(7)宣教師が見たムラウー王朝、そしてキリシタン侍 

 ムラウーの王宮正門付近 

ムラウー朝の頃のインド系アラカン人 

 
アラカンの先住民のインド人(ロヒンギャの祖先の可能性が大きい)は、ムラウー王朝(1429―1785)の時代、どこにいたのだろうか。アジーム・イブラヒムはつぎのように述べる。
「(ムラウー朝のはじめ頃)イスラーム教はこの地域においてすでに大きな存在になっていて、ムラウー朝の間に、初期のインド・アーリア人定住者(ロヒンギャと思える)の大部分がムスリムになっていた。一方ラカイン人は仏教徒としてのアイデンティティを保っていた」 

 ムラウー朝アラカン(ラカイン)は奇妙な国だった。『コンパクト・アトラス世界史』は、15世紀のアラカンをイスラーム教の国とみなしているのだ。なぜムスリムの国と見誤ったのか。あるいは、ムスリムの国のようにふるまったのか。

 なぜアラカンの国王はムスリム名を持っていたのだろうか。ラカイン名(ビルマ人の名)、仏教式の名とともに、ムスリム名をかならずつけた。コインも鋳造している。それにはカリマー(イスラーム信条)が刻まれていた。あきらかにスルターンを名乗り、スルターン国として認められたかったのである。西の方を見ると、ムスリムの国ばかりだった。この状態が一時的なものでなく、350年間ずっと続いたのは、ベンガル・イスラーム王朝の属国であっただけでなく、臣民の多数がムスリムだったからだろう。


ムラウー王朝のムスリム部隊と多数の奴隷の存在 

 1635年のアラカン国王の戴冠式に参列したポルトガル人宣教師マンリケはムスリム部隊の存在に目を奪われている。イラク産の馬に乗ったムスリム将校ラシュカル・ワズィル率いるムスリム部隊は六百名の兵士を擁していたという。アラカン人隊長が率いるムスリム部隊もいくつかあったようで、アラカン国内のムスリム人口が少なくなかったことがわかる。

 奴隷もまたムスリム増加に寄与している。前章で述べたように、マグ・フェリンギ(アラカン人・ポルトガル人)連合海賊はベンガル湾で暴れまくり、年間三千人もの人々が連れ去られ、アラカンで奴隷として売られたのである。ただしほとんどがムスリムだった、とは言えない。補遺7の図を見ればわかるように、ムスリム化が進んだ1872年でさえ、ムスリムの割合はチッタゴン地区で70-80%、コミラで60-70%、ダッカで50-60%にすぎない。奴隷の6割がムスリムで、4割がヒンドゥー教徒だったと見るべきではなかろうか。すでに述べたようにベンガル人のヒンドゥー教徒の大半はムスリムに改宗している。ヒンドゥー教徒のベンガル人奴隷はムスリムになり、ムスリム・ベンガル人奴隷とともに、アラカン・ムスリムに溶け込んだのかもしれない。


日本人キリシタン侍 

 
興味深いことに、時の国王ティリ・トゥダンマの警護を担当していたのは、「レオン殿」率いる日本人キリシタン侍たちであった。江戸時代の初期、岡本大八事件が起こり、1612年には慶長の禁教令が出された。このとき、一部は処刑され、高山右近をはじめ多数のキリシタンが国外追放になっている。モーリス・コリスによれば、追放になった彼らは<Further India>(ビルマ、マラヤ、シャム、インドシナなど)の王たちの警護として雇われたり、シャム、ペグー、アラカンなどの近衛兵に加わったりした。この時期の日本人侍は実践的な経験を積んでいるので、いわばプロの傭兵として役に立っただろう。山田長政がいたアユタヤから流れてきた可能性も捨てきれない

