(8)1942年の虐殺。誰が最大の被害者? 

(一) 

 ラカイン人は、ムスリムが3万人から5万人のラカイン人を殺したと非難する。それは本当だろうか。この告発はまったく根拠がない。このいわゆる暴動は歴史的なできごとである。ロヒンギャの村々では、暦年は目印になる年から何年というふうに計算する。戦後の英国政府も、独立後のミャンマー政府も、このできごとに関して正確な記録を残そうとはしなかった。個人の記録は公正ではないかもしれないし、バランスも悪く、ときには公表するのがむつかしかった。

 ムスリムの記録はラカイン人の利害に反し、ラカイン人の記録はムスリムの利害に反した。結局ロヒンギャと敵対する人々の論拠に対抗するため、暴動期に活動的だったふたりのラカイン人リーダーの著作を選んだ。これらの記録から、だれが攻撃者で、だれが犠牲者で、だれがもっともたくさんのものを失ったか、だれに地域暴力の矛先が向かっていたか、そのヒントを得ることができる。

 当時軍人だったウー・バ・サンは言う。ビルマ人の反インド人運動が巻き起こっていたが、これはそのひとつであると。最近の愛国作家であるウー・キン・マウン・ソーはつぎのように書く。「1938年、ヤンゴンやほかの大きな都市で、反イスラム教の暴動が起きた。1942年の暴動も、そうやって起きた一連の反乱のひとつだった」

 ライダー博士はつぎのように書く。「共同体の緊張の高まりから二年たって、1942年についに爆発した。あきらかにビルマ独立軍の国粋主義プロパガンダによって火が着けられたものだ。彼らは英国植民地の為政者の手先と考えられていたインド人の排除を求めていた」(ライダー 2014)。つまり、1942年の暴動も、現在非難されているように、ムスリムによってはじめられたものでなかったのは明白である。

 私が選んだふたりのリーダーは、「ナイン・ンガン・ゴンリ賞」と「ル・ラレ・モー・ウィン賞」の受賞者である。彼らの著作が、ロヒンギャと敵対する人々によって起こされた非難に対する満足いく解答になっていることを願う。彼らは注意深く、ムスリムの犠牲者と喪失について論じることを抑制しているが、暴動のいくつかの秘密をあかるみにしている。しかしながら彼らの著作を読むと、現在ロヒンギャを批判している人々が彼らの意見を少し軌道修正し、実際に起きたことを受け入れることができる。

 今日のラカイン人作家や政治家によって1942年のムスリムによる虐殺のことが語られるが、それがいかに間違っていて、バイアスがかかっているかがわかる。2011年11月13日の「ラカイン文化と文学協会」では、ムスリムに対する暴力の非難が声明として出された。批判者が言うには、ムスリムは退却する英国のラジプート軍から武器を得て、北部における暴動を開始した。私が選んだリーダーたちは、ボンパウ・タ・チョーとウー・バ・サンである。彼らは当時の政治的リーダーだった。彼らが言うには、1942年前半、英国軍の最後の部隊がアキャブとマウンドーに残っていた。しかし暴動が起きたのは南部の町ミェボンだったという。そこからほかの町へと広がったのである。(ボンパウ 
1973

 何万人ものラカイン人がロヒンギャによって殺されたという訴えを示すようなものは、彼らの証言の中にはいっさい見つかっていない。

 もしムスリムが英国の部隊、ラジプート軍のサポートを受けていたら、暴動は彼らが存在感を持つ町から始まっていただろう。しかし実際、ボンパウやウー・バ・サンが指摘するように、南の町ミェボンから始まった。そこは当時ラカイン人の多い地域であり、英国はすでに完全にそこから引き揚げていた。

 ボンパウが言うには、1942年初めは正当な政府の存在がない一方で、アキャブ地区のすべての町に武闘部隊があった。アキャブには当時九つの町があった。この武闘部隊を作ったのは誰であるか、彼は言えなかった。彼に言えたのは、自由気ままに荒らしまくり、略奪し、ムスリムを殺しまくる武闘ギャングを制御することができなかったということである。ミンビャの町が武闘部隊の司令室になった。ボンパウによれば、ギャングのリーダーたちはプライドが高く、毎日自らの手で何百人もムスリムを殺したことを自慢していたという。(ボンパウ 
1973) 

 ここで分析を試みたい。ひとりのリーダーが数百人殺せるなら、数十人のリーダーはこの地域で一日数千人殺せるということではないか。そして彼らに追随する者たちの行為はどうだろうか。この無政府状態は三月中旬から五月までつづいた。この長い期間にどんな人が殺されたか、想像することができる。ミェボンからチャウトーまで、ほとんどのムスリムの村は焼け落ちた。所有物は根こそぎ略奪された。対照的に、上述の「ラカイン文化と文学協会」はムスリムに殺人と略奪の罪を着せるために、プロパガンダそのものを作っていた。アラカン内陸部の何百万エーカーの農地と何百もの村々がロヒンギャによって奪い去られたって? 土地所有の比率は、独立後、逆転されたというのに。(ウー・ミョー・ミン博士 2013) 

