ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕 

アジーム・イブラヒム 

 

1 1948年までのビルマの歴史 

 ロヒンギャに対するミャンマー体制派の姿勢、およびロヒンギャに対する敵対的な行為は、ロヒンギャが国内に合法的に住める場所はない、という作り話に起因する。通常この話題はあけっぴろげに、人種差別的な言葉で(しばしば反ムスリム的な偏見で)単純に語られる。しかし学識を用いてこの偏見を正当化しようとする試みさえあるのだ。この章で見ていくように、この学識というのがひどく誤謬だらけなのだが、それだけでなくはなはだしく見当違いなのだ。

 体制派の物語は都合の悪い真実を無視しようとする。歴史的にビルマが支配してきた領土は現在のミャンマーの領土とは一致しない。現在のラカイン州はわずかの間、初期のビルマの一部であったことがあるにすぎない。それゆえ民族的に混ざっていて、国内の他の地域とかなり異なっているとしても驚くことではない。とくに現代の国家で民族グループの分布と政治的な境界線が完全に一致する場合はほとんどない。

 ビルマの地域の歴史には相次いで民族の交替、征服、拡大、崩壊があった。こういったことは世界のどの地域にも見られるものである。この千五百年間、現在の領土の周縁に向かって拡大するか、それから収縮するか、繰り返してきたが、ともかくビルマの中核となる国、あるいは中心地はイラワジ渓谷にあった。1990年代半ばにおいても、ミャンマーの人口の三分の一が多数民族のバルマン族でない民族グループから成っているとしても驚きではない。北の中国、西のインド、東のタイ、ラオス、南のインドネシア、マレーシアと交流を持ってきた歴史がこれに反映しているだろう。とくに中央のイラワジ地区の北と東の山岳地帯は、長い間さまざまな非ビルマ系民族の故郷となっている。これらの民族集団の一部は現在のミャンマーの域内に住んでいるが、多くは国境にまたがって両側に住んでいる。19世紀までに、ある程度民族的に、宗教的に、寛容に受け入れながら、ビルマの地域は仏教が支配的になっていった。周辺では人々がアニミズム信仰を持ちながら、キリスト教徒やイスラム教徒になっていった。

 イントロダクションで論じたように、1800年代まではアラカンの歴史とビルマの歴史は分けて考えるべきである。ビルマ中央のイラワジ(エーヤワディー)渓谷に沿ったビルマ文明中核部は地理的にも、文化的にもチベット地区、中国西南部、東アジアの残りとつながっている。南部は(現在のモン州とタニンダーリ州)マレー半島の一部であり、スリランカやインドネシアの一部を含む南部と海のルートでつながっている。実際、早くから仏教がビルマに伝わったのはもともとこういったベクトルがあったからである。

 しかし西のアラカン地方はつねに高くて険しい海岸の山脈によってビルマの他地域から隔絶されていた。このようにして歴史の初期段階で、政治的経済的な相互作用があり、民族が形成される頃、ビルマの他の地域よりも、ベンガル湾からインドとのつながりのほうが強いのは当然のことだった。ここは貧しい地域であり、農業や漁業で最低限の暮らしを営むのがやっとで、征服者になろうとする者はいなかった。実際に現代ビルマ史の初めの頃を見ると、豊かな貿易ルートをめぐるシャム(現在のタイ)との戦争ばかりが起きていて、だれもアラカンに興味を抱かなかった。

 この孤立した状態は西暦1000年頃からはじめて変わってきた。このとき中央ビルマからラカイン民族集団がアラカンにやってきたのである。現在の週の名はこのグループに由来している。このときから1700年代終盤まで中央ビルマの支配者に依存した時代、独立した時代、隣接するバングラデシュまでも支配した時代へと移り変わる。1784年、アラカンは正式にビルマ王国に併合される。しかしこの征服によってビルマ王国はやはり同地域に興味を示していた英国との間に軋轢を生じさせることになった。第一次英国・ビルマ戦争(18241826)の終わりには、アラカンは英国に収用されてしまったのである。こうしてふたたびビルマ支配から逃れることになった。しかしながら英国が1880年代にビルマの残りの地域を征服すると、アラカン州は植民地ビルマの一部となった。そしてそのまま1948年の独立の際にはビルマの一部となっていた。同時に行政上の名称もアラカンからラカインに変わった。

 

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