ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕 

2 独立から民主政権誕生まで(19482010) 


民主主義的な時代 194862 

 アラカンは比較的平和な場所なのだけれど、1940年代後半には、ビルマのほかのエスニック・グループと比べてもロヒンギャは特別なカテゴリーに入れられていた。1950年代のウー・ヌ首相の民主主義的政府においても、ロヒンギャは土着のエスニック・グループの一つとして受け入れられていた。しかし彼らは1947年憲法に名を挙げられた完全な国民のエスニック・グループのひとつではなかった。

 1954年9月25日の公の場での演説でウー・ヌはつぎのように述べた。「ロヒンギャはカチン、カヤー、カレン、モン、ラカイン、シャンと同等の国民のステータスを持っている」。自分たちの方言を使って放送するラジオ局が開設された。局開設にあたって、法整備をする際に、ロヒンギャ語が、さまざまな放送のなかに反映されるべき少数民族の言語のひとつとして言及された。

 なぜロヒンギャが選び出されたかははっきりしない。英国人から沸き起こる反ムスリム感情があった。彼らはときには仏教徒よりもムスリムのほうを好んだのだが。そしてインド人移民がこの地方に来るのを手助けした。これによって一部の地元民は雇用を得るために争わなければならなかった。しかしほかのムスリムは、ラカインにおいても、ビルマのその他の地域においても、市民権が与えられた。

 1947年の反乱と1948年の東パキスタン参加の請願はシャン族とカレン族の反乱と比べると、マイナーなできごとにすぎなかった(両者とも承認されたエスニック・グループのリストに載っていた)。論点のひとつは、独立以前のインドからの移民が、ビルマ人の大多数にとっての苛立ちのもとになっていたことである。彼らの懸念にはいくらかの真実があった。バクスターの1941年のレポートは、三つの分野でインドからの移民の労働代替があると記している。すなわち(港湾の)ドック、最近作られた稲田、ゴムのプランテーション。それに文官勤務も加えられる。しかしながらロヒンギャは、おもに自分たちの村で農業や漁業に従事していて、これらの仕事に携わることはなかった。

 1947年憲法は公式に、ビルマのすべてのエスニック・グループは移民であり、ロヒンギャの異なる扱いはそのあとに述べられると認識している。とりわけ市民権は、それまでの十年間のうち少なくとも八年はビルマ領内で生活していることを基礎として与えられると考えられた。結果として憲法の第11項(ⅳ)において、ロヒンギャに法的権利および選挙権を伴うロヒンギャ国民登録証明(Rohingyas National Registration Certificates)が授与された。ロヒンギャは市民権の証明書を申請する必要はないと言われた、というのも「ビルマ連邦の土着の民族のひとつだから」である。(Citizenship Election Officer 1948. Indigenous Race Recognition

 1950年代、ロヒンギャは独立したエスニック・グループであり、ビルマの複雑な民族体系の一部であると認識されていた。そしてたくみにビルマの政治的、社会的システムに組み込まれていった。1948年と1961年の間に少数のロヒンギャは(4名から6名)国会のメンバー(議員)を務めた。そして軍事クーデターのあとも、数人のロヒンギャが、ビルマ社会主義者計画党の支持者として国会に残った。1959年の時点で、ロヒンギャ学生連盟はラングーン大学の公認された活動組織のひとつだった。

 どう見てもロヒンギャはほかのエスニック・グループと同様に扱われ、政府がいずれ彼らのステータスを正常化する意図があるように見えるのは、もっともなことだった。同様に、ロヒンギャがエスニック・グループとして存在することを否定してはいなかった。1961年の軍事レポートは、(東パキスタンと接する)マユ前線地区のムスリムの住人はロヒンギャであると記している。1961年のセンサス(人口調査)は、マユ地区の人口の75%はロヒンギャであると示している。そしてこの地区は正式に前線行政地区から内務省に移されている。そしてラカイン州に編入されている。この扱いはほかの国境地域を支配するエスニック・グループと対照的である。そして進行中の武装した反乱もなく、地域内の関係は比較的ノーマルである。

 この段階で差別のおもなターゲットとなったのは、インド人移民と考えられた人々である。彼らは市民権を拒絶され、外国人として扱われた。このこと自体は国連憲章に違反しているかどうか問題にすべきだろうが、対象となっているのは、英国によってビルマの(ビルマ人にはなじみのない仕事である)ゴム・プランテーションで働くために招き入れられた、ほとんどがヒンドゥー教徒のインド人出稼ぎ労働者である。しかしながら出稼ぎ労働者とロヒンギャの区別は、1962年に軍部が実権を握って以来、しだいに曖昧になっていくのだった。

 

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