伝説

マパ ドンカム部落 村名縁起譚

 むかしあるところに、プルワ(phur ba)という青年が年老いた母といっしょに暮らしていた。

近所に一匹の野良犬が住み着き、いつも残飯をかすめとる機会をうかがっていた。ある日、老母は山へ柴刈りに行った。いっぽうプルワは犬をこらしめてやろうと思い、棒をもってまちかまえていたが、日中はあらわれなかった。日が暮れて老母は柴を背負って戻ってきて、戸をあけた。

そのときプルワは野良犬だと思って老母の頭を思い切り叩いて、殺してしまったのである。 プルワはひどく後悔し、罪をあがなうために岩穴にはいって一心に瞑想した。三年後、かれは罪が軽減されたように感じ、超能力で空を飛ぶことができるようになった。空を飛んだあと、一本の木の上に降り立った。すると木はたちまち枯れた。ゆえにその地をドンカム(sdong skam 枯れ木) という。

 それからかれは岩穴に戻り、また三年間瞑想した。罪がいっそう軽減されたように感じ、海(湖)まで飛ぶことができた。すると海も滴れてしまった。かれはまた岩穴に戻り、さらに瞑想した。プルワはついに仏になった。

* 「安多政教史」に原型と思われる伝説が収録されている。

 マソ・シル・ウルワ(Ma gsod zhi lu ur ba 母を殺したため泣き騒ぐ男の子、の意)は、母殺しの罪業をあがなうためたくさんの経典を書写し、念誦するうち、飛ぶ能力を得た。空から潮に落下したところ、かれの業障が甚大だったので、湖は枯渇した。ゆえにこの地をツォカム(mtsh skam)という。かれはまた空を飛んだが、木の梢の上に落下した。するとこの木は枯れた。ゆえにこの地をドンカムという。

かれはこのさまを見て後悔し、さらに罪障をほろぼし、善を積み重ねる努力をした。そしてついに仏像や種字を見ることができるようになった。

*マパのドンカム部落とチョンオ部落の戦いについての伝承があり、それはルロル祭のなかにも生きている。(ルロル祭の章参照)

ボン教との戦い

 むかし仏教を信仰するドンカム部落は、ボン教徒のチョンオ部落と戦った。ボン教徒たちはブラックマジックを使ってドンカム部落に呪いをかけようとした。形勢不利とおもわれたとき、突然ハワが神懸かった。「あす、わたしを見てください。わたしが敵を征圧しましょう」。

翌日、はたして黒馬に乗った黒衣のひとがあらわれたので、それを先頭にドンカムの男たちはチョンオ部落に攻め入り、勝利をおさめた。いまもルロル祭のとき、チョンオ部落との境界でゾッホグ儀式を行なうのはそのときの記憶を保つためである。いっぽうチョンオ部落は儀式のあいだ、鎌を家の中に隠して戦いの準備をするという。黒馬に乗った黒衣のひとがボン教を倒すというモチーフは、ラルン・ベルギ・ドルジェの伝説が影響を及ぼしていると考えられる。(P6参照)


画匠伝説

 シャルツァン一世のとき、四つの村(四屯)は仏教を信仰するようになった。そのころはとても貧しかったので、シャルツァンはサンゲション村に絵筆を与えた。ニェントフ村にはハサミを与えた。ゴマル村には木刻を与えた。ガセル村には彫刻刀を与えた。それでサンゲション村ではタンカ(仏教巻軸画)が、ニェントフ村ではパッチワーク・タンカ(rtseg grub)が、ゴマルでは木刻印版が、ガセルでは印版・彫刻がさかんになった。

*他にもいくつかの画匠伝説がある。(『黄南民間故事』より)                                             シャルツァン一世のとき、ひとりの経師がいた。経師はシャルツァンに経典について講義するかたわら、念仏を忘れなかった。経師は天神に学識豊かな活仏を授けてくださるよう願った。感動した天神は夢の中にあらわれて、告げた。「シャルツァンこそ、まさにその活仏である。レコンにいま必要なのは、画匠であろう」と。そして智慧を司る文殊菩薩を派遣し、絵画や彫刻に必要な絵筆や彫刻刀をもたらしたのである。こうしてレコンは「画家の郷」とよばれるほど、美術がさかんになった。

シャルツァン一世はある晩、文殊菩薩から絵筆を授かる夢を見た。シャルツァンは絵筆をもってサンゲション下寺へ行き、ここに画を描ける者はいるかとたずねた。ひとりの僧が馬や花をうまく描くことができたので、シャルツァンは絵筆を渡し、チベット(中央部)へ学びに行かせた。戻ってきたあと、僧の画はいっそううまくなっていて、花や蝶、ミツバチ、鳥はまるで生きているかのようだった。

伝え聞くところによると、釈迦牟尼が大覚成就するころ、洛衛(カピラヴァッツ)のボーホールマ国王は絵画に長けていた。王は釈迦の教えに心酔し、世にひろく仏教と釈迦の形象を広めたかったが、光り輝くさまを伝えるのは困難だった。その後、釈迦が蓮華宝座に座って弟子に説教している様子が池に美しく映っていることに気がついた。さっそくそれを模写すると、一幅の見事な釈迦牟尼像が出来上がっていたのである。蓮華宝座の釈迦牟尼像はそれ以来、インドからチベット、さらにモンゴルや中国へと伝わったのである。

 チベットの仏画はまずチュマ部落ガリ村に伝わった。最初に描き始めたニマとノンクはガリ神匠ニマとよばれるようになった。ニマはタンゲイマ寺の初代活仏である。画匠たちはニェントフ寺の仏画や装飾画を描き、弥勒仏の仏像を彫った。

*史書にはつぎのように記されている。(『安多政教史』より)

