レチュンパ伝
タング・リンポチェ 宮本神酒男編訳
前言
チベットの偉大なる聖者ミラレパには二人の代表的な弟子がいた。ガムポパとレチュンパである。ガムポパは寺院をいくつも建て、カギュ派という教派を創立した僧侶だった。レチュンパ(1084−1161)はインドへ三度危険な旅をし、師ミラレパが持っていなかった多くの教えをもちかえったヨーギだった。ミラレパの際立った弟子だったレチュンパは他の弟子たちが受け取らなかった師の口承の教えを授かった。
レチュンパの伝記は、瞑想する者が師のアドバイスにしたがいながらも困難に遭ったとき、何が起こるかを示すという意味でユニークである。信仰に身を捧げるとき、レチュンパには2つの障害があった。それは師の智慧に疑いを持ったことと、過度に高慢であったことだった。
チベットの荒れ果てた平地を進んでいるとき、ミラレパはレチュンパにヤクの角(つの)を持ってくるように命じた。レチュンパは誤解して、師ミラレパが何か古い遺物に執着しているのではないかと考えた。実際のところミラレパはこの角を使って、近づきつつある嵐が来たとき角の空洞(ほら)の中に自分自身を置き、明白な、究極のリアリティについて教えを説こうとしていた。
自分自身を角の空洞の中に置くというと、誇張した物語のようにわれわれは考えるかもしれない。なにしろ八百年も前の話である。しかしチベット仏教になじみのある人々からすれば、「虹の身体」現象のような「奇跡」は、どうしたら可能なのかという科学的な説明ができないにしても、現在も起こりうるのである。
たとえば、まったく知られていないアスという名のラマがいる。彼はこの25年間チベットで生活してきた。彼は尼僧らに、自ら箱の中に入るので、よく見張り、七日後に開けてほしいと頼んだ。七日後に彼女らが箱を開けると、アスの身体は消失していた。そこには彼の衣服と毛髪、爪だけが残っていた。
グルの霊的なアドバイスにしたがわなかっただけでなく、レチュンパは信仰心に対する二つ目の障害を持っていた。すなわち、いきすぎた高慢。高慢によって、人はきわめて高いレベルの悟りを開くことができると信じるに至った。あるいは人はグルと同等の力を持っている、あるいはもっとすぐれていると信じるに至った。
西欧ではヒンドゥー教や仏教の歴史は百年にも満たない。自分たち自身、あるいは自分たちのグルが完全に覚醒した人物であると主張する人々を見つけるのはそうむつかしくない。こうしたことは、「完全に覚醒した」という意味の理解が十分でないことから起こるのだ。覚醒がどういうものであるか詳しく説明しているテキストは非常にたくさんあるので、だれかが覚醒したかどうか判別することも可能だろう。
タング・リンポチェやその他のチベットのラマたちは弟子たち(生徒たち)に、たとえばウッタラタントラを学ぶようすすめる。それは覚醒がどのようなものか、どういう徴(しるし)が現れるかについて詳しく述べている。
タング・リンポチェはまた、仏教の道の階梯や特長についてマイトレーヤ・ブッダ(弥勒仏)からの多大な情報を含む『明澄な理解の宝飾』や『極端と中道の識別』などの注釈書を著わした。
レチュンパがどのようにミラレパの命令に反発したかを理解するのはむつかしい。ミラレパがチベットのもっとも偉大な聖者であることをわれわれは知っているが、レチュンパの時代、ミラレパは人を避け、瞑想するのが好きな貧しい老人にすぎなかった。ミラレパの伝記がチベット仏教においてもっとも有名な物語になるとは、またミラレパの教えが800年後に教派の基礎となり、世界中にダルマセンターの支部ができるとは、レチュンパには想像すらできなかっただろう。
インドでは久しく失われていたテキストと実践法を取り戻す努力をしたレチュンパによって、われわれはカルマパの中心である赤いチェンレシグの修行法や、守護神ヴァジュラパニの教え、ティローパの形のないダーキニーの教え、長寿と健康を願うアミターユスの修行法などを行なっている。またヘーヴァジュラ、ヴァジュラヨーギニー、チャクラサムヴァラ修行法がカギュ派の三大修行法となっている。
スティーブン・バチェラーが言うには、西欧でチベットの書として二番目に人気があると思われる『ミラレパの生涯』は、ミラレパがレチュンパに口述したものである。そしてそれをレチュンパのために筆録したのがレチュンパの弟子ツァンニョンだった。レチュンパがこれらの修行法を伝えなければ、カギュ派の教えが完全なものではありえなかった。
レチュンパの名がさほど輝いていないのは、そして彼自身の教派が確立されていないのは、彼の教えが数多くのさまざまな法統に吸収されたからであった。ドゥスム・キェンパはたくさんのレチュンパの教えをカルマ・カギュ派の教義に取り入れた。初代ドゥクチェン・リンポチェはレチュンパの教えをドゥクパ・カギュの法統に取り入れた。初代のゾクチェン・ポンロプ・リンポチェや初代スルモン・トゥルクもそれぞれの法統の教義に組み込んだ。
レチュンパはまた数多くの女性弟子をかかえていた。そのひとりテンズィン・パルモはトクデンマ派を創立した。彼女のことは『雪の中の洞窟』のなかに書かれ、有名になった。
タング・リンポチェは1989年2月、ネパールのナモ・ブッダ・ウィンター・セミナーではじめて、ピーター・ロバーツの翻訳を用いてレチュンパに関する講義を行った。ピーター・ロバーツはレチュンパのさまざまな伝記を考証しながら膨大なテキストを書いていた。タング・リンポチェはのちにコロラド州ボルダーのカルマ・ゾンでジョン・ロックウェルの翻訳を用いながら短い講義を行った。われわれはこの二つの講義をまとめてレチュンパの生涯と修行を含む伝記を完成させた。
講義はタング・リンポチェの口頭によって行われたものである。翻訳者はリンポチェが好んだ霊的な歌(ドーハ)の翻訳を各所に挿入した。我々にはそれ以上完璧な翻訳をすることはできない。われわれは長めのドーハを翻訳して韻文にしたが、一部は散文にそのまま入れた。
クラーク・ジョンソン