ラカイン礼賛         宮本神酒男

2 カラダン川を遡って蜜人の国へ

 旅を愛する者にとって、列車やバスの車窓、飛行機の窓から見た風景は特別であり、たまたますばらしいものに出会うと、いつまでも心の中に残っているものだ。とくに飛行機の窓から見た風景は、座席の位置や時間帯などの条件がそろう必要があるので、いっそう深く記憶に刻まれる。私にとっては、アフリカの大地溝帯や間近に迫るキリマンジャロの山容、アラビア半島の海岸、紅海、カラコルムの氷河などが忘れがたい偉大な風景である。前章で述べたように、このコレクションにあらたにラカイン州のベンガル湾の海岸線が加わった。列車やバスの車窓についてはきりがないので、省略させていただく。

 それらに比べ、船から見た風景にはこれといったものに出会ったことがなかった。そもそも船に乗る機会というのはそんなに多いものではない。あえて挙げるなら、アフリカ東海岸のザンジバル島(タンザニア)で乗ったケニアのモンバサ行きの動力付きダウ船から見た風景だろうか。これも印象深かったのは乗船体験そのものであり、風景は特筆すべきものではなかった。

 今回のシットウェ(旧名アキャブ)からムラウー(ミャウー)までのカラダン川を遡る5時間弱の客船から見た風景は、ほかの車窓や飛行機の窓から見た風景にひけをとらないものだった。ムラウーには空港がなく、外国人は陸路での移動が禁止されているため、唯一の交通手段は客船だった。しかし思いがけず、人生最高のクルーズとなったのである。

強い陽射しのもと、椰子や棕櫚の林、マングローブ、水牛の群れ、帆を張った小船、網をひく漁師たち、そういったつぎつぎと現れるパノラマに私は酔いしれた。カラダン川ははじめ海といってもさしつかえないほど茫洋として広かった。川は支流に入るとしだいに狭まり(とはいっても日本のどの川よりも広いのだが)、ムラウーの船着場に着く頃には、川面は巨大な静謐な茶色い池のようだった。

 私は長い間ずっとこのような風景を探し求めてきたような気がしてならなかった。帰国後、このもどかしい気持ちがどこから来たのか、ようやくわかった。それは澁澤龍彦の『高丘親王航海記』の描く世界だった。

 主人公の高丘親王が乗った船は、ベトナムらしき地で、マングローブの根のわだかまった入江に乗り上げる。そして密林のあいだの羊歯類や木の根を踏み分けて暗い樹間を通り抜ける。マライ半島のおそろしく暑い日には、野生のゴムの樹や椰子やバナナのたけだけしく生い茂った、昼なお暗い密林のあいだの下道を歩く。こうしたセッティングのなかで、大蟻食いや金翅鳥、迦陵頻伽(かりょうびんが)、獏(ばく)など奇異なる生き物が登場する。

 高丘親王は驚くべきことに、このあとアラカン国、すなわちラカインへ行く。

 親王らを乗せた船乗りのハサンは、

「じつはな、わしらがアラカン国に船を寄せているのは、蜜人を採りにきたためなのじゃ」という。

 蜜人など聞いたことがないと親王がいうと、ハサンは答えた。

「聞いたことがないのも道理。世間なみの商売では、そんな品物は扱っていないからな。蜜人とは、簡単にいえば人間の屍体の乾し固められたものさ。むかしのバラモンの中には、捨身して衆生を済度せんと発願するものがあってな、彼らは山中の石窟で飲食を絶って、ただ蜜のみを食って生きていた。そうして一月ばかりたつと、彼らの大便も小便もことごとく蜜になる。やがて死ぬが、死んでも五体は腐らずに、かえって馥郁たる香をはなつ。こんなのが蜜人さ」

 もう何十年も私は『高丘親王航海記』をもっとも好きな本にあげてきた。いっぽう十年以上もミャンマーのゾージー信仰に興味をもってきた。いま、はじめて『高丘親王航海記』のなかにゾージーが蜜人として描かれていることに気がついたのだった。澁澤は蜜人を創作したのではなく、蜜人ということばを編み出したのだ。