 ボンパウは言う、英国が撤退したとき、アラカンの行政権を警察署長ウー・チョー・カインに手渡したと。しかし彼の警察部隊は法と秩序を遂行することができなかった。実質的な力を持っていたのは武闘部隊という名のギャングだった。ボンパウは言う、ウー・チョー・カインはオートバイに乗って街中を視察してまわった。しかし彼は一日中酒を飲んでいた。彼はひどい男だった。彼は法と秩序の状況を改善しようとはしなかった。ボンパウは言う、彼は武闘グループに、集団同士の戦いはやめるように、かわりに共通の敵、英国と戦うようにと頼んだ。長い間、辛抱強く、根気よく説得した甲斐があって、一部のギャングのリーダーたちは、部下といっしょに、本部長がバックアップする短期間の軍事訓練を受けることを了承した。(ボンパウ 1973) 

 チャウピューやサンドウェー地区を除くアラカン中央部や南部のすべての町で、こうしたことが起こっていた。暴動が起きていないとすれば、ムスリムが少数の地域だったからである。ボンパウとウー・バ・サンは、ムスリム側からの挑発的な、攻撃的な行為には言及しなかった。彼らはムスリム側からのレジスタンスの行為には触れていないのだ。おそらくムスリムは武器を持たず、準備もできていなかった。自分たちが虐殺の犠牲者になるとは、まったく予期していなかったのだろう。大量殺戮の犠牲になったムスリムの人々は、国の北部へと逃げ始めた。そこではムスリムが多数派だったのである。

 ウー・バ・サンは記す、ムスリムはアラカン内陸部で報復することはなかった、と。なぜなら彼らはそこでは少数派だったからである。北に到達したとき、彼らははじめて仕返しをしたのである。(ウー・バ・サン 1996

 逃亡する犠牲者にとって、北の安息の地へのルートは確立されたものではなかった。というより道路も抜け道もなかったのである。北西部のチャウトーからブーティダウンまでのエリアは深い野生の森のなかだった。森は40平方マイルもの広さを覆っていた。この森は並行して走るいくつもの山脈や川と交差した。最悪なのは、この逃走するムスリム集団は自由に逃げることが許されていなかったことだ。多くの場合、途中でラカイン人の武闘部隊に阻止された。逃げていたムスリムの集団が全員殺されたケースもあった。この見解は陸軍元帥ウィリアム・スリムの言葉によって確かめることができる。スリム元帥は自著のなかでつぎのように語る。

  我々は1944年(騒乱から二年)、ラテダウン、ブーティダウン側からチャウトーへ越えるアパウワ峠でたいへんな困難に直面した。なぜなら峠道は人間の骨で塞がれていたからである。(FW・スリム参照) 

 当時行政権を握っていた警察署長、ウー・チョー・カインは、ブーティダウンからシットウェに戻る途中、ムスリムの待ち伏せにあい、殺された。ムスリムが言うには、彼の指揮下にあった警察本部から、武器と弾薬をラカインへ供給しようとしていた。ムスリムからすれば、人と物質の損失の最大の責任者は彼だった。だから彼が査察の旅から戻るとき、ブーティダウンでラカインに必要な人と物資を勝手に持ち帰ろうとしているのではないかと彼らは考えた。ボンパウとウー・バ・サンは内陸部のラカイン人の犠牲者については言及していない。ふたりともアキャブのムスリムだけが、その年の前半、ラジプート軍の助けを借りて、ラカイン人に行き過ぎた行為をしたと述べている。実際のところ、ラカイン人作家は誇張しすぎるきらいがある。

 アラカン内陸部の虐殺を逃れたムスリムたちはあわてて北部に逃げ込んだ。命の危険を顧みず、何千人もの人々がジャングルを通ってマユ地域に到達した。一部の人たちはそこにとどまり、一部の人たちは国境を越えてインド領内に入った。そこでは英国政府が「ラウンプール」難民キャンプで彼らを保護してくれた。モシェ・イェガルはその数6万人としている。ムスリムはそれ以上の難民が出たと考えている。戦争が終わると、戦後のミャンマー政府は、両国政府の協力によって難民を送還させている。モシェ・イェガルは言う。

 なおも1万3千人の難民が帰還を許されなかった。ムスリムの帰還者はもと住んでいたアラカン中央部や南部に戻ることができなかった。彼らはアキャブ、ブーティダウン、マウンドーに定住するしかなかった。このようにムスリムが放棄した何百もの村々と所有していた土地を、ミェボン、ミンビャ、パウトー、プンナチュン、チャウトー、ムラウー、ラテダウンのラカイン人およびその共同体が占領した。これらはのちのムジャヒド運動が起こる原因のひとつとなった。(モシェ・イェガル 1972

 

⇒ つぎ