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 国王サンダ・ウィザヤの殺害のあと、状況はさらに悪化した。略奪、殺人、強盗、放火が横行した。ラカインでは権力闘争が根深いものになった。なかにはムスリムの側に立つ者もいた。1737年、ムスリムのスルターン・ラザ・カテラが王位に就いた。しかし在位は長くつづかなかった。すぐに退位したのである。それから国全体でムスリムの反乱が勃発した。ムスリムたちは自分の家族を避難地のパンワ(ラム)に送った。そして彼ら自身はアラカンの政治に(キング・メイカーとして)積極的に参加した。国に法律やルールはなかった。ジャングルの法だけがあった。王は来て、去っていった。支配はいつも長くつづかなかった。飢餓と疫病の波が何度も国に押し寄せた。人々は悪夢を見ているように感じた。

 ダバイン・ジ・タウ・キェ(Dahbaing Gyi Thauk Kye 影響力のある王)はさまざまなやりかたでムスリムに栄誉を授け、彼らを組織化した。ムスリムの助力があり、1772年、彼は国王になった。彼もまた反対派から強い圧力を受けた。ライバルたちは攻撃をやめず、彼は1778年に退位に追い込まれた。そして1782年にラムリー島のマハタムダが国王に就いた。しかし本土の人々は彼を軽蔑した。結果として、ラカインの伝統にのっとって、いわゆる王子たちがアラカンの政治に介入させようとアヴァの「ボードー・パヤー」を招いた。「ボードー・パヤー」は要請にこたえてアラカンに侵攻し、1785年に占領した。ラカインの歴史家によれば2500年前に作られた、西欧の歴史家によれば1800年前に作られたマハムニブッダはアヴァに持ち去られてしまった。一部の人は、マハタムダ王は仏教徒ではなく、ムスリムだったと考えている。だからこそ本土の人々に軽蔑されたのである。最近、ミシガン大学で研究をしているフランスの学者ジャン・ベルリは『ミャンマーのムスリムのビルマ化』のなかでこの現象について詳しく述べている。

 『ボードー・パヤー』はアラカンの四つの地区にそれぞれミョーワン(総督)を任命した。ムスリム関係を担当する特別なミョーワンも任命された。また1807年、ムスリムのための特別な国王令が発布された。それは宗教的裁定にしたがって社会的、宗教的紛争を落ち着かせるためのものだった。こうしたなかムスリムの裁判官(カジ)も任命された。[訳注:カジはイスラム法、すなわちシャリーアの裁判官]今もなおカジの子孫がたくさんいる。英国は何年間もアラカンにはカジのシステムが必要だと主張した。それゆえ現在もアラカンにはカジの村々があり、カジのモスクがいくつか残っている。有名なカジにミンビャのアブドゥル・カリムがいる。敬意を表して金の剣、金のビンロウの箱、金のライムの壺が贈られた(剣はラカインの委員会に持ち去られた)。彼はそれにちなんでシュウェ・ダー・カジと呼ばれた。金のビンロウの箱とライムの壺は今、ひ孫娘、つまりアキャブ国立高等学校の校長タキン・ザイヌッディン(Thakhin Zainuddin)の娘の持ち物である。英領時代後期になって、チャウトー(Kyauk Taw)にはカジ・オベイドゥル・ハク(Qazi Obeidul Haq)ことサイン・ウー・チャイン(Sain Oo Chaing)、ブティダウン(Buthidaung)にはカジ・マクブール・アフメド(Qazi Maqbool Ahmed)ことサイン・ウー・ビン(Sain Oo Byin)、マウンドー(Maung Daw)にはサファル・ムルク・カジ(Safar Mulk Qazi)とアブドゥル・アリ・カジ(Abdul Ali Qazi)といったカジがいた。

 ボードー・パヤーはアラカンを四つの行政区、すなわちアキャブ、ラムリー、サンドウェー、エンに分けた。それぞれを総督(ミョーワン)が統治した。ラムリーの総督はシュウェボーのサヤジ・ウ・ヌで、上記ように1710年にアヴァに逃走した3700人のムスリムの末裔だろう。

 ボードー・パヤーのアラカン占拠のあとすぐ、ラカインは落ち着かず、人々はビルマ人の支配に対し拒絶反応を示し始めた。ビルマ人の統治は残酷で、ひどいものだった。ビルマ人は驚いた。というのもミャンマー王を招いた当の本人が反乱を起こし始めたからだ。反乱が勃発すればするほど国王の統治は残虐さを増した。歴史家が言うには、ミョーワンの態度は硬化し、反乱軍を野蛮な方法で罰した。そのため土地を捨てて逃げる人が増加した。難民と反乱者が大量に発生したことで、ビルマ国王は英国政府と直接対峙することになった。この対峙が最終的に1824年のアングロ・ビルマ戦争(英緬戦争)につながった。この大量発生した難民の内訳は、ムスリムと(ラカインの)仏教徒両方だった。ボンパウ・タ・チョーはアラカンのムスリムを三種に分けている。すなわちベンガルへ逃げた者たち、アラカンに残った者たち、捕虜としてビルマ軍に連れ去られた者たち。1826年に英国がアラカンを占拠したとき、これら難民はアラカンに戻ってきた。RB・スマートが「ビルマ地名辞典アキャブ地区篇」のなかでムスリム帰還者をチッタゴン人としているのは注目すべき点だ。これがロヒンギャ・ムスリムをチッタゴン人として批判する根拠となっているからだ。実際これら帰還者はラカイン人とおなじく正真正銘のアラカン人なのである。特筆すべきは、アンソニー・アーウィン大佐や陸軍元帥ウィリアム・スリムのような戦時年代記作家が、ラカイン人をマグと呼ぶ一方でムスリムをアラカン人と呼んでいることである。

 アラカンの歴史の専門家であるJP・ライダー博士が帰還者について書いている。

 18世紀後半、ミャンマー軍部隊の圧力のもと、何千人ものラカイン人が逃げ出す事態になった。ミャンマーのボードー・パヤー王の軍隊がサイアム(シャム)に侵攻するとき、ミャンマーはラカインに米の供出を強要したのである。そこにはムスリムもいた。彼らはたやすくチッタゴン地区の地元社会に組み込まれた。しかし彼らもまたラカインに帰還したのだと仮定できないはずはないだろう。不幸なことに詳しいことはわかっていないのだが。

 


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