シャンバラの原理 

2 シャンバラ原理 

 

 ずいぶん若いときから、心の奥底で、人生における私の役割がサキョンであることはわかっていましたが、ひとたび父親がそれを公式に認めると、サキョンが何を意味するか確信が持てなくなってしまいました。サキョンは何をするのだとたずねたとき、父はこたえました。

「サキョンの役目は人々に、自分自身の基本的な善性をめざめさせることだ」

 それだけ? そう私は思いました。サキョンであることはそんなに単純なものではないはずでは? 人は基本的に善であるとは、どういうことなのだろうか。もしそれが真実なら、なぜこんなにたくさんの苦悩があるのだろうか。これは公案、ひどく考えさせるものです。当時は、父が教えてくれたことの簡潔性と複雑性を理解すること、そして体験することを追い求めて、つぎの35年間を費やすことになるとは想像もしませんでした。

 父は私の学習が彼の後半生の教育を反映したものになることを期待していました。東洋と西洋の均衡の上に成り立つような教育です。私は仏教哲学とタントラの教えを学びながら、深い奥義の智慧をもった霊的な伝統を受け継いできました。また何年も私は、西欧の思考、哲学、政治、経済とともに詩学や文学を学んできました。アーチェリーや騎馬精神、格闘技なども習いました。

 このように私の教育というのは古典的であり、現代的でもあったのです。加えて、アジア、西欧の双方で瞑想や黙想を実践してきました。トレーニングや実践からわかったのは、学ぶことそのものからは、智慧が導き出されないことです。むしろ自己反省することによって、学んだことを自分のものとし、日々の生活で試すこと、そして結果として出てきたものをよく反省することが必要なのです。

 父は偉大なる人間性の信奉者でした。東洋と西洋の両方において彼は自分が得た知識を統合しようとしていました。そのためにブッダの教えだけでなく、プラトン、アリストテレス、イエス、ユダヤ教やイスラム教の教え、中国の偉大な知性である老子や孔子までも理解し、比較したのです。

 彼はとりわけインドの偉大な支配者アショカ、禅宗の道元、日本の聖徳太子を尊敬していました。これらの伝統にはさまざまなものがありますが、それぞれ小さくして、凝縮し、2つのシンプルな考えにまとめることができます。それは、人間性は善であること、そして善良であるのは社会の本性であることでした。

 学んでは反省し、私の理解の仕方も大きく変化しはじめました。シャンバラの原理は根本的な普遍のテーマなのです。人間の思考が明確な、あるいはそれほど明確でない、たて糸、横糸によって編まれているとすると、そこに存在しているのです。この普遍性はどこか特定の教えの伝統のなかを流れているというのではありません、むしろすべての教えの伝統のなかの核なのです。それは私たちが作り出した何かではありません。私たちが発見した何かなのです。

 シャンバラという言葉の意味は、「幸福の源泉」です。すでに述べたように、それは中央アジアの王国の名前です。それはシャングリラとしても知られています。それは紀元前5世紀に存在していたのです。古代の仏典にしばしば「北のシャンバラ」として言及されています。私の父にとって、シャンバラは勇気と善性の原理と同義語でした。

 シャンバラの伝説によれば、それは地上に本当に存在していました。シャンバラの国民は基本的に善であるという深い理解があったので、覚醒に到達することができました。伝説はまた、そのとき王国全体が物質的世界の束縛を超越したと述べています。ある人々は、王国はいまも存在すると信じています。それはわれわれの感覚ではとらえることのできない次元にあるのです。

 シャンバラはオリエント(東洋)の西にあり、オクシデント(西洋)の東にあったといわれます。アジア、ヨーロッパ、アラブの世界が交わるところに位置していたのです。このように地理学的にみてもシャンバラがあるのは普遍性のある場所なのです。シャンバラの国民は発展したテクノロジーをもち、驚くほどの知性に恵まれているといわれます。

 目覚めた社会を創るために、彼らは善性を呼び起こし、それを日々の生活のなかに生かし、それは彼らが順番に目覚めていくのを助けました。彼らは互いの関係にも気づかいと慈しみを忘れませんでした。そしてそうすることによって質を高めていったのです。彼らは人間性が本来智慧をもっているという共同体の信仰から湧き起こってくるのです。それゆえ父は伝説からインスピレーションを得たのです。これら大文化が交わるところで、善性の精神が賞賛され、祝われました。それは人間の覚醒と文化の達成のいい見本でした。

 シャンバラはたんなる場所ではありません。それは霊的な道でもあるのです。ときには「世界の道」と呼ばれますが、それは基本的な善性に確信をもつことによって、世界とくつろいですごすことができ、その聖なる本質を見ることができるからです。通常の意味において、何かを評価するとき、私たちは自分をくつろがせ、それを受け入れるものです。

 父はシャンバラを見たとき、瞑想の能力を示していました。そのような純粋な感覚でもって、彼は個人や社会が目覚めていることが見えたのです。今日の新聞の見出しをもとに考えると、私たちはそんなふうに想像することすらできないかもしれません。しかし社会を目覚めたものとして見ることは、実践的なアプローチなのです。なぜならこの世界のほかになく、私たちはそこから逃げ出すことはできないからです。

