神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史> 

ウー・チョー・ミン 

アラカンの歴史の流れ 

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 アラカンの歴史はいつ、どのようにはじまったのか。それはこれまでどのように展開してきたのか。このテーマを詳しく見出していくのは容易なわざではない。この論考の目的はディテールにこだわることではなく、既得権益者の悪意あるプロパガンダによって作られたロヒンギャに関するあいまいな印象をすっきりとさせることだった。私はロヒンギャの歴史に対する批判や反論がいかに非論理的で、根拠がないことをつきつめていきたい。われわれはここに過去の歴史の年代記的要約のあらましを提示したい。

 アラカンは自然の障壁、アラカン・ヨーマ(山脈)によってビルマと隔てられた沿海の平原地帯である。SB・カヌンゴ博士は言う。「アラカンはチッタゴン平原とつながっています。記憶にないほど昔からチッタゴン地域とつながりが深かったのです。何世紀もこの二つの地域はおなじ支配下にあったのです」。

 彼はさらに比較を試みる。「アラカンとチッタゴンの関係はノルウェイとスウェーデンの関係のようなものです」。

 キリストが生まれる何世紀も前から人々や文明はチッタゴン地区を通過してアラカンに浸透していった。エミル・フォーシャマーは言う、何世紀にもわたってインドの人々と文明はアラカンまで広がっていき、そこを支配した。場所、山、川、それらはインド人が名付けたのである。たとえば、ゲーサッパ・ナディ(カラダン川)、マラユ・ナディ(マユ川)、イングサナ・ナディ(レイミョー川)、スリマブ・ナディ(ケリ・チャウン)、さらにはダンニャ・ヴァーディ(ダンニャ・ワディ)、ヴェーサリー(ウェータリー)などは当時インド人が名付けたものである。

 外国の学者の意見が正しいことを証明するために、ラカイン出身の学者に査定してもらおう。彼の名はウー・エー・チャン(現在はエー・チャン博士)、ヤンゴン大学歴史学部所属である。彼は記事中につぎのように書いている。

 10世紀以前のすべての碑文はインドの文字によって書かれている。支配者層だけでなく、その臣民までもがそれを用いているのだ。ビルマ語の碑文は10世紀以降にならないと見つからない。たとえば、ダサラザ石の碑文。それは迅速な変化だった。10世紀に短期間のうちに起きた重大な政治的、文化的革命だった。それゆえ現在のラカイン人が10世紀以前の定住者と同一とは言い難いのである。つぎの世代の研究者にあきらかにしてもらいたい重要な問題である。(ウー・エー・チャン 「ラカイン史調査 ラカイン・タサウン年次雑誌 1975―1976」 

ラカイン年代記によるとこれら初期の人々はタベイッタウン、ダニャワディ、ウェータリーといった都をつぎつぎと治めていた。古代の碑文に言及しながらパメラ博士はダンニャ・ワディが6世紀までつづき、都がサンドラ王朝の支配者によってウェータリー(ヴェーサリー)に移されたことを確認した。ウェータリーはビルマ族(のちにラカイン人と呼ばれる)が11世紀はじめに征服されるまでつづいた。ビルマ族は都をピンサに移した。初代国王はケタテインである。ビルマ族の浸透と軍事侵略は10世紀にはじまっていたのに、アラカンが彼らの支配下に置かれるのは11世紀のことだった。

 英植民地時代後期に初期の碑文解読に成功するまでは、アラカンの過去の歴史は霧の中にあった。書き手たちはみなあいまいな、異なる意見を持っていた。一部の書き手はウェータリー王朝の時代を1世紀頃までさかのぼれると考えた。20世紀半ばに古代碑文を読むことに成功したので、異なる書き手の議論を引き起こす意見は淘汰された。ダニャワディの最後の支配者の母体となる人々の姓がサンドラ(チャンドラ)であることがわかった。都はヴェーサリー(ビルマ語でウェータリー)だった。このサンドラ家は11世紀までアラカンを支配していたのである。歴代王朝の記録は8世紀の国王アーナンダ・サンドラによって建てられた石碑――建てた人にちなんでアーナンダ・サンドラ石碑と呼ばれる――に刻まれていた。石碑はラカイン王国の16世紀の国王ミン・バ・ジ・ザバウ・シャーによってウェータリーから都のムラウーへ運ばれた。

