なぜ瞑想? 

 

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 私たちは楽になるために瞑想をするわけではありません。言い換えるなら、つねに、いつでも気分よくなりたいために瞑想をするのではありません。このことを知ると、あなたがたはショックを受けるかもしれません。実際、じつに多くの人が単純に気分よくなりたくて瞑想をしにくるからです。ともかくも、喜ばしいことに、瞑想の目的が気分悪くなることではないことはたしかです。むしろ瞑想というのは、起こっていることに対し、率直な、思いやりのある「気づき」の機会を与えてくれるのです。瞑想空間は大きな空のようなものです。現れるいかなるものも収容できるだけの十分な広がりを持った空なのです。

 瞑想をしているとき、私たちの思考や感情は雲のようにとどまったり、流れ去ったりします。よいこと、心安まること、楽しいこと、困難なこと、痛々しいこと、そういったあらゆるものが行ったり来たりするのです。つまり瞑想の本質はとても革新的な修練であり、人間の習慣的なパターンではけっしてないのです。何が起こっているとしても、それに善か悪か、正しいか間違っているか、純粋か不純か、そんなレッテルを貼らないで、体験の上にとどまるということなのです。

 もし瞑想がたんに気持ちよく感じるためのものであるなら(だれもがそうひそかに願っているのかもしれません)何かやりかたが間違っているに違いないと私たちは思ってしまいます。というのも、しばしば瞑想によって私たちはひどく苦しい思いをすることがあるからです。ありふれた日、ありふれた瞑想センターで、瞑想を試みる人に起こりがちなことといえばなんでしょうか。退屈で、落ち着きがなく、背中がこわばり、膝も痛むといったことです。心さえもが痛みだすかもしれません。つまり気持ちいいどころか、「気持ちよくない」ことばかりなのです。

瞑想は気持ちよさを求めるのではなく、思いやりをもって心を開くことなのです。そして自分自身であること、またどんなことにたいしても自分の状況として切り抜ける能力なのです。瞑想をするとき、どのような生が示されるにせよ、あなたは心を開かなければなりません。大地に触れ、まさにここに戻ってくることなのです。ある種の瞑想によって、特別な状態に達することができるでしょう。それだけでなく、人生の困難を超越し、さらにパワーアップするのです。それこそわたしが修練を積んできた瞑想であり、人生に対して覚醒する瞑想なのです。人生の――まさにあるがままの――困難と楽しみに対して心と精神を開いているのです。そしてこの種の瞑想の成果ははてしなく大きいのです。

 


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