嵐のなかの騒がしさ 

 ダン・ブラウンのミリオンセラー『ダ・ヴィンチ・コード』に「この小説は事実に基づいている」という注意書きが付されていたことは記憶に新しい。『レンヌ・ル・シャトーの謎』(これだって世界的なベストセラーだった)のファンであれば、聖杯伝説やシオン修道会、マグダラのマリア伝説、メロヴィング朝伝説といった事実とは言い難い小道具がたくさん出てくるので、この一節がガマの油売りの口上とさしてかわらないことがすぐにわかった。

 それでは「シェイヴァー・ミステリー」の「これは真実である」もおなじ類のものなのだろうか。レイ・パーマーやリチャード・シェイヴァーはガマの油売りなのだろうか。もしそうなら、あえてだまされてガマの油を買うのも一興ではないのだろうか。「シェイヴァーのまがいもの(hoax)」というレッテルを貼った批判にたいしては、「なに真に受けているんだ」と言い返したくならないだろうか。

 問題は、ある意味でそれが真実であったことだ。リチャード・シェイヴァーは1943年までの9年近くを3か所の精神病院で過ごした統合失調症の患者だった。彼には「声」がはっきりと聞こえ、世界がデロによって毒されているのが見えた。少なくともシェイヴァーにとってそれは真実であり、人類の危機を世界に知らせなければならないという思いが強かった。

 パーマーがすごいところは、狂人の戯言と普通はとらえるものを、編集者の立場から読者ウケすると考えたことだ。この点だけでいえば、パーマーの見方はきわめてビジネスライクであったといえる。パーマーの娘ジェニファーは、「父はシェイヴァー・ミステリーを一度として真実として語ったことがない」と証言しているのだ。ただしオアースピ(Oahspe)のバイブルのファンだったパーマーは、地球に人類以外の知的生物が存在することを昔から信じていた可能性はある。

 シェイヴァーが「声」を聞き始めたのは1934年で、パーマーがシェイヴァーを見出したのは1943年だった。シェイヴァーはその期間の大半を精神病院の中で過ごしているので、その間にシェイヴァー・ミステリーが醸成されたのだろう。そして手直しされた作品がアメージング・ストーリーズ誌に掲載されて発売されたのが1945年である。精神病患者の芸術作品がアウトサイダー・アートとして高く評価されることがあるが、シェイヴァーの作品はいわばアウトサイダーSF小説というべきものなのかもしれない。その「真実性」が大きな論議を呼び、このパルプ・マガジンは思いがけず通常よりもはるかに売れた。

 1946年2月のアメージング・ストーリーズ誌を含むズィフ・デーヴィス社の全パルプ・マガジンの売れ行きは26万部だったという。そのうちアメージング・ストーリーズ』誌の売れ行きは9万部ほどである。SFパルプ・マガジンは5万部売れれば十分といわれる時代にあって、倍の売れ行きを示した。

 

 最初に述べたように「シェイヴァー・ミステリー」といえば「シェイヴァーのまがいもの(hoax)」という表現がついてくるほど、そのイメージは大きく傷ついている。しかし作者のシェイヴァーは長く精神病院に入っていた精神疾患の患者であり、人をだます目的で作られたものではなかった。

 ではどうして多くの人に敵愾心を持たせることになったのだろうか。

 アメリカのポップカルチャーにおいて隠然とした力をもってきた勢力があった。ファンダムである。ファンダム、とくにSFのファンダムははじめ、たんなるファンの集合体にすぎなかったが、次第に権威を持つようになり、秘密結社的な側面を持つこともあった。SFのファンダムは定期的にワールドコン(世界SF大会)を開催し、そこから新しい方向性が生まれることもあった。

 元祖SFファン、ジャック・スピア(19202008)の分類によると、もっとも早い時期はイオファンダム(19301933)である。第1次ファンダム(19331936)の中心となったのはファンタジー・マガジン誌で、ラップ(レイ・パーマー)は編集者として参加していた。つぎに第1次空白期(1936年後半―193710)、2次ファンダム(193710月―193810)、2次過渡期(1938年フィラデルフィア・コンベンションから1940年シカゴ・ワールドコン)、3次ファンダム(1940年9月―1944年はじめ)、3次空白期(1944)、4次ファンダム(1944年後半―1947)と分類される。この第4次ファンダムがシェイヴァー・ミステリーに過敏に反応することになる。

 アメージング・ストーリーズ誌が爆発的に売れることによって思わぬ副産物が生じた。全米から何千通もの手紙が送られ、それらがシェイヴァーとおなじ声を聞いたと主張したのだ。レイ・パーマーはこれでシェイヴァーの真実性が立証されたと喜んだが、もちろんこれで証明されるようなものではなかった。1948年にシェイヴァー・ミステリーが打ち切られると、途端に声を聞いたと訴える手紙は届かなくなった。1947年だけで15本のシェイヴァー・ミステリー作品がアメージング・ストーリーズ誌に掲載されていたので、この打ち切りには多くの人がショックを受けた。

