ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕  

2 独立から民主政権誕生まで(19482010) 


国内のできごと 

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 英国の植民地支配は1948年1月4日に終わった。そしてスタートを切った新しいビルマは、植民地となった1824年までに拡張した国境線を基礎としていた。それはビルマが行政的にインドから分かれた1930年代半ば、英植民地当局によって規定されたものだった。独立時、ビルマは農業が発達し、鉱物資源に恵まれ、国民の教育レベルが高い、豊かな国と考えられていた。とくに英国人はイラワジ(エーヤワディー)川下流域の稲作地帯を(インド人労働者を入れることによって)拡張していた。そしてこのことからビルマは世界でも指折りの米の生産国となっていた。それによって地元の人々に食べていく手段を与え、他の食料事情の悪い国々に輸出することができた。

 一方で新しいビルマは、民族集団や宗教信仰グループの複雑な混合状態を引き継いでいた。ビルマ族でないエスニック・グループが主体の諸地域もまた、新しい国に含まれていた。北方のシャン州、カチン州、ザガイン地区、西方のチン州などは非ビルマ族のエスニック・グループが居住している。彼らは独立後、たとえばイラワジ・デルタと東のカレン州両方に分布するカレン族のように、厳しい抑圧を受けてきた。アラカンを含む州は、独立後、ラカインと改名された。

 その創成期においてビルマは、新しい支配層内の重要な国内の論争に直面した。一部の人は新しい国家を、他のエスニック・グループや宗教グループを排除した、ビルマ人仏教徒の国家をつくる手立てと考えた。彼らにとってこれは英国支配の決定的な失敗に打ち勝つということを意味していた。英国は仏教の僧侶や僧院および寺院のインフラのために積極的に支援するわけではなかった。テーラワーダ仏教の論理で言えば、国家の支配者はそういったものを支援すべきなのである。ほかの人たち、たとえばアウンサン将軍は、新しい国家は開放的であるべきで、その領域内に住む者は全員ビルマ国民として認めるべきだと主張していた。

 軍のなかには異なる論議があった。すなわちいままでとおなじように軍の役割をみなす人々(軍は国家の武力勢力だが、シビリアンコントロールのもとにあると考える)と、軍が国を統御すべきとするネ・ウィン(1962年のクーデターの首謀者)のような人々の間の論争である。ネ・ウィンらはビルマ人を代表するのは軍だけだと信じていた。

 1947年のアウンサン将軍の暗殺をきっかけに、こうした論争の勝利者は、新しい国家はビルマ人仏教徒の信仰の体現であるべきだとする人々から、規律、忠誠、協調性を重んじ、主権と国の独立を守るために義務を果たす唯一の組織は軍だと信ずる人々に変わっていった。それはつぎつぎと、かつての独立運動に亀裂を生じさせた。

 一部のリーダーたち、たとえばチョー・ゼイは国内で追放されたあと、ビルマ共産党の軍事組織を率いた。アウンサンの妻キンチーを含む文民政府のメンバーの一部は、ビルマは将来にわたって世俗政治を貫くべきだと論じた。実際、1962年に軍部が権力を握ったとき、はじめてビルマ人と仏教徒であることがおなじであるという論理がゆるぎないものになった。それはゆっくりと、いつのまにかできあがった論理だった。

 「タッマド」として知られるビルマの国軍は、結果としてそれ自体が新しい国家の礎石となった。それはまた内部の脅威に直面するということ、そしてビルマ人の定義に関して偏狭な、排他主義的な姿勢を選んだということだった。

 ある意味、軍が恐れるのは理由がないことではなかった。これから起こることは、部分的には、パラノイアから生まれた極端なやり方によってもたらされたものだった。世俗的なビルマを願う人々、あるいはビルマ人以外のエスニック・グループに対して、事実上、彼らが新ビルマにふさわしいメンバーではないことを伝えるのは、反乱のお膳立てをするようなものだった。

 独立後間もない1948年3月、ビルマ共産党は、おそらく中国共産党のバックアップを受けて、新しい政府を引きずり下ろす軍事キャンペーンを始めた。1950年代前半までに彼らは戦闘で負けたものの、重要な軍事勢力として生き残った。そして1960年代前半、彼らはビルマ中央部から駆逐された。つぎに、中央政府に対して、また、シャン共産党同盟に対して反乱を起こしたのはカレン・エスニック・グループだった。シャン共産党同盟は中国国境に近い北東の山岳地帯に避難していた。

 そこにはいくつもの能動的な武力グループがあり、シャンとカレンの戦いはたんなる国内のいさかいではなかった。中国の内戦が終わった1950年頃、CIAは積極的にビルマ北東部のクオミンタン(国民党)に資金援助をしようとしていた。この状況は、1950年代、ずっと存続した。そしてビルマ人の支配に対して国境部族が起こした一連の反乱と、さまざまなエスニック・グループ内の戦いと融合した。

 
CIAがバックアップした作戦はビルマ当局にとっては関心が高かった。彼らは中国が国民党部隊の存在を利用し、それを言い訳に侵攻してくるのではないかと恐れたのである。そうした国内的な事情へのあからさまな干渉は、外国人に対する軍の強い不信感が高まることになった。外国人は自分たちの都合に従って動いているだけで、ビルマに損害を与えるかどうかまったく考慮していなかったのである。

 その結果、1950年代後半までには、軍はビルマ国境付近の複雑な内戦に巻き込まれていた。そして社会が軍事化したことで生み出された抑圧は、1958年の軍事支配へといざなう。そして1962年のクーデターによって、軍事政権は正式に樹立されることになる。しかしより重要なことは、独立につづいて永続的な戦争が始まったということは、軍が、国内の敵と反抗的なエリアにたまたま生まれた民間人の区別ができなくなってしまったことを意味していた。

 

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