[註:通説ではアユタヤの山田長政は1630年に殺され、そのあと反乱の恐れがあるとして日本人町は焼き討ちにされた。沖田英明氏は『ミャンマーの侍 山田長政』の中で長政が生き延びてミャンマーのシャン州へ逃れたという説を追っている。実際、日本人侍が逃れたという伝承はあるようである] 

 当時横行していた海賊(ポルトガル人海賊とマグ人海賊の混成隊)の奴隷狩りに捕まり、アラカン王室に傭兵奴隷として高い値段で売られた可能性もある。キリシタン侍は高級な交易品だったのである。アラカン宮廷で寵愛されたベンガル文学を代表する詩人アラオル(1607-1680)も、もともと海賊に襲われ、奴隷としてアラカン王に売られたのが、アラカンに来た理由だった。

 この時代、傭兵としてはカマンと呼ばれるパタン人(パシュトゥーン人)らがもっとも需要があったが、大小二本の刀を差したキリシタン侍は見た目も珍しく、国王の自慢の宝だったかもしれない。体は小さいが、高品質の日本刀を持った勇猛な民族は、国王警護にはもってこいだったろう。

[註:ムガル帝国の歴史家シャイブッディーン・タリッシュによると、「アラカン人(マグ人)の海賊の戦利品の半分はアラカン王のもとへ行った」という。アラカンの国王は最大のお得意様だったのである。キリシタン侍が傭兵奴隷という高価な商品であった可能性は十分にあるだろう。当時、女性は愛妾奴隷として売られることがあった。通常の奴隷は手かせをはめられ、鎖で奴隷同士がつながれた。扱いがひどい場合、手のひらに穴がうがたれ、縄を通して、数珠つなぎにされた]

[註:戴冠式が行われたとき、第一広間の入口を警護していたのはビルマ人傭兵たちで、第二広間の入口を警護していたのはパタン人(アフガン人)たちだったとマンリケは報告している。つまり警護の序列は「パタン人>ビルマ人>日本人」だった。日本人侍の身分はきわめて低かった]
 

 
しかしイスラム志向の強い仏教徒の王宮において、キリシタン(キリスト教徒)であることは、孤立無援で、精神的にきつかったかもしれない。彼らはマンリケの姿を見つけると、近づいてきて、ひとりひとり跪いて、まるで聖人であるかのように恭しく手にキスをしたという。日本人リーダーの「レオン殿」は、神父が七年も来なかったことに対して不平を述べている。神父がいなければ、告解する機会さえなかった

 
日本人侍レオン殿はマンリケに嘆願している。「ムラウーには教会がありません。国王に建ててくださるようお願いしているのですが、願いはかないません。神父さまからもとうか国王に助言を与えてください」

 
当時ムラウーにいるカトリック教徒は(ポルトガル人の)傭兵たち、その妻と家族、商人、囚人、クリスチャンの地元民だけだった。小さな小屋を改造した礼拝所はあった。日本人侍らが絹と布切れを持ってきて飾りつけをし、そこでマンリケはミサをおこなったようで ある。そこには19年間告解をしていないというインド系の信者がいた。彼はアラカン人の女と暮らしているが、神父がいないため、長く正式に結婚できなかったという。彼はおそらく奴隷としてチッタゴンから連れて来られたのだろう


謙虚な日本人 

 実際のところ、マンリケにとって、チッタゴン郊外の(現存する)ディアンゴ教会を維持するだけで手いっぱいだった。ポルトガル人海賊の拠点も近く、彼らのためにつとめを果たさなければならなかった。

 日本人侍の謙虚で、律儀で、実直なところがマンリケには印象深かったようだ。彼が船で大臣と歓談しているとき、侍は土手の上で身をかがめてじっと待っていた。それを見て彼は将軍の義弟に日本人を船上に上げてもいいかと尋ねた。義弟は「身分の低い者をのせるわけにはいかぬ」と拒絶するが、大臣が近づいてくるのが見えると、「よかろう」と許可を与えた。日本人侍はいたく喜んで「たいへん名誉なことです。神の代理人であるあなたさまにお仕え申し上げます」と感謝の意を伝えている。

