたからこそ、火事が発生したとき、群衆が押し寄せるという事態に至ったのだ。

しかしだからといって、奴隷たちを鎖につなぎ、首枷(かせ)をはめていたというのは誇張しすぎではなかろうか。話はさらに「盛られ」、作られ、おどろおどろしくなっていく。デルフィーンの3番目の夫は実際に外科医であったわけだが、一種のマッド・サイエンティストで、奴隷を実験台として使ったということになってしまった。

「男の奴隷に手術を施して女に変えた」「腕を切り落とし、何か所も皮膚を円盤状にえぐって人間毛虫に仕立て上げた」「全身の骨をはずして小さなケージに閉じ込め、蟹に見えるように体をつくりかえた」(ドラヴィーニュ。上述)というのである。もちろんここまでくると、イマジネーションの産物としかいいようがない。

 ドクター・ラローリーは外科医であったが、背中をまっすぐにするのが専門だった。それに彼はデルフィーンの財産にたいし、まったく権利を持っていなかった。どういう婚姻関係だったのかよくわからないが、すべての財産は妻に属し、フランスから来たばかりの夫は何も持っていなかったのだ。

 バスティアンという名のお気に入りの御者もフィクションの可能性がある。彼も奴隷だが、イケメンのムラート(白人と黒人のハーフ)で、愛人だった。火事のあと群衆に取り囲まれたとき、バスティアンが命がけで馬車を走らせて突っ切り、湖岸まで彼女を運んだ、と描かれることがある。しかし実際の御者は黒人で、バスティアンという名も奴隷のひとりの名前にすぎず、御者であるかどうかはわからない。

 そして先に述べたように、デルフィーンは1842年に死んだというのはおそらくでっちあげである。ロングの調査によれば、彼女は1849年12月7日にパリで永眠している。死ぬ前は、ジャン・ルイ・ラローリーとデルフィーンの子どもたち(もうおとなである)ポーリーン、ローラ、ポーリーン・ブランクと暮らしていたという。子供たちの手紙からわかるのは、最後の何年間か彼女は病気を患っていたらしく、死因も(イノシシではなく)その病気だろうとロングは推測している。

 パリに逃げ、それなりに裕福な生活を送ることはできたようだが、奴隷を虐待していたという噂はヨーロッパにまでついてまわり、世間から白眼視されつづけるというつらい状態からは脱却できなかったとみられる。











ニューオーリンズ・ロイヤル通りの旧ラローリー邸はいまや観光名所。ニコラス・ケイジが所有していたこともあった。



キャロライン・モンロー・ロングの『マダム・ラローリー』の表紙。ラローリー夫人はヴードゥー教のラヴォーと並ぶ19世紀ニューオーリンズの二大看板だった。