神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史>  

ウー・チョー・ミン 

 

二つの共同体の文化的複合 

 アラビア語の碑文が刻まれた石板がパゴダや寺院の中から見つかっている。ムラウー博物館やアキャブ博物館でその一部を見ることができる。英国植民地時代の考古学局主任のエミル・フォーヒハマーはドワラ・ワディ・ティンで石板を発見している。(エミル・フォーヒハマー 1891

 フォーヒハマーはボーデル・モーカン(図版XL・Ⅱ)を描写しながら、つぎのように述べている。「主要なモスクは図版XL・Ⅲのような仏教寺院の元型となった」。このパゴダはインドのモスクとビルマのとがり屋根小塔寺院をブレンドしたタイプである。(フォーヒハマー 1891

 サンドウェーのパラフラ(Pharahla)について、フォーヒハマーはつぎのように述べる。「それは地元の僧院の様式とモスクのコンビネーションを代表している」。

 15世紀ンカバの硬貨にはペルシア語が刻んである。16世紀半ばまでにはベンガル語、ペルシア語、アラカン語が刻まれるようになった。そして17世紀半ば以降はアラカン語のみになった。(パメラ 2001) ペルシア語の硬貨には国の名前として「ラハミ(Rahami)」が使われている。今日のロハン(Rohang)に近づいている。

 ミン・ソー・モンが(ベンガルから)戻ってきたあと、国は何百年もの間、ベンガル・スルタン国の属国のままだった。国王たちは仏教徒だったが、彼ら自身の名前に加えて、マハメダン(ムスリム)の称号を使った。硬貨はカリマ、すなわち信仰を宣言したムスリムの称号をペルシア語で刻んだ。(パメラ 2001年)

 シッタウン寺院の西面:アーチ型ファサード、ドーム型屋根のストゥーパはムガル帝国以前の東ベンガルのイスラム建築を思い出させる。(パメラ 2001) 

 ムラウー博物館には、ダイングリパット(モスクの廃墟)から出たミフラーブの装飾が保管されている。この石の彫刻はもともとミフラーブ、すなわちモスクの祈りのニッチ(壁龕)を装飾していたものだ。この様式は、東ベンガルのガウルのチョータ・ソーナ・モスクのそれと近いものである。

 カヌンゴ博士は言う。

 

 チッタゴンは政治的にはアラカン(ラカイン)に従属しているが、文化的には、ベンガル人の強力な文化と言語の影響を強く受けているのはアラカンだった。そして多くの有能なベンガル人が政府の高官に指名された。(カヌンゴ 1988) 17世紀のアラカンの国王たちは、ベンガル文学の洗練を助けるよう勇気づけた。そしてベンガル人の作家たちはアラカンで花開いた。

 

 公的な名前、つまりアラカン宮廷の名称はベンガル語かペルシア語だった。たとえばシャー・バンダル、ワズィル、デワン、ラジャー、ラヤ、パルワナ、ナズィル、カディなどである。アラカン国王サンダ・トゥダンマが1666年、ムガールに負けたとき、アラカンの海軍艦隊はムガール軍に捕らわれの身となった。艦隊の名はペルシア語かベンガル語だった。つまりカル、グラブ、ジャンギ、コサ、ジャルバ、バラムのようなロヒンギャ語だった。これら艦隊のベンガル語(ムスリム)の名前からすると、船員たちにもムスリムが含まれていたのだろう。(カヌンゴ 1988) 

 スクマル・セン博士はまさにつぎのように言う。

 

 当時からベンガル語はアラカン宮廷で主要な文化言語として受け入れられていた。というのもアラカンの高官の多くはチッタゴンやほかの隣接する地域から来ていたが、彼らの母語はベンガル語だったのだ。(スクマル・セン博士 1958) 

 

 アラカンの宗教におけるムスリムの文化的影響も驚くべきものだった。英国植民地時代の考古学局チーフのエミル・フォーヒハマーも、アキャブのブッデル・モカン(モスク)を描きながらこう述べている。主要モスクは図版XLⅢの寺院(サンドウェーのアンドウ・チェティ)のように多くの仏教寺院の元型となった。

 サンドウェーのプラフラ・チェティを描きながら彼はそれが地元の僧院とモスクのコンビネーションを代表していると述べている。(訳注:上述)

 アラカン史の専門家、パメラ博士はつぎのように言う。

15、16世紀、アラカンはイスラム世界とヨーロッパから強力な文化的影響を受けていた。それは小寺院や彫像のルネサンス(復興)という結果で現れた。ベンガルの近隣やイスラム支配者に依存するムラウーの支配者は仏教の建築物にもムスリムの影響が見られると考えていた。

ムラウーのシッタウン・パゴダについて描写しながら彼女は述べる。

 16世紀はじめのベンガルの都、ガウルのモスク建築にも同様の影響があった。たとえばラッタン・マスジッドとバラ・ソナ・マスジッドは多数のアーチ様式の正面を持ち、連続したドームによって囲われている。シッタウン寺院はミン・バ・ジ国王(153152)によって建設された。シッタウンの西面のアーチ様式のファサードとドーム型の屋根は東ベンガルのムガール以前のイスラム建築を思い起こさせる。(上述)