 同時に言えるのは、覚醒した社会はユートピアではないということです。われわれが見ることができること、ありのままであること、よりよい何かになれるという幻想をすてること、それだけの勇気をもつことができる場所なのです。そうしたとき、地上に自分自身の善性を発見することは、評価したり驚いたりしたりする演習となるのです。ゆっくりと自己反省し、自分たちの価値を感じ、それにたいする確信を感じる。それが空間を作るのです。それからどちらの道に進んだらいいか、実際の知性によって知るのです。

 しかしながら表面だけの愉悦で、あるいは恐怖ですやすやと眠っているほとんどの私たちは、基本的な善性に確信がもてません。しかし日々の生活は挑戦的なのです。人間性の本性は悪であると考える機会だらけです。自己反省の実践のとき、私たちはたずねます、どう感じる? と。自分の心を見たとき、私たちは何を発見するでしょうか。どんなに人生が困難で苦痛であろうとも、基本的な善性は条件によってなくなるものではありません。それは変わることがないのです。

 障害になるものがあらわれ、なにかに挑戦する必要が出てくるかもしれませんが、目覚めたものから目覚めを差し引くことはできないのです。もし私たちが善性を感じることができたなら、困難な時期でも、社会が崩壊することはなく、むしろさらに強くなるのです。

 社会の輝きのプロセスについてはすでに述べました。シャンバラがいかに覚醒した社会になったか賢明に説明しました。シャンバラの最初の国王、「よき月」ことダワ・サンポはブッダのところへ行き、智慧を強烈に要求しました。それで王国を手放すことなく覚醒を得たのです。ダワ・サンポは言いました。

「多くの果たすべき責任があるので、寺院で個人の覚醒を探すようなぜいたくを楽しむことはできません。日々の生活の中で、自分自身、家臣、王国に、調和と平和をもたらす霊的な教えをいただけないでしょうか」

 ブッダは霊的な道だけでなく、社会の役に立つような教えを提供できるとこたえました。ただしたいへん力のある個人だけがそれが可能だというのです。しかしダワ・サンポの決意は固かったので、ブッダ自身が教えを授けました。ダワ・サンポはそれをよく理解していました。それから彼は人に教えるためにシャンバラにもどりました。当時、国内で紛争がありました。しかしダワ・サンポが教え始めると、王国全体が善良さのもとで統一されました。ひとたび人々の中の善性に目覚めたなら、社会は自然に覚醒するのです。

 社会的にも、政治的にも世界はシャンバラの光を必要としています。考えてみてください。もし私たちがみな、自分たちは善良だ、社会は善良だと感じ始めたら。そして私たちのやりかたに確信がもてるようになったら。西欧で教えていると、人々は自己嫌悪や自己攻撃のことばかり話しています。それは無価値の感覚からきています。世界は邪悪なことばかりのようで、多くの人は人間性にたいして懐疑心をもっています。

 家でも、学校でも、教会でも、私たちは生まれたときからまちがっている、不完全だと教えられます。価値があることを感じることなく、人間社会やコミュニケーションは自然とごまかしや欺瞞の手段となっているのです。そしてすべての活動を自分たちを高めるために、あるいはだれかをしのぐために使っているのです。このまちがった力の使い方によって、人生はいつまでも疑惑を生みだしつづけます。それは私たちの感覚が不適当であることをたしかめ、疎外感を増すだけのことなのです。

 父はそれを「没する太陽」と呼びました。この言葉は、一日の終わりの太陽の光のように、人間性の威厳と目的の感覚が弱まっていることを指しています。没しているのは、善性を認識するわれわれの能力なのです。

 人間性を生きのびさせるためには、それだけでなく花開かせるためには、智慧を見つけ、光り輝かせるだけの勇敢さが必要です。私たちは決めつけていることをもう一度見直し、覆いを取り外さなければなりません。私たちは人間性について考えたことがなかったかもしれませんが、グローバルな共同体として、前に進むためにいま動くことこそ肝要なのです。

 恐がったり、攻撃的であったりすることは本当に私たちの本性なのでしょうか。私たちは本当におとなしく、心から怖がらずにいられるでしょうか。ストレスや不安のもとで、平和でいられるでしょうか。もし自己反省してその傾向が見て取れるようなら、そこの集中していた力を抜いて、あえて運命をシフトすることができるでしょうか。このようにシャンバラの原理は、人間性に関する混乱が、人間が価値ある生き物であることの確信に変わるような、社会的な変容のプロセスなのです。

 私たちは多くの分野で、グローバルなリーダーシップが必要とされる世界に生きています。前衛に立つために、ここにあることの目的が本当の平和を生み出すことであると理解する必要があります。必要なのは混乱ではなく、智慧なのです。もっとも智慧深いのは、私たちの本性を理解し、磨くことなのです。最初の一歩を踏み出しましょう、勇気に智慧を混ぜて。

 父がそう感じたように、スピードと憂鬱と科学技術万能の時代に、そのような微妙な感情を体験するのは容易ではありません。しかしつねに私たちはここにいるのです。それでも疑問は消えないかもしれません。

「なぜ私たちはみな人間性が善であることを疑うのか」