(6)宣教師が見たムラウー王朝、そしてキリシタン侍 

 ロヒンギャの祖先がアラカンの先住民のインド人と仮定したとして、ムラウー王朝(1429―1785)の時代、彼らはどこにいたのだろうか。現在のバングラデシュ国境に近いマユ地区(マウンドーやブーティダウン)に多かったのはたしかだが、現在ほど極端にムスリムと仏教徒で分かれているのは、1942年以降のことであり、ある程度ラカイン全体に散らばっていた。ムラウー自体は、パゴダをはじめ、おびただしい仏教遺跡や建築物が残っていることから考えると、王族をはじめとする支配層(ビルマ系ラカイン人)が仏教徒であったことは間違いない。しかし、国王が全員イスラム名を持っていたという事実から、朝廷内にも相当ムスリムがいただろうし、一部はロヒンギャだったろう。

 ムラウー王朝がイスラム化していたかどうか、その証言をしてくれるのは、17世紀前半にアラカンを訪れたポルトガル人宣教師セバスチャン・マンリケ(1590―1669)である。マンリケは1635年にアラカンで行われた戴冠式に参加している。彼はアラカンの高官と会談しているのだが、そのなかで「我々ポルトガルは貴国の敵であるムガル帝国やペグー(ビルマ)と戦ってきた」と述べるくだりがある。つまりアラカンにとって、ビルマだけでなく、ムガル帝国も友好国ではなく、主従関係もなかったということである。やはり王侯貴族は仏教を信仰していたのだろう。同時に前述のように、イスラム宮廷文化への強い憧憬があったのはたしかだ。

 興味深いのは、時の国王ティリ・トゥダンマの警護を担当していたのが、「レオン殿」率いる日本人キリシタン侍たちであったことである。おそらく1612年の徳川家康の禁教令があまりにも厳しく、切支丹集団で国外に脱したのではなかろうか。当時アジア各地にいくつもの日本町ができつつあったが、なぜ彼らはアラカンに来ることになったのだろうか。想像するに、彼らはマカオ経由で、ゴアをめざしていたのかもしれない。あるいは日本人が飽和気味だったアユタヤから移ってきたのか。[註:通説ではアユタヤの山田長政は1630年に殺され、そのあと反乱の恐れがあるとして日本人町は焼き討ちにされた。沖田英明氏は『ミャンマーの侍 山田長政』の中で長政が生き延びてミャンマーのシャン州へ逃れたという説を追っている。実際、日本人侍が逃れたという伝承はあるようである。ただしアラカンのキリシタン侍はそれよりも少し早いので、長政周辺と関係があるかどうかはわからない] 

 当時横行していた海賊(ポルトガル人海賊
マグ人海賊の混成隊)の奴隷狩りに捕まり、アラカン王室に傭兵奴隷として高い値段で売られた可能性もある。キリシタン侍は高級な交易品だったのである。この時代、傭兵としてはカマンと呼ばれるパタン人(パシュトゥーン人)らがもっとも需要があったが、大小二本の刀を差したキリシタン侍は見た目も珍しく、国王の自慢の宝だったかもしれない。体は小さいが、高品質の日本刀を持った勇猛な民族は、国王警護にはもってこいだったろう。[註:ムガル帝国の歴史家シャイブッディン・タリッシュによると、「アラカン人(マグ人)の海賊の戦利品の半分はアラカン王のもとへ行った」という。アラカンの国王は最大のお得意様だったのである。キリシタン侍が傭兵奴隷という高価な商品であった可能性は十分にあるだろう。当時、女性は愛妾奴隷として売られることがあった。通常の奴隷は手かせをはめられ、鎖で奴隷同士がつながれた。扱いがひどい場合、手のひらに穴がうがたれ、縄を通して、数珠つなぎにされた][註:マハムニ・パヤーで戴冠式が行われたとき、第一広間の入口を警護していたのはビルマ人傭兵たちで、第二広間の入口を警護していたのはパタン人(アフガン人)たちだったとマンリケは報告している。つまり警護の序列は「パタン人>ビルマ人>日本人」だった。日本人侍の身分はきわめて低かった] 

