イントロダクション 


ロヒンギャ難民と虐殺  

 UNCHR
(国連難民高等弁務官事務所)のウェブサイトによると、2017年8月25日以降の5年間だけでも、ロヒンギャ難民の数は94万人にものぼるという。この数をあわせた200万人以上のロヒンギャがミャンマーを出て難民となり、100万人弱がかろうじてラカイン州の居住区にとどまっていることになる。ロヒンギャ難民の大半はバングラデシュの難民キャンプで暮らしているが、パキスタン、インド、タイ、マレーシア、インドネシア、サウジアラビアなどまさに世界中に離散している。海難事故で死者が出るケースも少なくない。なかには悪名高いタイの水産業の闇の奴隷労働に従事させられている人々もいる。

 これだけの難民が出るのは、弾圧があり、虐殺があったからだ。最初の大量虐殺はつぎのようにして起こった。2012年5月下旬、ラカイン人仏教徒の女性が3人のムスリムにレイプされ、殺されるという痛ましい事件が起きた。6月3日、報復が実行される。ラカイン人仏教徒の集団が一台のバスを止め、乗車していたムスリム10人を殺したのである。殺された人々はレイプ殺人事件の犯人たちとはまったく関係なかった。これをきっかけにコミュニティ同士の戦いが始まった。軍部と警察が治安にあたるべきだが、軍部と警察にはラカイン人仏教徒が多く、結果的にムスリムを弾圧することになってしまった。これが六月事件である。

 10月には、事態はさらにエスカレートした。暴徒と化したラカイン人たちがまずモスクを燃やし、それから人家を燃やした。虐殺は10月23日、ヤン・テイ村ではじまった。その前日、警察の治安部隊は村のロヒンギャから棒やその他武器になりそうなものをすべて取り上げていた。「何もするな。我々がおまえたちを守ってやるからな」と言われたという。しかしつぎの日、何千人ものラカイン人が襲いかかってきたとき、治安部隊がそれを抑えることはなく、ロヒンギャはなすすべがなかった。殺された人々のなかには28人の子供が含まれていた。これが十月事件のあらましである。

 このあと2013年から14年にかけては、表面的には大きな紛争が減ったように思われた。しかしたとえばマウンドー地区のキラ・ドン村(ドゥチラダン村)で虐殺が発生した。この村では四十人が殺されたほか、最大四千人のロヒンギャがレイプされ、不法逮捕され、どこかへ連行されたという。しかしこのことは公表されるどころか、ジャーナリストやNGO関係者はみなマウンドー地区への入域が許されなくなってしまった。ついには国境なき医師団などの人権団体はラカインから、そしてミャンマーから追放されてしまったのである。しだいにこの地域の情報が外に出なくなり、支援団体の活動も滞るようになった。

 2015年の総選挙の前年に、国勢調査(2014年センサス)が実施された。このときミャンマー当局はロヒンギャにバングラデシュ人であることを認めるよう強制した。それを拒んだ人々はアイデンティティー・カードを剥奪された。ラカイン州内の国内避難民(IDP)が急増し、各収容施設(難民キャンプ)に収容されたのはこの時期のことだった。彼らは病院での治療も拒まれるようになっていた。彼らの多くが難民ボートに乗って国外に脱出することを選択したのも無理はなかった。しかし実際、強制的にラカイン人仏教徒によって難民ボートに乗せられることも多かったという証言もある。

 2015年の難民危機がなぜ起きたかといえば、マレーシアとインドネシアが国境を閉め、難民を受け入れなかったからである。難民ボートがどこかの海岸に着くと、人身売買業者はボートを見捨てて姿をくらました。残された難民ボートは地元当局によって海に押し返され、その結果波間に漂うことになってしまった。

 運よく上陸できた場合も、人々は漁船の奴隷労働に就かざるをえない場合が多かった。とくにタイの人材闇市場に多くのロヒンギャが消えていった。2013年のレポートによると、タイで奴隷労働に就く者は五十万人にものぼり、その多くがミャンマーからの難民だった。

