幻の島ハイ・ブラシルを探して 

シェーン・コクレイン 宮本神酒男訳 

 *ピーター・トレメイン『アイルランド幻想』(甲斐萬里江訳)所収の「幻の島ハイ・ブラシル」は珠玉の短編です。是非賞味あれ 

 

 民俗学者トマス・ウェストロップがはじめて伝説的な島ハイ・ブラシルを見たのは1872年のことだった。そのとき彼は少年で、キルキーの漁師たちがこの島に到達して戻って来なかったという話に魅了された。ウェストロップはのちに、彼が見たものは蜃気楼にすぎなかったと記すことになるが、ほかの人たちにとっては現実に存在する場所でありつづけた。実体のある、それと同時に精神的な豊かさを表わす場所なのだ。この伝説は19世紀のアイルランドの一隅から世界に広がり、多くの人をハイ・ブラシル探求の旅に駆り立てた。

 ハイ・ブラシルはアイルランドに伝わる追放された神トゥアハ・デ・ダナーンの聖域である。島は死すべき運命の者からは見えないように呪いがかけられていたが、7年ごとに見ることができた。

もっとも早くこの島のことが記録されたのは、7世紀の文献『フィーバルの息子ブランの冒険』だった。しかし記録よりもはるか昔から島は目撃されていたと一般には考えられている。

 島が海図にもっとも早く登場したのは、アンジェリーノ・ドゥルチェルトの1325年の海図である。しかしハイ・ブラシルの存在が証明されたわけではない。そこに記載されたのは、船乗りたちのおびただしい目撃証言があったからである。カール・モアランドとデーヴィド・バニスターの『古代の地図』によると、目撃が減ることはなかったため、地図製作者たちは島を削除することに消極的だった。ハイ・ブラシルは1870年まで地図上から消えることはなかった。

 しかし1863年10月のダフィーズ・ハイバーニアン誌によると、船乗りの目撃談を証拠とするのはあきらかな問題だという。

「もともと彼らの話はつねに曖昧で、驚異的なものであり、それを信じるのは夢の国の物語を真に受けるようなものである。遠く離れた異国の不思議な物語を語るのは、そういう場所へ行った冒険的な旅行家や航海者の特権だった。それは物語を聞く者や読者を驚かせ、賞賛させればさせるほど、ボルテージは上がるのだ」

 とはいえ、あまたの報告から、ある程度はハイ・ブラジルの場所が特定されるのである。それはアイルランドの西であり、あるいはアイルランド島の南西隅の沖合だった。

 

カボットと島 

 海図につねに記載されてきたので、15世紀までハイ・ブラシル島は、探検家にとって伝説的な存在とはかならずしもみなされなかった。それは征服されるべき、植民地化されるべき土地だったのである。15世紀後半、たくさんの探検家がこの謎めいた島を探しに出かけた。

 ジョン・ジェイ・ジュニアは1480年にブリストルを出発したが、2か月後、何も発見することができずに戻ってきた。1481年にもトリニティ号とジョージ号がイングランドから出航したが、やはり何も得られずに戻ってきた。

 成功が得られなかったにもかかわらず、ハイ・ブラシルの探求は英国人の想像力をかきたてた。当時ロンドン駐在のスペイン大使だったペドロ・デ・アヤラはフェルディナンド王とイサベラ女王に宛てた1498年7月25日付の手紙のなかでつぎのように記している。

「この7年の間にブリストルの人々は、ジェノヴァ人の空想を信じて、2、3、4艘のカラヴェル船を出して、ハイ・ブラシル島と7つの都市の探索を行わせています。国王が探索をおこなう決心をしたのは、去年、それらが存在するという証拠を得たからだといわれています」

 ジョン・カボットさえもがこの島の魅力の虜となった。1498年、300人の船乗りとともに5艘の船に乗り出航した。ハイ・ブラシルを発見することが第一の目的ではなかったが、途上で見つけられたらと期待していた。カボットは島を見つけることはなかった。見つけるどころか、彼自身戻ってくることはなかった。

 

発見された島 

 17世紀にはふたたびハイ・ブラシル島が興味の対象となった。1623年5月、トマス・オブライエンはコーク郡を出航し、ハイ・ブラシルに到達した。すくなくともオブライエンは到達したと信じていたのだが、その根拠はさだかではない。彼は強く確信を持っていたので、コーク侯にたいし、その年のクリスマスまでに島の存在の証拠を見せることを賭けたほどである。不幸なことに、オブライエンに関するこれ以上の記述は残っていない。