 サンドラ王の治世の頃は浮き沈みの多い時期でもあった。不安定、混乱、中央政府不在の時代だったのだ。ときには地元の首長や軍指導者が地域を治めることもあった。パメラによると、6世紀の最後の十年間、ナフ川の向こう側の王子が弱体化した王国を安定させるために力を注いでいる。すなわち、チッタゴン地区のマハーヴィラは、パラプラに都を築いた。このパラプラは、プトレマイオスの記録から、北マウンドーのプルマ村と特定できる。彼の支配力はそこから強まっていった。彼は地元の首長たちを征服し、都はアラカン内部のウェータリーに移った。カヌンゴ博士は「チッタゴンの歴史第1巻 1988年」の冒頭でつぎのように書いている。

 南インドのチョーダ朝や北インドおよび東インドのパーラ朝が代わる代わるチッタゴンを占領した10世紀まで、サンドラ家族がチッタゴンを支配した。サンドラはそこでの統治能力を失った。しかしアラカンのチャンドラ(サンドラ)はまだ力を持っていた。碑文やコインを比較すると、サンドラのアラカンとチッタゴンの間には大いなる類似性があった。おそらく同じ家族のメンバーがそれぞれ異なる都を持った二つの地域を統治したのだろう。

 ラカイン年代記によると、ウェータリー王スラタイン・サンドラは957年、チッタゴンを征服しようとしたが、戦争を起こすこともなく戻ってきた。彼の使命はチョーダ(チョーラ)朝の軍隊を駆逐して、当地でのサンドラ支配を取り戻すことだったのかもしれない。戦争を起こさなかったのには何か理由があったのかもしれない。

 アラカンでのサンドラの命運は風前の灯火だった。チッタゴンから戻ってくるとき、スラタイン・サンドラは激しい片頭痛に見舞われたので、占星術師に相談したところ、ビルマ上部のタガウンに行くべきというアドバイスを受けた。彼はそこに三年暮らした。そこから戻ってくるとき、アラカンの南岸のモー・ティンの近くで彼の艦船はひどい嵐に巻き込まれ、そのなかで彼は身まかったのである。

 ウェータリーは不安定になり、戦いと混乱が勃発した。ラカイン年代記はふたり(
Myo ミョー)つまり父と息子、あるいは叔父と甥、すなわちアムラトゥ(Amrathu)とパイプル(Paipru)が国王であると宣言し、ケトゥリ・タウン(Kethri Taung)を都に定めた。(ここウェータリーにはサンドラの家族の誰かがいたかもしれない) 

 ミョーは二十年近くの間国を治めた。東からピューやシャンがしきりに侵攻し、攻撃してきた。アラカンは絶望的なほど不安定になった。そしてついにサク人(
SakあるいはテクThek)ンガミン・ンガドンが王になり、サンボウェ(Sanbowet)を都とした。彼は東から攻撃をしかけてくるビルマ族の王の臣下となった。ビルマ族はアラカンの不安定な状況をうまく利用したのである。サクによって長年抵抗が続けられたが、ついにビルマ族はアラカン平原を統御するようになった。パメラ・グトマンはつぎのように指摘する。

 アーナンダ・サンドラの北面の石碑が示しているのは、サンドラの家族の系譜の王がいたということである。王はこれらすべての部族の反抗や反乱を抑えていた。彼はウェータリーから助けを求めた。これがサンドラ王の最後のあがきとなった。11世紀はじめ、ビルマ族はアラカンの支配者となった。彼らはそれ以来ずっとアラカンを治め、ラカイン族として知られるようになった。ラカインという名を最初に確認できるのは、12世紀のアヴァの碑文である。

 カヌンゴ博士によると、ラカインという名はビルマ族がつけたものである。現代の用法ではラカインは地域名であり、人々を指す場合はラカイン・ター(Rakhine Thaa)となる。それはサガインのトゥパロンの石碑(12世紀から15世紀)の碑文にはじめて見いだされる。



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