 ラッタン・マスジッドはスルタン・ユスーフ・シャーによって1475年に、バラ・ソナ・マスジッドはスルタン・ナサラット・シャーによって1526年に建てられた。(ウー・キン・マウン・ソー 2016

 こうして我々は、シッタウン寺院は早くに建てられたベンガルのモスクを模倣して建てられたと言うことができる。

 こうした歴史的発見から、アラカンで文化的混合が起きていたことがうかがえる。まとめると、アラカンの生活のすべての面でムスリムが関わってくるのは、植民地時代からではなく、歴史以前の遠い昔からのことだったのである。

 全体の歴史を評価するために、ミャンマー支配下(17851824)の短い期間を除いたアラカンは千年以上もの間、チッタゴンとおなじ支配のもとにあった。そのため現在のアラカンの民族、すなわちラカイン、ロヒンギャ、ブルワ、ダイッネ、ムロ、テクといった人々が両方の地域に自由に、束縛されることなく住んでいる。パキスタンとビルマが独立し、民族はそれぞれ住む国の国民となった。ロヒンギャが市民権を得るにおいて、1947年1月7日のカラチでの会合で、アウンサンとアリ・ジナーの間に合意があった。

 ミャンマー側では、この時点では、ロヒンギャを含むすべての民族が政府によって土着の人として受け入れられた。しかしのちには、軍事政権が差別的な政策を取り入れた。ロヒンギャにとっては、チェックのあとにチェック、尋問のあとに尋問、検証のあと検証、作戦のあと作戦、これも不法移民を取り締まるためである。どんな理由からか。それは彼らがムスリムだったからだ。1973年の調査で外国の民族リストに載っていたブルワ族は、ベンガル人、とくに仏教徒のベンガル人とよく似ていた。彼らはアラカンの土着の民族として認められた。なぜなら彼らは仏教徒だったからである。

 アラカン史についての博士論文を書いたパメラ・グトマン博士は『ビルマの失われた王国』の中でつぎのように書いている。

 

 全体として(その地理学上の位置によって)その地域(アラカン)は古代ビルマ仏教の中央の政治システムによって固定された土地に対して、その歴史はユニークだった。そしてベンガルとは持ちつ持たれつの関係という歴史だった。ベンガルとは文化、経済、労働においてごく自然にやりとりがあったのだ。

 

 アウン・アウン・タンは「古代ムラウーにおける定向進化の、異種遺伝子型の都市文化の共存」の中でつぎのように言う。

 

 アラカンの沿岸地域には、繁栄した多民族の、多宗教の人々が集まっていた。両者とも一時的な商業的共同体であり、より恒久的な居住者である。それにはアルメニア人、ポルトガル人、オランダ人、ペルシア人、アラブ人、中国人も含まれる。

 

実際、ラカイン州の歴史は、社会経済学的に、人口統計学的にベンガルと持ちつ持たれつの関係の、またどこかほかの場所、インド、ペルシア、アラブ世界の影響を受けてきた歴史である。(ムシェ・イェガル 1972

年長の歴史家や専門家の言葉から、我々はラカイン州がけっしてラカイン人だけの土地でないという結論を得るに至った。しかしながら現在ラカインの政治家たちはそれと真反対のスタンスをとっているのだ。彼らはラカイン(アラカン)は彼らに属すると主張している、独立後、ラカイン(アラカン)のムスリムの起源を探る調査が何度も行われた。

 こうした検証とムスリムに対する軍事プラス移住のミックスのオペレーションが遂行され、その間に何十万人ものロヒンギャが国から追い出されてしまった。厳しい調査のあとビルマ国民カード、NRCsが発行された。1990年代後半、軍事政権はすべてのNRCsを取り上げたが、いまも国民カードとして法的に有効である。このNRCsはアラカンで、おなじ法のもと、ホワイトカード(一時的な登録カード、TRCs)が取って代わった。2015年、ホワイトカード関連の法を整備し、TRCsを法的に無効にした。いま彼らは言う。「以前NRCsを持っていたロヒンギャは不法移民であり、公的身分証のない人々だ。だから彼らは市民権を持っていないのだ」。ここに問題がある。

 身分証のない状態は何十年も前から慎重に作り出されてきた。ロヒンギャはこの地から駆逐するための陰謀の犠牲者なのである。

 J・ライダー博士はアラカンの歴史についてたくさんの記事や本を書いてきた。彼はラカイン人が大好きな作家である。彼はつぎのように書く。

 

 15世紀から16世紀にかけて、ベンガル人の建築物とベンガル・スルタンの宮廷やムガール王朝政府の洗練されたイスラム式儀礼は、疑いなくアラカンの芸術やエリート文化に大きなインパクトを与えた。

 

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