 オブライエンの話は特別珍しいわけではない。何世紀にもわたって、ハイ・ブラシルが発見されたという噂は数えきれないくらい流れた。しかし17世紀の終わり、島がついに発見されたと多くの人が信じるにいたった。1675年3月14日付の従兄弟宛ての手紙で、ウィリアム・ハミルトンはこの島がそうやって発見されたか、船長ジョン・ニスベットと乗組員によってどうやって魔法が解かれたか、詳しく述べたのである。

 フランスから戻ってくるとき、アイルランドのすぐ沖合で彼らの船は深い霧に覆われた。およそ3時間後に霧が晴れると、彼らの船はコースからはずれ、未知の島の岸に近づいていることがわかった。ニスベットは4人の船員を岸に上陸させ、ここがどこであるか確かめようとした。

 男たちは内陸に入っていき、しばらく道を歩いていくと城があった。しかし城には人の気配がなく、大声で人を呼んでみたものの返答はなかった。それから高台に上ると、そこには牛、羊、馬、無数の黒ウサギはいたが、人の姿はなかった。

 彼らは岸にもどり、ほかの仲間といっしょに海岸線の調査をしたが、依然として人の痕跡を見つけることはできなかった。

 その後乗組員たちは浜辺にキャンプを設営したが、火を囲っていると、どこかから「ぞっとするような音」が聞こえてきた。それは島自体から発せられているようだった。彼らは恐くなり、船にあわてて戻った。

 翌朝起きて浜辺を見ると、11人の男が立っていた。「古代の偉大なる紳士」に見える彼らのリーダーは「うやうやしく、丁重に」ニスベットと乗組員を岸に招き、彼らがいまどこにいるのか、彼らに相応の報酬が支払われること、そして故郷へどうやって戻るか道を示すことになるなどと話した。

 ニスベットと船員たちは英雄のように扱われた。というのもこの男たちは城に閉じ込められていた囚人で、船員たちが浜辺で火を起こしたときに呪いが解け、男たちとその家族が解放されたのだという。彼らはこの島がハイ・ブラジルであることを認識した。

 約束したとおり、ニスベットと船員たちは銀貨や金貨をもらい、帰り道を示された。彼らが故郷の港にもどると、印象的なおみやげをたくさん持って帰ったにもかかわらず、だれも話を信じてくれなかった。

 そこで数日後、ニスベットの船の船長だったアレクサンダー・ジョンソンは信じようとしない人々を連れて物語が真実であることを証明するために、ふたたび出航した。彼らはすぐに島を発見し、ニスベットの船員たちが受けたのとおなじような歓迎を受けたのである。

 ハミルトンの手紙はパンフレットとして出版され、当時の民衆に多大なるセンセーションを巻き起こした。伝説的なユートピアがついに実証されたと多くの人は純粋に感じた。だれもが富を求めて島に一番乗りをしようと考えた。それは魅惑的な話ではあったが、結局はほら話なのではないかということに落ち着いていく。

 

沈没した島ハイ・ブラシル 

 1752年、あらたにハイ・ブラシルを発見したという記事が現れた。無記名の記事「オブラジールへの旅」によると、作者の父親は沈没したハイ・ブラシル島に連れて行かれた。そこで彼が会ったこの島の知事は島の歴史について語ったという。

もともと島の住人は海の上の陸地、すなわちドネガルの海岸の沖合に住んでいた。ここには使徒マタイがゲストとして招かれたこともあった。マタイとともにやってきたのがヨセフ・ユストゥスだった。ヨセフはこの島に滞在し、島の住人がキリスト教信者となるよう布教活動に精を出した。

 ユストゥスは使命を果たし、多くの信者を獲得した。しかし知事によれば島民の仕事はアイルランド本土に依存しており、本土からもたらされる悪習を防ぐすべがなかった。結果的にハイ・ブラシル島にモラル・クライシスを起こしてしまったのである。

 解決策を討議するために各家の家長が集まった。それは興味深い集会であったにちがいない。彼らが導き出した解決策は、「万能の神」に祈って島を沈めてもらうということだった。彼らの美徳が本土のアイルランド人の腐敗によってけがされるより、島もろとも海中に沈む道を選んだのである。

 彼らの祈りに呼応して、ひとりの見知らぬ者があらわれ、どうやって島を沈めたらいいかを教えた。しかしこうして悪習からのがれようとしているにもかかわらず、1752年、彼らはいまだに本土の仕事と物資に頼っていた。

 『オブラジールへの旅』はマヌス・オドネルの著作とされる。しかしオドネル自身は、これは古文書の翻訳にすぎないという。そのオリジナルが何であれ、オドネルの物語は「ヘッドの手紙」ほどのインパクトを残すことはできなかった。