 米国の『2015年人身取引レポート』にはミャンマーの状況についてつぎのように述べている。

 ビルマ(ミャンマー)国内の人身取引に政府当局が関与している。カチン州やシャン州北部の戦闘によって家を追われた推計9万8千人の人々やラカイン州の推計14万6千人の人々を含む民族地域から逃れてきた男女、子供たちはとくに、人身取引の犠牲になりやすかった。レポートはラカイン州のロヒンギャの女性が性的人身取引の対象になっていることを示唆していた。地元の人身取引業者はだまして人々をパーム油やゴム・プランテーション、翡翠や宝石の鉱山で強制労働に就かせた。子供たちは性的人身取引の犠牲になったり、ティーショップや農業部門で働かされたり、物乞いをさせられたりした。

 2016年から17年にかけて、ロヒンギャからテロリスト・グループが生まれたことによって、ロヒンギャ問題は新しい局面を迎えることになった。詳しくは第14章「ロヒンギャから生まれたテロ組織」で述べるが、ロヒンギャをサポートしてきた人々にとっては頭痛の種となるものだった。テロリスト・グループが警察や軍隊を襲った場合、それ自体が弾圧、虐殺の口実に利用される可能性があったのである。


不法移民ベンガル人というレッテル 

 本稿では、なぜロヒンギャへの弾圧、虐殺が起こったかについて考察していきたい。ミャンマー側からの論理では、ロヒンギャはミャンマー人ではなく、英植民地時代に流入したベンガル人労働者であり、不法に滞在してきた。だからもともと居住していた国に帰ってもらおうとしているだけだ、ということになる。

 しかしもしロヒンギャが英植民地時代以降にやってきた人々とみなすと、矛盾点がたくさん生まれてしまうのである。すなわち、それまでにいた多くのムスリムはどこへ行ったのか、多くのインド系住民はどうなってしまったのか、という問題だ。そもそも彼らが百年前に移住してきた人々だとしても、それだけ長く住んでいれば市民権くらい与えられるべきではないのだろうか。

 重要なポイントは、仏教徒のミャンマー系ラカイン人(歴史的経緯からラカイン人とミャンマー政府は対立してきた)は10世紀にやってきた新参者であることだ。それまでの少なくとも数百年は、インド系の人々がラカインの支配者だった。最初に仏教をもたらしたのは彼らであり、ヒンドゥー教徒の割合が増えていったように思われる。ベンガルのほかの地域と同様、ベンガル、とくにチッタゴン地区と関係の深いラカインの人々の多くがムスリムに改宗した。

 それと同時にアラブ人やペルシア人によって遠くマレー半島まで、沿岸伝いにイスラーム教は伝播していった。沿岸州であるラカインの海岸部にムスリムが増えるのは、そうした歴史の流れのなかにあったといえるだろう。また15世紀に亡命先のベンガルから国王が戻ってきてムラウー王朝を樹立したときや、ラカインにムガル帝国の皇子が亡命したときに、多くのムスリム兵士がラカインにやってきた。彼らの多くはパタン人だった。

 16世紀から18世紀にかけてマグ人(ラカイン人)とポルトガル人の連合海賊がベンガル湾で暴れまわり、人々を捕えては奴隷として売った。彼らの大半はラカインに連行された(奴隷の六割はアラカン国王が買ったとされる)。そうした奴隷は年間三千人にも及んだ。奴隷の過半数はムスリムだったと思われるが、ヒンドゥー教徒の多くも改宗してムスリムになった。奴隷出身のムスリムの人口も相当あったと思われる。

 ネイティブ中のネイティブというべきインド・アーリア人がどのくらい生き延び、現在のラカイン・ムスリムにどの程度つながっているかは、明確には言えない。一部の人はまったくつながっていないと主張するかもしれない。しかし昔この地にインド人がいて、今もインド人がいるとき、そのつながりを頭から否定すべきだろうか。本稿では、つながりがあることを想定して歴史を吟味していきたい。

 不幸なことにムスリムは、ムスリムになる以前の自分たちを否定し、歴史を認めない傾向がある。これまで述べたようにさまざまな出自のムスリムが集まってラカイン・ムスリムになったのだとしたら、いっそう歴史を語るのが困難になる。しかし少なくとも「不法移民ベンガル人」というレッテルを貼るべきではないだろう。