(16)ロヒンギャがベンガル人であるかどうかは本人たちに聞けばいい 


わたしたちはルーインガです 

 1997年以降、コックス・バザールのウキアやテクナフなどロヒンギャ難民キャンプで文化人類学的フィールド調査をおこなってきたバングラデシュ人の学者ナシル・ウッディーン(チッタゴン大学文化人類学教授)によると、多くのロヒンギャが「アラー・バーリ・ナ、アラー・ルーインガ(Araa baali na, araa rooinga)」、すなわち、「わたしたちはベンガル人じゃない、わたしたちはルーインガ(ロヒンギャ)です」と話したという。彼らは「ルーインガ・ジャティー(ロヒンギャ族)は、自分たちの言葉を話し、自分たちの民族の歴史を、文化を持っているのです。ルーインガ族がベンガル人なんてありえません」と付け加えることがあった。

 外部から見ると判別しがたいが、当人たちは「まったく違う」と考えている。ふるまいや衣服の好みから歩き方まで異なっているという。だからチッタゴン地方の国境に近い難民キャンプの多い地域の現地民からすると、「同族を迎え入れる」という雰囲気にはならない。迎え入れるどころか、ロヒンギャに職を奪われることもあり、世界の同情がロヒンギャに集まり、援助もロヒンギャにもたらされるだけでなく、ロヒンギャの犯罪の被害に遭うこともあった。当然ホストのベンガル人(チッタゴン人)とロヒンギャの間には軋轢が生じることになる。また地元民(ベンガル人)のロヒンギャ差別は、軋轢のせいもあって、激しさを増していった。近年はロヒンギャ難民とベンガル人の軋轢だけでなく、初期の難民とあらたな難民との間の軋轢も顕在化しているという。あたらしい難民だけが援助の恩恵を受けることが多いからである。

 2015年、パサン・パラ村のフィールド調査の受け入れ先の主人(地元ベンガル人)は「ルーインガはベンガル人ではありません。彼らのふるまい、態度、他者との接し方などはベンガル人とは違っています。ことば、語彙、衣服の着方、歩き方までまったく異なっているのです」と話した。

 ナシル・ウッディーンは文化人類学者フレドリック・バルトの「文化的差異による社会組織」という概念を用いてロヒンギャとベンガル人の境界線をあきらかにしようとしているが――このあたりのことはわたしの理解力をはるかに超えているので――両者がともに身内でないことを強調している点に注目したい。はるか昔に分かれたのならともかく、第二次大戦前まで両者がベンガル人と出稼ぎのベンガル人という関係であったとしたら、「すべてが違う」とは言わないはずである。ロヒンギャが不法移民ベンガル人ということはありえないだろう。

 ナシル・ウッディーンが収集した「証言」のなかで、注目すべきは、両者ともロヒンギャをルーインガと呼んでいることである。フランシス・H・ブキャナンが1799年の出版物のなかで用いた名称だが、これがほかの英国人に用いられることはほとんどなく、ブキャナン自身もモハンメダンと呼ぶようになった。英国人はアラカンにかぎらず、どこでもムスリムのことをモハンメダンと呼んだのである。ルーインガがもっともよく日常的に使われる名称であるなら、古い呼称のロヒンギャよりもこちらを正式名称にしてもよかったのではないかと思う。1950年代に統一名称となったロヒンギャだが(ミャンマー政府は閣議決定されたにもかかわらず、現在これを認めていない)、これが新しい名称であるとして、「ロヒンギャなど存在しない」根拠とされる始末だった。それにしてもこれまでなぜだれもロヒンギャ難民に、「自称」についてたずねなかったのだろうか。自称問題の答えはすでに二百数十年前、ブキャナンが出していたのに。


