(19) ラカイン・ムスリムの起源 


ロヒンギャはムスリム複合体 

 アラカン(ラカイン)ムスリムはどこかほかの地域からやってきたのだろうか。それとも古くから住んでいたヒンドゥー教徒や仏教徒のインド人がムスリムに改宗したのだろうか。私自身は後者の説を支持している。すでに述べたように、ベンガルにはバラモンが少ない一方でシュードラが多く、彼らがムスリムに改宗することが多かった。そしてアラカンのインド人はベンガルのインド人と多くの点で歴史を共有してきたのである。 

 ハビブ・シディキの考えでは、ロヒンギャ・ムスリムは一つの部族集団が発展してできた民族集団ではなく、異なるいくつもの集団から発展した民族集団である。つまり上記の二つの考え方を混交した複雑な説である。彼はつぎのように述べる。 

 アラカンのムスリムは新しい移民――シャイフ、サイード、カズィ、モッラー、アリム、ファキール、アラブ、ルーミー(テュルク)、ムガル、パタンなど――の融合である。ムラウー朝期以前、あるいは期間中に定住した世界中のさまざまな地域からやってきた人々である。それにはベンガルやインドのさまざまな地域で捕獲された人々(いわゆるコラー)や先住のムスリム(何世紀もの間にイスラームに転向したブーミプトラの子供たち)が含まれる。彼らがロヒンギャ・ムスリムと呼ばれる人々の起源となったのである。それを簡潔に述べるなら、つぎのようになる。

 ロヒンギャ・ムスリムとは、ムスリムに改宗した、あるいはこの地域に定住した、旅行した、スーフィーとしてやってきたムスリム(アラブ人、ペルシア人の商人、交易者を含む)と混ざった地元のカラー(インド系)、アラカンの王位に就いた(亡命先から戻った)ナラメイッラ王とともにやってきたが故郷に戻らなかった兵士たち、望まず捕獲され、奴隷とされた人々、その他アラカンを先祖の地と呼ぶ人々の後裔である。

 そしてハビブ・シディキは付け加える。

 これら土着の人々の改宗は、モザンビークからマラッカまでの沿岸地域で、1400年間の歴史を通じて起こったことと変わらなかった。

 つまりイスラームの波は中東から西方へ沿岸を通じてモザンビークまで伝わり、東方へはインド、ベンガル、そしてマレー半島へと広がったのである。この波はインドネシアの島々をへて、フィリピンのミンダナオ島にまで達している。大局的に見れば、アラカンにイスラーム教が伝播しないわけがないのである。


ミャンマー人やラカイン人にとっての不都合な真実  

 先住民インド人後裔説を唱えてきたのは、ロヒンギャ地区出身のウー・チョー・ミンである。彼の6代前の祖先は1824年の第一次英緬戦争のとき、ムスリム軍に参加し、ビルマ軍とともに大英帝国と戦った。彼はつぎのように述べる。

 ことを複雑にしているのは、今日のロヒンギャがムスリムであることである。すなわち一部はアラブ人やイラン人、インド人が混ざっているだろうが、大半はネイティブの改宗者と考えられるのである。ムスリムに転向したときから、彼らは仏教文明を捨て去った。仏教文化と文明は10世紀以来、そのときからこの地を統治してきた仏教徒ビルマ人に手渡された。それは歴史上の、理にかなった転換点である。

 今日、ロヒンギャがこの隠れた転換点を明るみにしようとすると、既得権を持つ利益集団の利益とぶつかってしまう。この集団はロヒンギャの民族的ルーツを無視し、彼らをインドやベンガルからラカイン人の地に移住してきたムスリムということに仕立て上げようとしているのである。

 こうしてラカインの人々はムスリム、あるいはロヒンギャを貶めようとする。現在においても彼らがミャンマーにおいてロヒンギャからすべての権利を奪おうとしているのは、まさにこういった理由からなのだ。ロヒンギャの市民権をなくしていくことが、反ロヒンギャ・キャンペーンの基礎といえるだろう。2010年、不公平な扱いは残るものの、ロヒンギャに国政選挙参加の権利が与えられるまで、ビルマ(ミャンマー)政府はじつにうまくやってきた。
 

 さらにウー・チョー・ミンは訴える。

 手の中にたっぷりと歴史的材料がある外国の、とくにインドやバングラデシュの歴史学者の方々に謹んでお願いしたい。歴史上の誤解を解き、ロヒンギャを救うためにも、アラカン(ラカイン)の歴史のミッシングリンクを埋める集中研究をしていただきたい。碑文、考古学的出土物などから判ずるに、ロヒンギャだけがアラカンの初期のインド・アーリア人と民族的関係があり、つながっていると思われる。

 一方でムスリムの観点から見ると、ムラウー朝の時期、アラカンの生活のすべてにおいてムスリムが支配的である。一部の西欧の歴史家がアラカンをムスリム国とみなしたのも無理からぬことだった。こうした状況を見るに、一部の人が主張するように、どうしたらロヒンギャがバングラデシュから来た不法移民などと言えるだろうか。この主張がミャンマーや世界の世論をミスリードしてきたのである。
 

 世界の人々だけでなく、ミャンマー人自身も陥りやすい思い込みは、ラカイン(アラカン)はミャンマーの一部だからそこにはミャンマー人が昔から住んでいたに違いない、というものだ。考古学的な出土物や石碑などから、10世紀以前のラカインにはインド・アーリア人の王朝があり、仏教やヒンドゥー教が信仰されていたのはあきらかだ。10世紀から11世紀にかけて、バガンからムラマ(ミャンマー)人が大量にラカインに入ってきて王朝をたて、はじめてビルマ系ラカイン人の国が成立した。もともとインド系の人々が住み、おなじ地に現在インド系の人々が住んでいるときに、後者が前者の子孫であるという説を排除すべきではないだろう。