 「日本人は名誉のためなら命をも惜しまぬ国民のようだ」と彼は感服している。正直なところ、日本人の地位の低さは気にはなる。警護としても、パタン人やビルマ人より下に見られていた。明治維新を経て、先進国の仲間入りをしたからこそ偉そうにもできるが、四百年前は後進国の人間とみなされていたのである。

 マンリケは日本人と会って触発されたのか、この後ゴアで日本での布教の許可を得たあと、マニラ、そしてマカオに行き、日本上陸をめざすが、鎖国の日本へ連れて行ってくれる船をついに探し出すことができなかった。もし日本に入国していたら、捕らえられ、ポルトガル人商人たちのように処刑されていただろう。[マンリケはアジアで危険で冒険的な16年間を過ごしたが、最後はロンドンでポルトガル人の使用人に殺されて79年の生涯を閉じた] 

 日本人キリシタン侍がその後どうなったかは、わかっていない。そもそもマンリケの報告がなければ、その存在すら知られなかったかもしれない。彼らはそれぞれどこかで入手した聖書と十字架くらいは携えていただろうけれど、ムラウーにきちんとした教会がなく、神父もいなかったろうから、信仰生活を維持していくのは大変だったと思う。

 ムラウー王朝の王族は仏教徒でありながら、イスラム教に対して理解を示していたが、キリスト教に対しても敵意を示すことはなかったようだ。キリシタン侍たちも日本ではまったく聞いたことのなかったイスラム教の勢いを見て、さぞとまどったに違いない。国王の警備、つまりSPという仕事柄、年を取ってまで職務をつづけた可能性は大きくない。そのとき、彼らは円満に引退することができただろうか。日本人が殺されたとかそういったネガティブな話は伝わっていないので、引退して隠居生活に入ったか、農作業に従事したか、ともかく平穏な生活を送ったであろうと思う。いつか彼らの日本刀が出土する日が来るかもしれない。

 彼らの墓は跡形もないのだろうか。わたしはベトナム中部の町ホイアンの16世紀のわりあい立派な日本人墓地を一つ一つ訪ね歩いたことがある。墓があるということは、墓を建てた人がいるということであり、墓参りをした人がいたということである。キリシタン侍たちは最後の一人を除いて、十字架の墓が建てられただろうが、残念ながらこのサイクロンの多い地域に生き残ることはなかった。

 一方、ムラウーに、イスラム教の墓地やモスクはどれだけ残っているだろうか。残念ながら、墓地の遺跡は見つかっていない。遺跡としては、唯一、15世紀に建てられたサンティカン・モスクの遺構が残っている。しかし政府やラカイン人仏教徒の間ではこの遺構の存在を認めない動きが出ているようだ。歴史の歪曲には用心しなければならない。


亡命皇子シャー・シュジャ殺害事件 

 
さて、アラカンの歴史上、最大の恥辱の事件といえるシャー・シュジャ殺害が起きるのは、キリシタン侍の時代からそれほどあとではなかった。長寿をまっとうしていたなら、日本人キリシタン侍の誰かはこの大事件を目撃したかもしれない。事の発端はムガル帝国内の骨肉の後継者争いだった

 
皇帝シャー・ジャハンが斃れると、四人の息子、ダラ・シコー、シャー・シュジャ、アウラングゼーブ、ムラド・バクシュの間で壮絶なバトルがはじまった。1657年、シャー・シュジャは自ら戴冠式を行って皇帝を名乗るが、ダラに敗れ、ベンガル、オリッサ、ビハールをかろうじて確保する。しかしアウラングゼーブはダラとの戦いに勝ち、実の兄を処刑した。1659年、アウラングゼーブはシャー・シュジャにも勝ち、シュジャはベンガルに退却した。アウラングゼーブはすかさずミール・ジュムラを将軍に任命し、シュジャを追跡させた。激しい戦いのすえ、シャー・シュジャは敵兵に囲まれたタンダから脱出して、限られた側近だけを連れて(それでも数千人の規模だった)アラカンに亡命した

