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 アヴァに滞在した英国の外交官、フランシス・H・ブキャナン博士は『ビルマ帝国で話されるいくつかの言語の語彙の研究』のなかでつぎのように述べている。

 ビルマの言語には四つの方言がある。すなわちビルマ方言、アラカン方言、ヨー方言、タナンセリン方言である。

 (アラカンの言語に関して)これはムハンマダン(イスラム教徒)が話す言語である。彼らは長くアラカンに居住し、自分たちをルーインガ(Rooinga)、あるいはアラカンの現地民と呼ぶ。アラカンの現地民のマグ人(Mugs)は自分たちをヤケイン(Yakein)と呼ぶ。この名前はビルマ人から与えられたものだ。

 アラカンに居住したヒンドゥー教徒は、ロッサウン(Rossawn)と呼ばれた。(Asiatic Research 1799 

 もう一つ重要な点がある。ブキャナンは1799年にロヒンギャに言及しているが、彼はロヒンギャについて記した唯一の人間でも、最初の人間でもないことだ。偏向した歴史家たちによってここが脚光を浴びているだけの話である。上述のようにロヒンギャという言葉は16世紀から17世紀前半のベンガルの歴史的著作物には頻繁に出てくるのだ。

 パメラ・グトマン博士は『古代アラカン』(1976)の中で次のように説明する。「今日でもなお、アラカン北部の人々、とくにバングラデシュ国境に近い人々は古代碑文とおなじ言葉を話す」と。サインダン(Saingdan)、ブーティダウンに近いドゥダン(Dudan)に住む人々は、カーレー(Khaale)と呼ばれる碑文の言語を水の流れのようにすらすらと話すと彼女は述べている。英国考古学者ジョン・ストンやパメラ・グトマン博士、(アラカン人)ウー・サン・タ・アウンらによって転写されたマハムニ碑文と古代アーナンダ・サンドラ石碑の碑文の文は、ラカインの人々の言葉ではなく、現在のロヒンギャの言葉によく似ていた。それはロヒンギャのルーツが古代碑文の人々であることを示している。どうやったらわれわれは「ロヒンギャは古くからアラカンにいる人々である。既得権益のある人々に描かれたような英植民地時代の移民ではない」と判断することができるだろうか。歴史家によると、英植民地時代のアラカンへの移民は季節労働者である。季節が終わると、彼らは家路につく。

 結論として、欧米人は最終的にベンガルでロシャン(Roshang)とかロハン(Rohang)と呼ばれるこの地を「アラカン」と呼んだ。ロハンという言葉から、そこに住む人を表わすのにインド語的な接尾語が付いてロハンギャとなり、それがロヒンギャに変化したのではなかろうか。

 ロヒンギャという言葉は今もなお論争の的である。ラカインの人々は、以前、ロヒンギャという言葉は歴史のどこにも見当たらないと主張していた。それは独立後の、まさに上述の、あるいはその他の証拠が出され、ロヒンギャという言葉が脚光を浴びたとき、ベンガル人政治家が作りだしたものであると。彼らはそれを否定することができない。いま、一部のラカインの政治家や歴史家、たとえばエー・チャン博士、ウー・キン・マウン・ソーらは、ベンガル人が言及しているロヒンギャは、ラカインの人々の名前(族名)であるという新しい歴史を作っている。何という盲目的な主張だろうか。今日まで彼ら(ラカイン人)をロヒンギャの名で呼ぶベンガル人も、ロヒンギャもいない。彼らはマグ(Mug)と呼ばれている。ベンガル人はビルマ語のラカインの発音ができない。バングラデシュの公式文書にはラカイン人はマグ、あるいはムラマ(Mrama)として登録されている。

 

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