 しかしイスラム志向の強い仏教徒の王宮において、キリシタン(キリスト教徒)であることは、孤立無援で、精神的にきつかったかもしれない。彼らはマンリケの姿を見つけると、近づいてきて、ひとりひとり跪いて、まるで聖人であるかのように恭しく手にキスをしたという。日本人リーダーの「レオン殿」は、神父が七年も来なかったことに対して不平を述べている。神父がいなければ、告解する機会さえなかった。

 日本人侍レオン殿はマンリケに嘆願している。「ムラウーには教会がありません。国王に建ててくださるようお願いしているのですが、願いはかないません。神父さまからもとうか国王に助言を与えてください」。

 当時ムラウーにいるカトリック教徒は(ポルトガル人の)傭兵たち、その妻と家族、商人、囚人、クリスチャンの地元民だけだった。小さな小屋を改造した礼拝所はあった。日本人侍らが絹と布切れを持ってきて飾りつけをし、そこでマンリケはミサをおこなったようで ある。そこには19年間告解をしていないというインド系の信者がいた。彼はアラカン人の女と暮らしているが、神父がいないため、長く正式に結婚できなかったという。彼はおそらく奴隷としてチッタゴンから連れて来られたのだろう。

 実際のところ、マンリケにとって、チッタゴン郊外の(現存する)ディアンゴ教会を維持するだけで手いっぱいだった。ポルトガル人海賊の拠点も近く、彼らのためにつとめを果たさなければならなかった。

 日本人侍の謙虚で、律儀で、実直なところがマンリケには印象深かったようだ。彼が船で大臣と歓談しているとき、侍は土手の上で身をかがめてじっと待っていた。それを見て彼は将軍の義弟に日本人を船上に上げてもいいかと尋ねた。義弟は「身分の低い者をのせるわけにはいかぬ」と拒絶するが、大臣が近づいてくるのが見えると、「よかろう」と許可を与えた。日本人侍はいたく喜んで「たいへん名誉なことです。神の代理人であるあなたさまにお仕え申し上げます」と感謝の意を伝えている。

 「日本人は名誉のためなら命をも惜しまぬ国民のようだ」と彼は感服している。正直なところ、日本人の地位の低さは気にはなる。警護としても、パタン人やビルマ人より下に見られていた。明治維新を経て、先進国の仲間入りをしたからこそ偉そうにもできるが、四百年前は後進国の人間とみなされていたのである。


 マンリケは日本人と会って触発されたのか、この後マカオに行き、日本上陸をめざすが、鎖国の日本へ連れて行ってくれる船をついに探し出すことができなかった。

 日本人キリシタン侍がその後どうなったかは、わかっていない。そもそもマンリケの報告がなければ、その存在すら知られなかったかもしれない。彼らはそれぞれどこかで入手した聖書と十字架くらいは携えていただろうけれど、ムラウーにきちんとした教会がなく、神父もいなかったろうから、信仰生活を維持していくのは大変だったと思う。

 ムラウー王朝の王族は仏教徒でありながら、イスラム教に対して理解を示していたが、キリスト教に対しても敵意を示すことはなかったようだ。キリシタン侍たちも日本ではまったく聞いたことのなかったイスラム教の勢いを見て、さぞとまどったに違いない。国王の警備、つまりSPという仕事柄、年を取ってまで職務をつづけた可能性は大きくない。そのとき、彼らは円満に引退することができただろうか。日本人が殺されたとかそういったネガティブな話は伝わっていないので、引退して隠居生活に入ったか、農作業に従事したか、ともかく平穏な生活を送ったであろうと思う。いつか彼らの日本刀が出土する日が来るかもしれない。

 彼らの墓は跡形もないのだろうか。私はベトナム中部の町ホイアンの16世紀のわりあい立派な日本人墓地を一つ一つ訪ね歩いたことがある。墓があるということは、墓を建てた人がいるということであり、墓参りをした人がいたということである。キリシタン侍たちは最後の一人を除いて、十字架の墓が建てられただろうが、残念ながらこのサイクロンの多い地域に生き残ることはなかった。

 一方、ムラウーに、イスラム教の墓地やモスクはどれだけ残っているだろうか。残念ながら、墓地の遺跡は見つかっていない。遺跡としては、唯一、15世紀に建てられたサンティカン・モスクの遺構が残っている。