 
1660年8月、シャー・シュジャの一行はムラウーの宮廷で国王サンダ・トゥダンマの熱烈な歓迎を受けた。このとき国王はシャー・シュジャに、彼と家族のためにメッカ行きの船を調達することを約束した。シュジャはムガル帝国の財宝、すなわちラクダの荷車6台分の金銀財宝を持ってきたので、金銭的にはまったく困っていなかった

 
その後八か月たっても船が用意される様子はなく、それどころか国王はシュジャの娘の一人と結婚したいと言い出したのである。シュジャが断ると、逆切れした国王はシュジャらに、三日以内に出ていくよう命じた

 
しかし彼らはすぐに移動することができず、また市場で食料を買うことさえ拒まれたので、シュジャは仕方なく、地元のムスリムのサポートを得て、二百人の兵士の手勢とともに国王に反旗を翻すことにした。結局、彼の兵士たちは捕らえられ、シュジャと家族は森に逃げ込んだ。しかし逃避行はそれほど長く続かず、捕らえられ、処刑されてしまう。娘たちはみな国王のハーレムに入れられてしまった。三人の息子たちは斬首され、四人の娘たちは餓死させられた、ともいう。金銀財宝はもちろん国王の所有物となった

 
兄の死の知らせを聞いて激怒したのはアウラングゼーブ皇帝その人だった。皇帝は兄を捕えて処刑するつもりでいたが、だからといって隣の小国の王に殺されたとなれば、別問題だった。彼はすぐにアラカンに軍隊を派遣した。ムガル軍はチッタゴンに攻め入り、数千人のアラカン人を捕え、奴隷とした


傭兵部隊はカマンとなる 

 
なおシャー・シュジャとともにやってきた主にパタン人(アフガン人)の傭兵部隊の子孫はカマン、あるいはカマンチと呼ばれ、アラカンのムスリム社会に迎え入れられた。ただ受け入れられただけでなく、貴族のような扱いを受けたという。

 カマン(カマーン)とは、ペルシア語で弓の意味である。射手はペルシア語でカマーンギールだが、別名カマンチと関係するかどうかはわからない。当時のベンガルの宮廷やアラカンの宮廷ではペルシア語が公式言語として採用されていたので、ペルシア語の言葉が使用されることは、十分にありえることである。現在でもなお、たとえば、インドの知識階級の間では、ペルシア語は高貴な言語として敬意を持たれている言語的にもパタン語(パシュトー語)はペルシア語とおなじグループに属していた。

 1690年から1710年にかけて、カマンは実質的なアラカンの王、あるいはキング・メーカーになった。しかし1710年、サンダ・ウィザヤという称号の王位に就いたアラカン・マグ人のマハ・ダバドに制圧されてしまった。彼はカマンをラムリー島やアラカン内のほかの地域に追放した。何千人ものムスリムがビルマ内のほかの地域に逃れた。一部はアヴァに避難した。

 1784年にボードー・パヤー国王(コンバウン朝ビルマ)の軍隊がアラカンに侵攻したあと、都のアマラプラに帰還するとき、ムラウー朝宮廷の護衛をしていた弓のカマン・ムスリム部隊を連れ帰ったという。カマンたちはマハムニブッダ運搬部隊のすぐ後ろについていった。

 彼らカマンはなぜか、ロヒンギャと違って、アラカンの先住民としてミャンマーの市民権を持っている。しかし不幸なことにロヒンギャとともに(混同されて?)虐殺されることがあり、一部は難民となっている。結局はミャンマーの軍事政権や仏教徒の「イスラム嫌い」がもたらした惨劇なのである



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