(5)五人の聖者(パーンチ・ピール)伝説 


船頭や船乗りは五人の聖者を信仰した。シットウェの港 Photo:Mikio Miyamoto


スーフィー伝説はスーフィーがたくさんやってきたことを物語る 

 前章で述べたように、16世紀はじめにアラカンの国王がインドからのイスラーム宣教団に宣教の許可を与えたため、アラカン内のムスリムは一挙に増えた。この時期に改宗した人の大半はインド系であった可能性が大きい。

 宣教団とともにイスラーム信仰を広める大きな役割を果たしたのが、イスラーム・スーフィズム(神秘主義)だった。21世紀においては、スーフィズムは原理主義テロリスト・グループのターゲットとなっているが(パキスタン、インド、アフガニスタン、マリ、エジプトなどで自爆テロの被害を受けた)、非ムスリムにも共感を得やすいからか、新規信者の獲得に役立つことが多かった。とくにヒンドゥー教徒が転向するときには、スーフィズムが仲介した。

 このパーンチ・ピール伝説は、チッタゴンに、さらにはアラカンにやってきて宣教活動をした聖者の伝説である。スーフィーが唱える「神との合一」は、ヒンドゥー教徒にも受け入れやすかった。イスラーム信仰の伝播の裏には、名前も存在も忘れ去られた無数のスーフィーの努力があった。

 パーンチ・ピールを直訳すれば「五人の聖者」である。インド文化圏では、なぜか五人が尊ばれる。仏教の五人のタターガタ(如来。パーンチ・タターガタ)やヒンドゥー教のナート・ヨーギの五人のパンディット(パーンチ・パンディット)もそうだ。

パーンチ・ピールを崇拝する人々、および教団はパーンチ・ピリヤ、その聖廟はパーンチ・ピール・ピリヤ・ダルガーと呼ばれる。

 地方によって異なるが、ベンガルの基本的な五人のピールは、ガズィ・ミヤン(サラル・マスード 1034年に殺害された)、ズィンダ・ガズィ、シャイフ・ファリド、ファジャ・ヒズル、そしてピール・バドゥルである。

 バングラデシュ南部のフェニ川からチッタゴンにかけて、またチッタゴン地区、そしてアラカン(ラカイン)は大きな川だけでなく、小さな川が無数に流れている地域である。当然船頭や船乗りはたくさんいた。彼らの多くはヒンドゥー教徒だったが、次第にイスラム教徒の割合が大きくなっていった。彼らはパーンチ・ピール、とくにピール・バドゥルを船乗りの守護神として崇めた。

 伝説上のピール・バドゥルはフェニ川上流、ティペラ丘陵の森で修業を積んだあと、水に浮く岩に乗ってチッタゴンにやってきた。さらに魚に乗って、彼はアラカンを訪ねている。ピール・バドゥルはチッタゴン・アラカン担当のイスラム教スーフィズムの伝道者だった。船頭・船乗りはいわば多数の改宗が期待できる大票田だった。

 船頭・船乗りたちは出発時につぎの歌をうたう。

われらは子供のようなもの 
われらの守護神はガズィ(ガズィ・ミヤーン)なり 
われらは(五人の聖者がいるので)ガンジス河をも恐れない 
おお、パーンチ・ピールよ、あなたがたをここに呼ぼう 
おお、バドゥルよ、バドゥルよ 

 ピール・バドゥルは五人の聖者のひとり、ヒズルと同一視されることがある。ファジャ・ヒズルもまた魚に乗って(魚はヴィシュヌが転生した魚)旅をすることができた。ヒズルは伝説化の度合いが強く、クルアーン(コーラン)第18章59-81の僕(しもべ)のひとり(アル・ヒズル)と同一人物と考えられることもある。

 村の池や川の畔で開かれるアールティと呼ばれる祭礼のなかで、ヒズルとバドゥルはともに崇拝されている。この祭礼では、彼らに捧げられた灯を載せた草舟が流される。灯篭流しの源流である。この祭礼はヒンドゥー教起源だろうが、ヒンドゥー教徒、ムスリム両者によって行われる。五人の聖者(パーンチ・ピール)も実は両者によって崇拝されてきた。このあたりも、ヒンドゥー教徒が改宗してムスリムになった経緯を表していると思われる。