 奇妙なことに、マヌス・オドネルもリチャード・ヘッドも、ハイ・ブラシルの位置は、アイルランドの北方で、ドネガルの近くと考えていた。しかしすでに述べたように、何百年にもわたって海図上には、ハイ・ブラシルはアイルランドの西方か南西と記されてきたのである。ヘッドとオドネルがなぜアイルランドの北にあると考えたのかはさだかではない。

 

幽霊船 

 19世紀後半になってもハイ・ブラシルの目撃談は減少することはなかった。これらは圧倒的にアイルランドの西方や北方の沖合にあるとするものだった。よく知られたものでは、1878年7月、コークの沖合で存在が確認されたあと、ハイ・ブラシル到達をめざし、バリコットンの人々によって100隻のボートが出されたことがあった。しかし船団が近づくと、島の姿は次第に消えて行ったのである。アイルランド北東部のバリキャッスルでも似た事例があったという。

 この時期、影響力をもつ数多くの作家や学者が直接島の姿を見て、この現象は幻影であると宣言した。彼らは自然現象の幻影について懐疑的ではあったが、それが呪いをかけられた伝説上の島でないことは確信した。そしてそれが実在する証拠らしい証拠はないと考えた。ハイ・ブラシルはふたたび神話学上の領域に沈むことになったのである。

 正確なメカニズムや諸条件が描写されるにしたがい、光学的な幻像理論がハイ・ブラシルの出現に関しもっともポピュラーな説明となった。幻の島とおなじ地域に現れる幽霊船や幽霊軍隊などもこうした説明が適用されうる。たとえば、ガルウェイ湾にたびたびナイ・ブラシルが現れるが、1864年(*おそらく1684年の間違い)にはこの湾に都市が出現したのである。歴史家ロデリック・オフラハティによると、その都市には「光彩や煙、あちこち走り回る人々の姿」が見られたという。オフラハティはまた当時、その都市の幻影は頻繁に現れていたと記している。その湾には1161年には幽霊船が出現したという記録もある。

 幽霊船はまたラトリン島とアイルランド本島北岸の間に伸びるモイル海でも目撃されることがあった。19世紀はじめ、フランスの艦隊がこの島に近づくのをラトリン島の女が見ている。彼女は走って近隣の人々に警告して回ったが、もとの地点に戻るころには艦隊は消えていた。

ラトリンの漁師たちも幽霊船を見かけることがあった。霧の中から突然大きな船が現れ、あやうく彼らの小さな漁船に当りそうになった。彼らは懸命にコースからはずれようとするが、突然その大型船は姿を消したという。

幽霊軍隊もまたラトリンの海岸でよく目撃されている。彼らは軍事演習をおこなっているように見えた。目撃者が近づくと、それらは突然消えてしまった。

 民俗学者トマス・ウェストロップは島の幻影と古代の迷信がないまぜになってハイ・ブラシル伝説が生まれたのではないかと考えている。この仮説が検証されないまま、20世紀になると、ハイ・ブラシル島実在の可能性はほぼ死滅してしまった。

 

レンドルシャム事件との関連 

 1980年12月27日未明、未確認物体がRAFウッドブリッジ近くのレンドルシャムの森に着陸した。基地に配置されていた米空軍の兵士らがさっそく調査に派遣された。基地の副司令官、チャールズ・ホールト大佐の公式報告によると、兵士らは森の中で白い光を発する三角形の飛行物体と遭遇している。ホールトの報告によると、兵士らが近づくと物体は動いて去ったという。

 しかしながらジム・ペニストン中尉は飛行物体の表面に触れたと主張している。触れたとき、彼はヴィジョンを見たという。ペニストンによると、ヴィジョンは連続する1と0から成っていた。彼はそれを書き留めたが、それ以上のことはしなかった。

 30年後、ヴィジョンが何らかのメッセージではないかという思いに捉われたペニストンは、コンピューター・プログラマーのニック・シスクとコンタクトをとった。シスクはヴィジョンからメッセージを読み解き、そのなかに座標が含まれていることに気づいた。その座標(52°0942532”Nと13°131269”W)は大西洋のある地点を示していた。それはアイルランドの西南隅の沖合だった。

つまりアイルランドの捉えられそうで捕えられない伝説のユートピアのロケーションなのである。ハイ・ブラシル伝説と現代のUFOミステリーがここに絡まり合っているのだ。ハイ・ブラシル探求の旅がふたたびはじまろうとしている。