 話を少しだけ戻すと、1947年のフィラデルフィア・ワールドコン(略称フィルコン)がファンダムとシェイヴァー・ミステリーの戦いの場となった。ここでシェイヴァー・ミステリーに対する宣戦布告書のようなものが配られた。タイトルは「アメージング・ストーリーズ誌のレムリア方針に関する決意」だった。そこにはシェイヴァー・ミステリーのひとつひとつを激烈に批判する呪詛のような言葉であふれていた。そしてレイ・パーマーの読者に対する警告がつづき、最後にファンダムが推奨するSF雑誌のリストが掲載されていた。

 つまりアメージング・ストーリーズ誌を発行するズィフ・デーヴィス社をファンダムから追放しようとしていたのだ。

 レイ・パーマーはただでは転ばぬタイプの人間だった。このフィラデルフィアのワールドコンのすぐあと、アメージング・ストーリーズ誌にロバート・ポール・キドウェルという新しい作家を登場させ、シェイヴァー・ミステリーが真実であるかどうかを論じさせ、検証させている。キドウェルはあきらかにラップの筆名だった。これはファンダムとの戦争のつづきではなく、火消しだった。時間稼ぎといってもいい。

 1949年、シンシナティで開催されたワールドコン(略称シンベンション)でパーマーは驚くべき発表をおこなった。彼はズィフ・デーヴィス社をやめ、独立するというのだ。じつは前年(1948年)から刊行されていた超常現象を扱うパルプ・マガジン「フェイト」誌の隠れた(偽名をつけた)出版人だった。記事のタイトルを見ると、「空飛ぶ円盤の秘密」「マーク・トウェインとハレーすい星」(トウェインはハレーすい星が来た年に生まれ、つぎに来た年に死んだ)「宇宙からの訪問者はここにいる?」「奇跡の裏にある秘密の科学」「リンカーンは神秘主義者だった?」「X線の目を持つ少年」「永遠の幽霊船」などなど。「シェイヴァー・ミステリー特集」もあり、こうして見ると、SF小説のなかに混ぜるのでなく、超常現象のなかに入れるとすっきりすることがわかる。

 「フェイト」誌はパルプ・マガジンとしてはもっとも長くつづいた部類に入る息の長い雑誌となった。ラップは独立した編集者、出版人として成功を収めたのである。毀誉褒貶が激しい、というよりニセモノを作ったという汚名を着せられたように言われることが多いが、レイ・パーマーに関して言えば勝ち組なのである。

 パーマーと比べると、ビジネスに興味のないシェイヴァーは、怒涛の時期(1945−1948)を過ぎると、ゆったりとしたペースを崩さなかった。1950年代のはじめ、シェイヴァー・ミステリーに強く惹かれたリチャード・ホートンという学生がシェイヴァー夫妻のもとを訪ねた。正確にいえば、シェイヴァー夫妻の農場を訪ねた。ホートンがはじめてシェイヴァーを見たとき、彼はニワトリにエサをやっていた。「これがデロの攻撃とかレムリアとかについて書いているシェイヴァーなのか」と驚いたにちがいないが、印象は悪くなかったのだろう。悪くないどころか彼は農場に3年も居候して仕事を手伝い、どういうわけか(正式ではないが)養子にまでなっているのである。ホートンはシェイヴァー・ミステリー・クラブのコンベンションを開催することを提案するが、シェイヴァーは乗り気でなかった。特異なSF作家というよりその表情はしだいに農場主のものになりつつあった。

 しかし60年代以降、シェイヴァーは「岩の書」なるものをもってふたたび脚光を浴びる。しかしそれは彼が発見したシェイヴァー・ミステリーの証拠というより、彼自身の芸術作品といったほうがよかった。狂気を秘めた芸術的感覚はより研ぎ澄まされたように感じられた。

 







ハワード・ブラウンの『暁の戦士『や人気SF作家エドモンド・ハミルトンの名が見える。この号にガイアーの『夢の領域』所収 



シェイヴァー・ミステリー・クラブの会員証 



シェイヴァー・ミステリー・クラブの運営を任されていた
チェスター・ガイアー(1921−1990)。 
多作のSF作家でもあった 



 

 
フェイト誌の表紙から 



アーカンソーの家の前のシェイヴァー夫妻。
(1963年冬) 




レイ・パーマーと軽飛行機。
パイロットはUFO目撃で有名なケネス・アーノルド。
シェイヴァーと二人で遊覧させてもらった 




岩の書に囲まれて 



シェイヴァー・ミステリーの影響を受けた現代小説。
ビル・エクトリック『タンパー』