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瞑想をしながら培う第四の特性は、ずっとわたしが触れてきた何か、すなわちあるがままのわたしたちの生やそれぞれ、あるいはすべての瞬間に対し覚醒する能力のことです。これはまさに瞑想の本質です。わたしたちは今この瞬間へ神経を集めるのです。今ここにいることを学ぶのです。そしてまた今ここにいることに抵抗するのです。はじめて瞑想の実践をはじめたとき、わたしは自分には向いていないと思いました。今ここにいることにたいし、大いに抵抗していることに気づいたのです。今ここにいること――まさにこの瞬間に神経を注ぐこと――は、いかなる確かさも予測ももたらさなかったのです。とはいえ現在の瞬間に向かってリラックスするということは、未知のものにたいしてリラックスするということだったのです。
人生は予測できるものではありません。あなたは言うことができます。「ああ、予測不能って好きだよ」と。ある程度は真実です、それが楽しめることであったり、冒険的であったりするかぎりでは。わたしにはたくさんの親戚がいます。かれら、とくにすべての甥っこたち、それに姪っこたちは、バンジージャンプみたいな状況や恐ろしい事態に陥っています。ときどきわたしはかれらの活動に思いを馳せ、身も凍るような心地になってしまいます。でもだれもが、わたしの手に負えない親戚たちさえもが境界に出くわすのです。もっとも冒険的な彼らが思ってもみないところで境界に出くわすのです。たとえば一杯のコーヒーが飲めないときなどです。わたしたちは橋からさかさまに落ちているのです。それなのに一杯のコーヒーが飲めないことにたいし立腹しているのです。コーヒー一杯が飲めるかどうかはどうでもいいのですが、あなたは境界にいるのです。この境界を踏み越えると、あなたは居心地の悪い、不確かな世界にいるのです。
つまりこの場所は境界であり、今この瞬間を受け入れる場所であり、未知のものと出会う場所なのです。そして目覚めたいと願い、心を開こうとしている人々にとってはとても力強い場所なのです。今この瞬間はわたしたちの瞑想のなかに生まれた炎です。それは自己変革に駆り立てるものなのです。別の言葉で言えば、今の瞬間はあなたの個人的な旅の燃料となるのです。瞑想はあなたが境界と出会うために手助けしてくれるでしょう。実際あなたはそれに抵抗し、それを失い始めることになるのですが。その瞬間に未知のものと出会うことによってあなたは自分の人生を生きるようになるのです。いままで以上に十分にさまざまなものと関係を結び、関わり合いを持つようになるでしょう。これが本気で生きるということなのです。
瞑想はつねに新しいものです。それは最後の安息の場所ではありません。もっと、もっと落ち着くことができるはずです。だからこそ今年も、つぎの年も、やりつづけるのです。もし振り返っていかなる変化も起きたと感じなかったら、またもし前よりも落ち着いたと、あるいは柔軟になったと認識できなかったら、ひどく心が折れてしまいそうです。でもそういったふうに感じるものなのです。そしてまたあらたなチャレンジがはじまります。こうしてわたしたちは謙虚でいられるのです。あなたの人生の基盤が崩れることもあります。わたしたちはより落ち着いた、より心を開いた場所にいれば、未知なるものとの出会いにも取り組むことができます。だれにだってそうしたことは起こるのです。あなたはすべてを持っていると考えるかもしれません。本当にすっかりくつろいでいると考えているかもしれません。そしてあなたは本当の姿を見せるのです。たとえば、あなたは「落ち着いた尼僧」の書いた瞑想の仕方の本を読み始めています。そしてわたしが小さなガキのようになっていることを知らなくてはなりません。何年も瞑想を実践してきたわたしにさえ今の瞬間と出会うチャレンジをしているのです。何年か前、わたしは六歳になった孫娘とちょっとした旅に出たことがありました。それはなかなかやっかいな体験でした。というのも孫娘はひどく扱い難かったからです。彼女はすべてのことに対し「いや」と言ってききませんでした。わたしは敬愛する小さな天使にお手上げでした。そこでわたしは言いました。
「アレクサンドリア、あなたとおばあちゃんの秘密なんだけどね。あなたはだれにもしゃべりたがらないわね。見て、ここに何冊か本があるでしょ。表紙に写っているのはみんなおばあちゃんよ。でもこの本、持っている人を見かけてもこのことしゃべっちゃだめだからね」」
ポイントとなるのは、本当の姿をさらけ出したとき、どうしたらいいかわからなくなることです。瞑想を実践するとき、徐々に自分の姿をさらけ出していくのは、それまでとおなじように少し困惑するだけのことです。でもあなたは自分がどこに執着しているかがわかってうれしいのではないでしょうか。あなたはそれ以上のサプライズなしに死の旅路に出たいと願うでしょうから。死の床であなたが自分を「聖なる誰かさん」と考えているなら、看護婦がイライラしながら、また怒りながらあなたの体を壁のほうに押しやったとしたらさぞショックでしょう。看護婦に対して怒りながら死ぬだけでなく、存在全体に対し幻滅を感じながら死ぬのです。なぜ瞑想をするのかとたずねられたら、今この瞬間に対し、より柔軟に、より忍耐強くなれるからだとこたえるでしょう。あなたは死につつあるとき、看護婦にいらつきながら、こう言うかもしれません。「これがわたしの生き方なのよ」と。あなたは怒りを体から押し流します。あなたは落ち着きを取り戻し、望んだとおり、微笑みを浮かべながら死んでいけるでしょう。この看護婦でラッキーだった、と思えるのです。「なんだ、こんなことか!」とあなたは言うでしょう。このように慈雲の姿をさらけ出した人々をグル(師匠)と呼びたいものです。
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