ペギー・ベーコンの物語 1 宮本神酒男訳
真の哲学者と彼の猫
むかし、ひとりの哲学者がいました。彼の持ち物は、この広い世界のなかで、猫一匹と哲学だけでした。最後の本を古本屋に売り、最後のバターケーキを食べたところで下宿の女将(おかみ)にたたき出されてしまいました。彼は両腕で猫を抱きしめました。この姿勢が彼と猫双方にとって楽なのです。彼は王道を歩むかのように堂々と出発しました。若き哲学者として口笛をピュウっと吹きました。
五月のはじめのことでした。通り過ぎる花壇からは喇叭水仙やヒヤシンスの花々が咲きこぼれていました。路傍にはスミレが咲き競っていました。あらゆる土地でフルーツの木の花々が咲き乱れています。ですから人が想像するほどには、彼は自分が困窮しているとは思いませんでした。だって甘く香ばしい朝、鳥が歌い、お日様が輝いているのに、だれが孤独で、悲しいと感じるでしょうか。それに猫はぽっちゃりと太っていて、彼の哲学はとても純真なのです。実際のところ彼は何かを持っているのです。
哲学者と猫はしばらく旅をつづけました。そして午後の盛り、馬車がけたたましい音を立てて走ってきたかと思うと、彼らの真横でとまりました。豪華な衣装を着たがっしりとした紳士が馬車から飛び出してきて、哲学者に話しかけてきたのです。
「わたくしは」もったいぶって彼は言いました。「宮内長官である」
「それならぼくは」若者はほほえみながらこたえました。「哲学者です」彼は尊大な態度が大嫌いだったのです。
「それは見当違いでしたかな」宮内長官は試すように言いました。「あなたは猫を持っておいでになる。しかも純白の猫を。よろしいですかな」
「そのとおりです」哲学者は誇らかに言いました。「ほんとうに純白なのです。一本の毛も純白以外はないのです」
「そして鼻は黒い」
「そうです。そして目は愛らしい二度と忘れられないブルー。愛する者よ、見上げてごらん。その目をこちらの紳士に見せておやり」しかし愛する者は眠たげで、見上げようとしなかったのです。
「まあ、目はさほど重要ではないのです」宮内長官は追い払うように言いました。「国王は病気なのです。気分がとてもすぐれないのです。医者は鼻が黒い純白の猫の心臓が効くという処方を出しました。鼻が黒いすべての猫が集められましたが、それらは黒い毛の猫なのです。純白の猫の鼻はきまってピンク色なのです。もし探しているような猫がいれば、相当の謝礼が支払われます。実際、王女さまと婚約できるのです。国王が亡くなったあと、王国がそのかたのものとなるのです。さあ、どうなさいますかな」宮内長官は勝利を得たかのように叫んだ。
哲学者が見上げると、馬車の窓から恥ずかしそうな、好意を持った表情の王女さまが見えたのです。彼は視線を落として猫を見つめ、ため息をつきました。
「畏れ多くもそれはできないのではないかと思われます」彼はふたたび物足りなさそうに王女を見ながら言いました。そして宮内長官のあごがはずれでもしたかのように彼は急いで加えました。「ぼくの猫は心臓がなくてはなりません。それにぼくにはこの猫が必要です。手短に言えば、この猫を手放すことはできないのです」
「なに、猫一匹のために輝かしい人生を棒に振る、ということなのかね!」宮内長官はびっくりして叫んでしまいました。
「ああ、この猫はほかの猫とちがうんです」若者は声を荒げました。「何年も何年も、この猫はぼくといっしょだったのです。いつもぼくの親友だったのです」猫は上を向いて、喉をゴロゴロ鳴らしました。「どんな困難なこともともに乗り越えてきたのに、いまひどい仕打ちをするなんてことはできません。哲学を除くと、この猫はぼくのすべてなのです」
「この猫がおまえのすべてかもしれないが、もし猫を手放すのなら、とんでもない幸運が転がり込んでくるのだぞ」と宮内長官は説きつけました。
「そんなの考えられないよ!」哲学者は頑なに言いました。
「でも猫がきみのすべてだとしたら、どうやって生きていこうと言うんだい?」宮内長官は絶望的に叫びました。彼は求められた猫の捕獲なしには王のもとに戻る気はありませんでした。それだけでなく王女が泣いていることに彼は気づいたのです。
「ああ、なんてこと」哲学者はこたえを返しました。「ぼくたちは幸せに暮らしています。ほんとうなんです。いままで試したことのなかった論理的なやりかたでチャレンジしているので、とても忙しかったのです。じつのところ、ぼくは自分自身の哲学を構築している最中なのです。この哲学はほかのすべての哲学を含みますし、すべての欠点を補うものでもあるのです。ほんとうにものすごく興味深いのは、たとえば……」彼はつづきを語りたかったのだけれど、宮内長官は我慢しきれずにさえぎりました。
「わたしが知りたいのは、あなたがどのくらい生きたいか、ということだ。哲学者だって食べなきゃならんだろ。猫だってそうだ」
「もちろんそうです、ぼくたちは食べなくてはなりません」哲学者はとまどっています。「でもまだランチタイムではありません。食事の間はたべないようにしています。それはメンタルのプロセスを妨げてしまいます」