カプランが見聞きしたチッタゴンのバドゥル崇拝 

 2000年代後半、作家のロバート・D・カプランがバングラデシュのミャンマー国境近くにあるテクナフのロヒンギャ難民キャンプを訪ねるとき、チッタゴンで、バドゥル崇拝を目にした。彼が聞いた話では、アウリヤス(守護人)と呼ばれる12人のスーフィーの聖人が、イスラームの教えを広め、都市の建設に協力するため、はるばるインド洋を越えてやってきた。その代表的なひとりがピール・バドゥル・シャーだった。

 都市から悪霊を取り除くため、石板に乗って漂いながらやってきたのである。バドゥル・シャーは、スパイスや木綿布、宝石、鉱物を持って、アラブと東南アジアの間を幾重もの波のように行き来するアラブ商人のシンボルだった。彼はまた陶器のランプを持っていた。その光であらゆる方向を照らし、悪霊の暗闇を取り除き、船乗りたちを助けるのだった。そのランプの光は近くの丘の上のかがり火と混同されたかもしれない。彼はそこから波止場に入ってくる船乗りたちを助けたのである。いずれにしても彼はベンガル湾東部からはるか南のマレーシアまで、船乗りによって崇拝された。

 この陶器のランプと石板は、チッタゴンの旧要塞エリアに置かれている苔に覆われた聖者の石棺の横に陳列されている。この石棺は美しくも聖なる雰囲気もないのだが、夕方になると信者でごった返した。よごれたルンギーをまとっただけの上半身裸の男たちが、汗と雨水を振りまきながら周囲で踊った。サリーを着た女たちが石の床の上にしゃがみこんで、聖者に祈りを捧げていた。いたるところにロウソクや花があった。まるでヒンドゥー寺院のなかにいるかのようだった。ピール・バドゥル・シャーはヒンドゥー教徒からも、ムスリムからも崇拝されているのだ。町中のほかのスーフィー聖人もまた同様に混同されたまま崇拝されている。思うに、こうした光景はアラカンでも見られたのではないだろうか。ピール・バドゥルを崇拝していたヒンドゥー教徒はいつのまにかムスリムになっていたのである。

 インドでは、イスラーム神秘主義(スーフィズム)とヒンドゥー教神秘主義はよく混同された。中世の詩人カビールは両者から愛され、シルディのサイババもイスラーム教のスーフィーだったが、ヒンドゥー教徒からも崇拝された。イスラーム全般ではないが、スーフィズムとヒンドゥー教は近く、転向にもそれほどの障害はなかった。スーフィズムが宣教の役割を持ったのは、こうした理由からだった。ピール・バドゥルがアラカンに来たという伝説があるのは、たくさんのスーフィーがアラカンにやってきたということである。


実在した伝説的スーフィー 

 実際のピール・バドゥルについてもっと調べてみよう。いや、もちろんこれだって「実在した」という伝説かもしれない。実在した人物をピール・バドゥルと呼んだ可能性もあるだろう。ともかく、その「伝説」は以下の通り。

 ピール・バドゥルことシャイフ・バドゥルッディーン、あるいはピール・バドゥリ・アラムは伝説に包まれた人物だが、1370年頃(?)に生まれた、実在する人物であったと思われる。ウー・チョー・ミン氏は12、3世紀頃に実在したと述べている。ダルガー(聖者廟)が建てられたのはその頃の可能性があるが、バドゥル・ダルガーと呼ばれるようになったのはもう少しあとのことかもしれない。

 ピール・バドゥルの祖先は14世紀には、インドのメーラト(デリーの北東60キロ)に定住していた。祖父のシャイフ・シハブッディーン・ハック・ゴーは、スルターンのムハンマド・ビン・トゥグラクによって処刑されたという。

少年期のバドゥルは、父親とシャイフ・ジャラールッディーン・ブハリによって、イニシエーション(バヤという)を受けた。このように師父から弟子に伝統が受け継がれるのは、仏教やヒンドゥー教のタントリズムと変わりがない。