難民と地元民、古参難民と新参難民の軋轢 

 ナシル・ウッディーンが報告している事例に、2011年の地元ベンガル人の青年とロヒンギャ難民の娘(22)の結婚がある。ひとり息子が花嫁を連れてきたとき、父(51)はひどいショックを受ける。ロヒンギャの嫁をもらえば、バンシャ、すなわち家柄が傷つくことになるからである。バンシャを重んじ、たくさんの友人や親戚を招いて盛大な結婚披露宴を開きたかった父親に対し、息子は彼女への愛情を訴えた。実際、ベンガル人がロヒンギャと姻戚関係を結ぶのは、社会的イメージを損ね、汚名を着せられることになるという。結局ふたりは別々に暮らしたとう。ウッディーンは四年後に花嫁に話を聞いている。彼女はふたりの息子を生んだが、依然として夫の父は彼女を受け入れていなかった。しかし夫の妻として彼女はバングラデシュの市民となり、投票権も得ることができたという。ただ彼女の父親(ロヒンギャ)は「娘をベンガル人のもとに嫁がせた」罪を犯したとして、批判され、大衆の前で辱めを受けてきたという。ロヒンギャはベンガル人の間でもひどい差別を受けているのである。

 彼はもうひとつの例を挙げているが、こちらは悲劇に終わっている。テクナフ郡の連合議会の議員であるシラジュル・イスラムは、2014年、ハルン・アルラシドの要求に応じて議会を招集した。話し手(ファリド・ウッディーン)も議会に出席すると、そこに娘のクシュブがいることに驚く。夫だというカリムもいた。娘は六日前から行方不明だった。彼女はカリムと駆け落ちし、夫婦になっていたのである。ハルンは話し手と娘がカリムをそそのかして結婚させたと激しく非難した。結局ふたりは別れさせられ、娘は家に帰ってきた。しかしその夜、彼女は天井のファンにスカーフをくくりつけて、首を吊ってしまったのである。根本的には、ベンガル人のロヒンギャに対する差別があったといえるだろう。

 上述のように、ベンガル人はロヒンギャを「数十年前に労働のため隣接する地域に移住した同胞」とはまったく考えていない。それでも当初はムスリム同胞として、迫害を受ける隣人にシンパシーを感じていた。しかし次第に彼らがベンガル人の職を奪い、土地を占拠し、薪を売るために木を切って森を破壊し、窃盗や強盗などの罪を犯すようになると、地元の人々の堪忍袋の緒が切れることになってしまった。

 ある地元のベンガル人はナシル・ウッディーンにつぎのように述べた。「ボルマヤ(ミャンマー生まれ)のやつら(ロヒンギャ)は、われわれに大きなダメージを与える。彼らに文化というものはない。社会規範も価値観もない。隣人や年配、若者とどうつきあったらいいかわかっていない。強盗、窃盗、強奪といった犯罪はお手の物だ」 

 ミャンマーは「ロヒンギャはベンガル人だ。バングラデシュに帰れ」と言い、バングラデシュは「ロヒンギャはベンガル人ではない」と受け入れに消極的だ。行き場を失ったロヒンギャの一部はさまざまな国に送られ、一部は奴隷となり、一部は乗っていたボートがひっくり返り、海の藻屑になってしまった。

 ロヒンギャ難民内部にも、すなわち早くからやってきたロヒンギャ難民とあらたにやってきたロヒンギャ難民との間に、軋轢が生じるようになった。2016年と2017年の大量難民流入の前の段階で、バングラデシュ政府によって登録され、認定されたロヒンギャは、百万人のうちのわずか3万2千人にすぎなかった。残りの人たちは、未認定の難民のFDMN(強制的に追放されたミャンマー国民)として、生体登録システムの管理下におかれたまま、さまざまな村や移動難民キャンプ、道路脇などで生きてきた。一方、あらたに到着したロヒンギャ難民は、テクナフやウキアなどに建てられた32の仮設難民キャンプに収容された。

 あらたにやってきたロヒンギャ難民と違い、未登録のロヒンギャ難民は多くが無職で、健康状態が悪く、労働者としても搾取されていた。一方登録されたロヒンギャは食べ物が与えられ、ヘルスケア・システムにアクセスすることができ、UNCHRが与えたシェルターに身を寄せることができた。しかし現状のように難民が増え続ければ、これまでのあらたな難民も古い難民の仲間入りをし、優先的に扱われることもなくなるだろう。そして前に述べたように、日本人の5倍以上、バングラデシュ人の約2倍の出生率でロヒンギャ難民の人口は増えているのである。ほとんどの難民が経済的問題をかかえ、識字率も就学率も低いなかでのベビーブームによって、問題解決はますます遠のくばかりだ。

[「補遺7 ルーインガ語、ロヒンギャ語、ラカイン語の比較」参照] 



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