「だがランチタイムでおまえは何をする? ディナーのときに何をする? ブレックファーストの時間に何をする?」男は怒りのあまり叫びます。
「何をするって」若者はなおもとまどい、鸚鵡返しにこたえました。「もちろん食べるでしょう。食事の時間ですから」
このとき馬に乗った使者がやってきて、長官の前で手綱を引きました。
「国王が」彼は大きな声で言いました。「侍医と言い争いをして、ほかの医者を呼んだのです。その医者が言うには、王の健康を取り戻し、幸せにするには、真の哲学者と五分間話す必要があるというのです。あなたはどうしても哲学者を連れて戻らなければなりません。報奨金はおなじように払われます」
「ここにひとりいるんだがな」宮内長官はため息をつきました。「自分の食事にこんなに冷淡なのは真の哲学者くらいのもんだよ。どうか、哲学者さん、馬車に入っていただけますかな。宮廷へお連れしましょう」
哲学者は猫といっしょに馬車に乗り、王女の隣に腰かけました。彼女の目は乾いていて、うれしそうに彼のほうを見ています。馬車は宮廷めざして出発しました。
「そなたは真の哲学者であられるかな」国王がやさしくたずねました。「わしに話しかけてほしい」王は背もたれに背中をもたせかけ、弱々しく目を閉じました。
「どうなさったのでしょうか」哲学者は猫を撫でながら、やさしく国王を見つめました。
「医者が言うには真の哲学者と五分間話すことで病が癒えるというんだな。それしか治療法はないというんだ。さあ、始めよう!」
「でもあなたの病気とは何の関係もありません」哲学者は考えながら発言しました。
「それじゃ、まるで病気じゃないみたいだな」国王は殉教者のような雰囲気を醸し出していました。
「国王はじつに健康そうに見えます」哲学者は言いました。
「なんと?」国王は叫びました。「わたしが病人に見えないだと?」
「ほんとうに病気なのですか?」いぶかしげに哲学者は言いました。
「もちろん病気だとも!」国王は偉そうに言いました。「ひどい病気だ!」
「信じられないですね」哲学者は高らかに言いました。
国王は目を開けて答えを求めました。「なぜだ」
「なぜなら」哲学者は論理的な追及の手をゆるめるつもりはありません。「あなたは完全に健康そうに見えます。大丈夫という雰囲気があります。病気の原因が見当たりません。ないものがありますか。しあわせではないですか」
「しあわせだと?」国王はあいまいに言葉を繰り返します。
「そうです」哲学者は問い詰めます。「あなたはすばらしい宮殿をもっています。魅力的な庭があります。安らげるベッドがあります。腕のいいコックも、かわいい娘も、繁栄する王国も、丈夫な胃も――医者が言いそうですが――あります。もちろんあなたはしあわせでしょう。あなたがしあわせなら、あなたは大丈夫ということです。あなたが大丈夫なら、病気のはずがありません」
「本当にたしかだな」国王は考えながら言いました。「私はたしかにすべてを持っている。だから当然しあわせでなければならない。わたしがしあわせであるなら、わたしは健康のはずだ。しあわせでなかったら、健康のはずがない。健康なら、しあわせのはず……なにかおかしいな。おや、五分たってしまったようだな」
五分間のタイムアップです。国王は哲学者に「回復期にある」と感じさせました。彼らは婚礼の計画を練るため、下の階に降りていきました。
「ところで天文台をどうするつもりだね」国王はききました。国王は混乱していて、まだ哲学者のことがよくわかっていなかったのです。
「まあともかく」未来の義理の息子は声を荒げました。「哲学者が望むのは屋根裏部屋ですね」
「そうなのか」困ったとばかりに国王は眉をひそめました。「とてもむつかしいことをきみは求めているようだね。宮殿に屋根裏部屋なんて聞いたことがないぞ。まあそうはいっても、塔のひとつに屋根裏部屋を作ることは可能だが。一番いいのは、屋根のひとつ部屋を作るんだな。心地よくて、近くて便利な場所に」
「ああ、そんなにむつかしいなら、屋根裏部屋のことは忘れてください」哲学者はあわてて言いつくろいました。「ぼくがもっとも望んでいるのは図書館なのです」
「それなら大丈夫だ!」国王はほっとしてそう答えました。そして国王はすぐに哲学者のためになんでもそろった大きな部屋を用意したのです。その部屋は地球儀、地図、安楽椅子、書き机、くずかご、ペイパーカッター、それにすべての本一冊、原稿、世界に存在したすべての石碑で満たされました。そこに哲学者と猫はただちに、そして喜んで自分たちの身をそこに置いたのです。でもいやいやながら、彼はそこを離れなければなりませんでした。婚礼があるのです。計四回、彼は呼ばれ、そのたびに着替えて行かなければなりませんでした。
でもそれが終わると、彼は王女としあわせに暮らすことができました。実際、ほとんどの時間を書斎で過ごしたのでしたが。父国王が亡くなったあと、国政は王女の手に渡りました。彼女はこういったことが好きで、性に合っていたのです。彼は引退して聖なる場所、つまり書斎に閉じこもって、猫を膝の上にのせ、片手に本を持ち、何にも邪魔されず、死が訪れるまで、哲学的思考を追い求めることができました。