ピール・バドゥルはシャイフ・シャルフッディーン・ヤフヤ・ムンヤリからの招待を受けて、ビハールへ向かった。しかし彼が当地に着く前に、偉大なるシャイフは死んでいた。彼はビハールのヒンドゥー教の女性と結婚し(註)、ショナルガオン(ダッカ郊外)およびチッタゴンへ向かった。

[註:こういう場合、女性だけでなく家族、あるいは一族みながイスラム教を信仰するようになったということだろう] 

チッタゴンは当時悪霊にとりつかれた地と考えられていたので、そこへ乗り込むのは勇猛で、称賛すべきこととみなされた。「悪霊にとりつかれている」というのは、精霊崇拝がさかんで、イスラム教は十分に定着していなかったということだろうか。彼はチッタゴンで神秘主義(スーフィズム)的イスラム教を布教したのだろう。実践として、彼が四十日間の修業(祈祷と断食)を行ったチッラ(修業用小部屋)は今も残り、巡礼者はここをめざしている。

 14世紀半ば、チッタゴンはスルタンのファフルッディーン・ムバラク・シャー(在位1338-50)に征服されていた。しかしその後、アラカン、トリプラ、ベンガルの王たちの間でめまぐるしく主人が変わった。すなわち、チッタゴンはアラカンの支配下に置かれたことがあるが、つねに置かれていたわけではないということである。

 17世紀の歴史家シハブッディーン・タリシュによれば、チャタゴアン(チッタゴン)はベンガルとアラカンを結ぶ地域である。ジャグディア(フェニ川沿いの町)とチッタゴンの間は荒野だった。ティペラ丘陵地帯の周縁は深い森で覆われ、人は住んでいなかった。フェニ川はこの丘陵地帯から流れ出て、ジャグディアを通って、ベンガル湾に注ぎ込んだ。フェニ川とチッタゴンの間には99の小川が流れていた。

 修業するバドゥルの姿は、チッタゴンとアラカンで多数を占めていた仏教徒とアニミスト的なヒンドゥー教徒に多大な影響を与えた。イスラム教のなかでもスーフィズムは仏教徒、ヒンドゥー教徒にも共感しやすく、ムスリムに転向する人もかなりいたのではないかと思われる。

 ピール・バドゥルはチッタゴン、アラカンでの活動を終えると、ビハールに行き、ジャウンプールのシャルキ朝との関係を確立している。そして1440年に逝去している。バドゥルの廟は小さいほうの廟ということでチョーティ・ダルガーと呼ばれ、シャイフ・シャラフッディーン・ヤフヤ・ムンヤリの廟は大きいほうの廟ということでバリ・ダルガーと呼ばれている。

 ピール・バドゥルの象徴的な墓所は、チッタゴン、アラカン、東ベンガルの河口を向いた場所に建てられた。丘の上にはアスタナ(記念館)が建てられた。参詣者はここで祈祷と断食をおこなった。

 アラカンのアキャブ(シットウェ)にも、1736年、地元の商人マニク・サウダガル、チャンド・サウダガルによって聖者廟(ダルガー)が建てられた。マニクの夢の中にバドゥルが現れると、彼らの船荷のターメリックが黄金に変じていたという。ダルガーが建てられた時期が三百年も遅れていると感じられるかもしれないが、おそらく再建されたのだろう。伝承では、アラカンの各地に聖廟(ダルガー)が建てられていた。

 以上のように、チッタゴン、アラカンではまだ多数派だったインド人ヒンドゥー教徒、仏教徒が1400年頃、スーフィーのピール・バドゥルの伝教活動によって、ムスリムに改宗していく様相がうかがい知れる。スーフィーの習俗にはとくにヒンドゥー教と区別しがたい面があり、改宗するのに抵抗が少なかったかもしれない。現在でも、差別を受ける低カーストのヒンドゥー教徒が差別を嫌ってムスリムに転向することがある。当時、船頭、船乗りはほとんどヒンドゥー教徒だったが、現在はほとんどがムスリムになっている。彼らはみなパーンチ・ピールを崇拝し、彼らを讃える歌を始終口ずさんでいるのである。

 現在、ロヒンギャのコミュニティーからスーフィズムは消えている。スンニー派のデーオバンド派が優勢と見られるが、これはデーオバンド派が半数を占めるバングラデシュと状況的に変わらない。

 

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