(9)1942年に何が起きたのか 

日本軍は虐殺者か救世主か 

 1942年、アラカン(ラカイン)でいったい何が起きたのだろうか。一説には、英国軍に協力的だったムスリム(ロヒンギャ)を日本軍は大量虐殺したという。英文ウィキペディアには「大日本帝国軍はロヒンギャ・ムスリムとインド人ムスリムを拷問し、レイプし、虐殺した」と書かれている。ロヒンギャの死者は四万人以上にものぼったという。日本兵は本当にそんな残虐な行為をしたのだろうか。それとも自分たちの行為を正当化するための戦勝国側の歴史の捏造だろうか。

 ロヒンギャの歴史家ウー・チョー・ミン氏はまったく異なる見方をする。「アラカンのムスリムにとって日本軍の存在はありがたかった。彼らのタイムリーな到来によって、最悪の事態を免れることができたからである。村が安全になり、日本人の管理下で逃げる必要がなくなった」というのである。日本人をも敵に回したくないという現在のロヒンギャの思惑から、日本人の残虐行為を不問に付しているのだろうか。しかし、チョー・ミン氏が取り上げている二人の証言を読む限り、日本軍がムスリムを大量虐殺する動機も必要性もないように思える。

 前述の英国の歴史家モーリス・コリスの著書『ビルマの法廷』(1937)が『ビルマ風雲録』という活劇のタイトルのような題で出版されたのは、1942年2月のことだった。1942年にヤンゴンからアラカンに派遣隊を送り込んだ日本帝国軍の士官たちはこの書を読んだだろうか。この書には、1930年の反インド人暴動の様子が描かれていた。

 1938年には、インド人でもとくにムスリムのインド人に対する暴動が各地に起こった。そのきっかけとなったのは、『モウラウィ(イスラム指導者)とヨーギ(仏教指導者)の論争』という本(フィクション)だった。モウラウィがヨーギを嘲笑したことから、民族意識に火がついたのである。

 作家のウー・バ・サンはつぎのように語っている。

「1938年、ヤンゴンやほかの大きな都市で反イスラム教の暴動が起きた。1942年の暴動もそうやって起きた反乱のひとつだった」

 またライダー博士は述べる。

「1942年についに爆発した。ビルマ独立軍(BIA)の国粋主義プロパガンダによって火が着けられたのだ。彼らは英国植民地の為政者の手先と考えられたインド人の排除を求めた」

 大英帝国の「手先」だった各地のムスリムと違って、アラカンのムスリムの大半は古くから当地に住んでいたのだが、大半の仏教徒ビルマ人にとってはどうでもいいことだった。それとは別に、アラカンのなかで仏教徒とムスリムの宗教対立が起きていたのである。


ムスリムと仏教徒の住み分け 

 証言によると、1942年はじめ、英国ラージプート軍の一部の部隊はアキャブ(シットウェ)とマウンドーに残っていた。暴動が最初に起きたのは(ムラウーの南方の)仏教徒ラカイン人が多いミェボンだった。あくまでインド人ムスリムに対する反発から起きた暴動だった。

 このときアキャブ地区のすべての町に仏教徒ラカイン人の武闘部隊があった。今の言葉でいえばミリシア(民兵組織)に近いだろうか。総司令室はミンビャに置かれた。ボンパウによれば、「リーダーたちはプライドが高く、毎日、自らの手で何百人のムスリムを殺したと自慢していた」という。この無政府状態(英国が去り、日本が来るまで)は三月中旬から五月までつづいた。この時期に、ミェボンからチャウトーまでのムスリムの村のほとんどが焼け落ちた。

 虐殺を免れたムスリムたちは、一斉にアラカン北部のマユ地区をめざした。前述のように、私はダニャワディの丘から川向こうのチャウトーの方を見て、いつの日かマウンテンバイクに乗ってロヒンギャの地域へ行ってみたいと考えた。地図を見る限り、低い山しかなかったからである。しかし実際、その地帯のジャングルの中は細い川や丘陵だらけで、抜けるのは容易ではなかった。しかもこのときは武闘部隊が待ち伏せしていることがあり、ムスリムの集団が全員殺されるということもあった。ウィリアム・スリム陸軍元帥によると、1944年にこの地帯のアパウワ峠を越えるとき、峠道が人骨で塞がれていたため、難儀をしたという。

 ともかく、こうしてアラカン内陸部や南部のムスリムたちのうち、虐殺を免れた者は北部のマユ地区をめざした。ここはもともとムスリムが多かったが、さらにムスリムの人口が増加した。なかには国境を越えてインド側に脱出する者もいたが、彼らは英国が作ったラウンプール難民キャンプに収容された。その数は6万人とも、それよりはるかに多いとも言われる。その後難民は送還されたが、1万3千人の難民は内陸部や南部に帰ることができず、北部のブーティダウン、マウンドー、アキャブに定住することになった。一方、住人のいなくなった家屋や土地は仏教徒ラカイン人が分捕ることになった。こうして現在のように、アラカン(ラカイン)北部はムスリムだらけになり、中・南部は仏教徒ラカイン人だらけになったのである。

 日本軍の派遣隊(インパール作戦にも参加した第33師団の一部)は1942年4月14日にヤンゴンを出発し、困難な地形のアラカン山脈を越えて、苦労の末、5月4日にシットウェに到達し、目的だった飛行場制圧を成し遂げている。いわゆる「1942年の大虐殺」は日本軍が来る前に起こったことだった。扇動したとされるボー・ヤン・アウン率いるBIA(ビルマ独立軍)の部隊はその一か月前にシットウェに達していた。

 日本人司令官はミェボン在住の僧侶サヤドー・ウー・セイン・ダを逮捕した。ムスリムの村々を焼き払い、大量に殺害した武闘部隊の背後に彼がいると考えられたのである。しかしボー・ヤン・アウンが間に入り、処刑を回避した。サヤドー・ウー・セイン・ダは証言者のボンパウとともにずっと前から反英国運動に携わってきたのだった。彼はアウンサン将軍との面会を拒絶するほど我の強い人間だった。

 ミェボンからラテダウンにかけてのムスリムの人口は4、50万人で、アキャブ(シットウェ)地区の人口の半分だった。その4分の1が殺されたという。また人口の半分が家や土地から追い払われることになった。残りの4分の1は、日本人のおかげでそこに居続けるか、元の土地や家に戻ることができた。

 今のところ、日本軍が大量虐殺を行ったようには見えない。アキャブ(シットウェ)に入った部隊の兵士のかなりはインパールで戦死しているので、証言も多くない。まるで2010年代の先駆けとなるような仏教徒によるムスリム虐殺があっただけである。生き残ったムスリムの一部が北部のラカイン人に報復し、それが「ムスリムによるラカイン人の虐殺」として喧伝されているように見える。アラカン北部を追われた仏教徒ラカイン人は、南部のムスリムがいなくなった土地や家を手に入れた。こうして北部にロヒンギャ・ムスリム、南部に仏教徒ラカイン人という住み分けが起こった。また被害を被った一部のムスリムがムジャヒド運動に走っていった。こうして報復合戦は続いていくのである。原則的にムスリムのほうがより抑圧、弾圧されたと言えるだろう。


⇒ つぎ