 さて、アラカンの歴史上、最大の恥辱の事件といえるシャー・シュジャ殺害が起きるのは、キリシタン侍の時代からそれほどあとではなかった。長寿をまっとうしていたなら、日本人キリシタン侍の誰かはこの大事件を目撃したかもしれない。事の発端はムガル帝国内の骨肉の後継者争いだった。

 皇帝シャー・ジャハンが斃れると、四人の息子、ダラ・シコー、シャー・シュジャ、アウラングゼーブ、ムラド・バクシュの間で壮絶なバトルがはじまった。1657年、シャー・シュジャは自ら戴冠式を行って皇帝を名乗るが、ダラに敗れ、ベンガル、オリッサ、ビハールをかろうじて確保する。しかしアウラングゼーブはダラとの戦いに勝ち、実の兄を処刑した。1659年、アウラングゼーブはシャー・シュジャにも勝ち、シュジャはベンガルに退却した。アウラングゼーブはすかさずミール・ジュムラを将軍に任命し、シュジャを追跡させた。激しい戦いのすえ、シャー・シュジャは敵兵に囲まれたタンダから脱出して、限られた側近だけを連れて(それでも数千人の規模だった)アラカンに亡命した。

 1660年8月、シャー・シュジャの一行はムラウーの宮廷で国王サンダ・トゥダンマの熱烈な歓迎を受けた。このとき国王はシャー・シュジャに、彼と家族のためにメッカ行きの船を調達することを約束した。シュジャはムガル帝国の財宝、すなわちラクダの荷車6台分の金銀財宝を持ってきたので、金銭的にはまったく困っていなかった。

 その後八か月たっても船が用意される様子はなく、それどころか国王はシュジャの娘の一人と結婚したいと言い出したのである。シュジャが断ると、逆切れした国王はシュジャらに、三日以内に出ていくよう命じた。

 しかし彼らはすぐに移動することができず、また市場で食料を買うことさえ拒まれたので、シュジャは仕方なく、地元のムスリムのサポートを得て、二百人の兵士の手勢とともに国王に反旗を翻すことにした。結局、彼の兵士たちは捕らえられ、シュジャと家族は森に逃げ込んだ。しかし逃避行はそれほど長く続かず、捕らえられ、処刑されてしまう。娘たちはみな国王のハーレムに入れられてしまった。三人の息子たちは斬首され、四人の娘たちは餓死させられた、ともいう。金銀財宝はもちろん国王の所有物となった。

 兄の死の知らせを聞いて激怒したのはアウラングゼーブ皇帝その人だった。皇帝は兄を捕えて処刑するつもりでいたが、だからといって隣の小国の王に殺されたとなれば、別問題だった。彼はすぐにアラカンに軍隊を派遣した。ムガル軍はチッタゴンに攻め入り、数千人のアラカン人を捕え、奴隷とした。

 ここで注意すべきは、どうやらチッタゴンはたびたびアラカンの一部となっていたことである。チッタゴンがアラカンの領土であるなら、チッタゴン人とベンガル系アラカン人がごっちゃになり、区分しがたくなるのは当然だった。ビルマがアラカンを併呑した1784年以降、チッタゴンはふたたびアラカンから離れる。1826年、アラカンはビルマから英国に割譲された。そして1937年、アラカンは英領ビルマの一部となった。

 なおシャー・シュジャとともにやってきた主にパシュトゥーン人(アフガン人)の傭兵部隊の子孫はカマンと呼ばれる。カマン(カマーン)とは、ペルシア語で弓の意味である。射手はペルシア語でカマーンギールだが、カマンの別名カマンチと関係するかどうかはわからない。当時のベンガルの宮廷やアラカンの宮廷ではペルシア語が公式言語として採用されていたので、ペルシア語の言葉が使用されることは、十分にありえることである。[現在でもなお、たとえばインドの知識階級の間では、ペルシア語は高貴な言語として敬意を持たれている]

 彼ら(カマン)はなぜか、ロヒンギャと違って、アラカンの先住民としてミャンマーの市民権を持っている。しかし不幸なことにロヒンギャとともに(混同されて?)虐殺されることがあり、多くが難民となっている。結局はミャンマーの軍事政権や仏教徒の「イスラム嫌い」がもたらした惨劇なのである。



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