 蜜人を描く段になると、澁澤の真骨頂が発揮される。アラビア人にはそれが美女に見えるが、親王には「形容するに苦しむほど」醜いものに映った。それは「あたまだけが人間で身は獣類のもの、あたまがなくて身ばかりのもの、身が半分だけしかないもの……」などであった。

 親王らはアラカン国の海岸を丸木舟に乗って進む。もし澁澤が存命中にミャンマーに入ることができていたなら、カラダン川を遡上していたかもしれない。おそらく地図や資料を見ていた澁澤は丸木舟を空に飛ばし、イラワジ川をさかのぼって雲南へと入っていく。空想よりも空想的な風景を見たなら、かえって書き辛かったかもしれないと考えると、本物のアラカン国に行かなかったのはよかったといえよう。

 

 十日後、私はおなじ客船に乗ってカラダン川を下った。下りの船旅はムラウーで知り合った熟年の英国人女性ふたりと、全幅の信頼を置くホテル・オーナーでガイドのウ・トゥン・シュエ氏といっしょだった。乗船間際になってわれわれ外国人三人は係官に呼び止められた。入域料5ドルを払えという。船が着いたときならともかく、この地を離れようという段になって要求するとは何事だろうか。しかし日本人の悪いところといおうか、すぐに「ま、5ドルだしいいか」と妥協して私は払ってしまった。英国人のふたりの婦人のうち年上のほうは違った。徹底抗戦しようとしたのだ。5ドルを払う理由がないから拒否する、というのだ。もうひとりの若いほうの婦人は説明した。

「軍事独裁政権には一文たりとも払いたくないのよ」。

 政権にたいして私はいいたいことが山ほどあるが、ミャンマー人ひとりひとりを前にすると何もいえなくなってしまう。たとえばこの若い係官は人がよさそうで、入域料徴収は仕事なのでやむなくやっているという風だったので、英国人のように拒否するという気にはならなかった。彼女の意思の強さは見習わなければと思った。(最終的には払ったようだけど)

 ガイドが同乗するというのはいいものだ。ウ・トゥン・シュエ氏の指摘によって、丘陵のところどころに見えるあらわになった山肌が鉄道の建設を示していることがわかった。行きの船ではまったく気がつかなかったことだ。ムラウーやウェーサリーなど遺跡の多い場所で、大胆に鉄道建設が進められているのを私は目の当たりにしていた。ベンガル湾までの輸送路を確保したい中国の支援によって、雲南省に接するシャン州の町ムセ(私は一度訪ねたことがある)からラカイン州のインベチュン島の港湾都市チャウピューまでの鉄路が整えられようとしているのだ。ミャンマー(ラカイン州)とバングラデシュ国境の海域(バングラデシュ領セント・マーティン島の南50キロ)に巨大なガス田が発見され、その貴重な資源を中国は狙っているのかもしれない。当然のことながら国境上のガス田は両国の深刻な紛争の火種となっている。

 行きの船からはきれいな風景しか見えなかったのに、帰りの船から別の風景が見えるというのは不思議なことだ。景色に見とれるあまり、真の姿が見えなくなっていたのだ。いや、まだまだ何も見えていないというべきだろう。たとえば小船に乗って漁をしている人々は、どんな魚をどんな方法によって獲っているのだろうか。私はレムロ川で二日小船をチャーターしたので、小船に乗ったときの感覚は多少なりとも習得したように思う。しかしその小船の船底が平底であったかどうかさえ(最近能登に漂着した北朝鮮からの脱北船は平底だった)認識していないのである。また彼ら漁民はどんな生活をしているのだろうか。以前読んだミャンマーの短編小説によれば、彼らは場所代を払って川の定められた地域でのみ漁をすることが許されているという。小林多喜二なら漁民の小船に乗ってその生活の苦しさを体験取材したかもしれない。


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