ニェントフ寺もシャルツァンが受け持つようになった頃、寺にはガル・ル派(sgar ru) の絵師がたくさんいた。そのなかのウィータン・ファルダン(Bis thang dpal ldan)とその徒弟ツェラン・ドンチュプ(Tshe ring don grub)が弥勒仏を造り、また壁画に十六羅漢像を措いた。弥勘仏の中身を詰めるとき、祝して多くの絵筆を献上した。それ以来仏教美術はさかえ、伝統が受け継がれ、数多くの画匠を生み出してきたのである。

 つぎに、『黄南民間故事』より、ルロル祭の起渡に関する伝説をあげる。

神舞伝説

 鉄囲山の上に巨大な菩提樹があった。その根は天間の阿修羅の池に伸び、梢は玉皇大帝の住まう三十三天の上にまで達した。菩提樹には長寿果が生った。毎回花が咲き、長寿果を結実するたび、天間阿修羅と三十三天の神将神兵は争った。最初の戦いで神将神兵軍が敗れたため、玉皇大帝は金剛手菩薩に援助を要請した。しかし金剛手菩薩は十三位戦神を推薦した。戦神たちはたちどころに阿修羅を破ったので、西王母娘々をかしらとする二十一位地母仙女を招いて盛大な祝勝会を開催した。のち、十三位戦神のひとり伏敵神が人間界に転生して勇猛神将軍となった。そしてティソン・デツェンの御世、蓮華大師によってレコンに送り込まれ、ジャモ村の山の護法神となった。

このときに神舞を伝えたのである。

竜舞伝説

 むかしランジャ地方にアニ・アラク(a mes a lags)とよばれる人がいた。村の南を流れる川の水を村の北側の砂地に引こうと、灌漑工事に尽力したが、完成にはいたらなかった。のち、谷間で泉を発見したが、堆積する砂が厚く、水は遠くまで流れなかった。これはル(竜)によって起こされた怪だとみなされた。そこでアニ・アラクは童男童女をあつめて、毎年六月に竜舞を踊り、歌って、泉の竜を喜ばせた。竜泉の近くに楊樹があり、それは竜樹とよばれた。こどもたちはその楊樹にのぼり、枝を折ってきて水と遊んだ。それは竜を退治するということを表していて、水を守り、五穀豊穣を祝う伝統的な習俗となった。

六月会(ルロル祭)起源

 ティツ・デツェン王のころ、吐蕃と唐は甘家で対峙していた。レコンは吐蕃軍の後方に位置していた。吐蕃軍の将軍のひとりイェツァはソグル村ツォワ部落の娘と結婚し、四人のこどもが生まれた。長男は現在の循化県のドウィに、次男と母はソグル村に、三男は循化県ダルジャに、四男はレコンのジャウに住んだ。次男の後裔がいまのツォワ部落を形成した。二十数戸の小さな部落である。

 のち高僧の調停によって休戦が成立し、吐蕃の兵士たちはダルジャ山の山神に感謝の意をこめて歌舞を奉納した。ダルジャ湖でかれらは山神に神舞を、湖の竜に竜舞を、軍隊に軍舞を献じたのである。そのとき湖から二匹の竜があらわれた。一匹は虎面、もう一匹は豹面だった。いまも六月会のとき男たちが花紋のゲートルを足にまとうのは、竜を象徴しているのだという。

神鼓舞伝説

 むかし、羌族の首嶺が家来を西天にやって、経典を取りに行かせた。しかし帰りに天の河を渡るとき、家来は経典を水に濡らしてしまったのである。かれは経典を岩の上に置いて干そうとした。だがあまりに疲れていたので、そのまま眠りこけてしまった。

目が覚めたときには、経典は見当たらなかった。どこを探しても見つからず、かれは必死に菩薩の助けをもとめて大声で叫んだ。すると感動した菩薩があらわれ、言った。「ヒツジを屠ってその皮で太鼓を作りなさい。その太鼓を叩けば経典があらわれるであろう」

 言われたとおり、家来はヒツジを見つけて屠り、羊皮鼓を作った。そして太鼓を叩きながら、神に祈って経典がもどってくることを願った。すると突然、岩の上に経典があらわれたのだった。かれは喜んで首額のもとに帰った。

 ひとびとはそれ以来、菩薩の徳に感謝して、羊皮鼓を作り、祭りのときには羊皮鼓を叩きながら菩薩と諸神に歌舞を奉げるようになった。そしてこの羊皮鼓を神鼓とよぶようになった。


 チベット各地でもっともよく聞く伝説は山にまつわるものだ。山の神々に色恋沙汰が絶えるっことはない。

シャチョンとダフロン

 ソグル村の後背にダフロン山というレコン第二の高山がそびえている。よく見ると、ダフロン山はとなりにすっきりと立つジョモ山の肩に手をまわしているようだ。このデフロン山の中腹に上ると、西の方角にレコン第一の山シャチョン山が見える。

 ダフロンとジョモは夫婦である。シャチョンはジョモに横恋慕して、ダフロンが出かけたすきを狙って私通するようになった。そしてダフロンが家にいるときも、ジョモはシャチョンに秋波を送ったり、茶碗の下で手を触ったりするまでになった。ついには関係がばれて、ダフロンとシャチョンは激しく闘った。シャチョンは弓でダフロンの下腹を射た。いまも山腹に草の生えない土砂だらけの場所があるが、そのときの傷である。

ダフロンがガツンとパンチを食らわせると、シャチョンは西の方角に押しのけられた。いまも、反対方向の貴徳のほうをむいているが、心はジョモのほうをむいているのである。

1 チベット人の遊牧民の生活形態についてはロバート・B・エクヴァルの報告に詳しい。Robert B. Ekval "Fields on the Hoof" (1968)

2 この論文は1998年の調査を基本資料とする。