ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕  

2 独立から民主政権誕生まで(19482010) 


軍事政権の支配から民主主義への回帰 19882008 

 1988年の反乱以降の政治的不安定と無効になった1990年総選挙から、ラカイン北部にビルマ国軍の配置が増強された。それにもかかわらず、上述のように、一部のロヒンギャの人々は、1982年の市民権法をもとに、1990年総選挙に立候補することが許された。

 1991から92年の時期、あらたな攻撃があり、25万人がバングラデシュに逃れた。そしてまたも強制労働、暴行、レイプ、土地の窃盗がおこなわれた。後者には、ラカイン北部において、非ロヒンギャのために、古くからのロヒンギャ居住地の奪った土地の上に、強制労働のロヒンギャによっておこなわれる村の建設も含まれた。

 村々にはビルマ人が住むようになった。彼らは軍部によってここに移され、相当の農業生産目標が課せられた。ロヒンギャが新しい土地所有者から土地を借り、生産目標達成をめざすという例も報告されている。 

 ロヒンギャは新しい村や軍の基地が建てられることによって、住んでいた村から強制退去させられた。それだけでなく、バングラデシュから強制送還された人々は、元の自分たちの共同体が破壊され、国が好むグループがかわりに居座っているのを知ることになった。このことが新たな緊張を生み、結果としてさらなる弾圧を呼び、難民はバングラデシュやマレーシアに流出しつづけた。

 バングラデシュは一貫して、そして強制的に難民をビルマに送り返した。それらには1970年代や、また1990年代前半にも逃げた人々が含まれていた。これは普遍的な人権や難民の権利に関するさまざまな国連の宣言に反していた。マレーシアに逃げた人々はしばしば滞在が許された。しかし国を持たない難民として、ビルマ政府は彼らを受け入れず、マレーシア当局は彼らを強制的に排除することはなかったが、適切な難民のステータスを与えるわけでもなかった。

 

⇒ つぎ