シャンバラを探して 

チャールズ・アレン 宮本神酒男訳 

 

 ジェームズ・ヒルトンが隠されたパラダイスに「シャングリ・ラ」すなわち「雪の多い山の峠」と名付けたのは、まったくもって彼自身の考えであり、その背後に何かがあるというわけではなかった。そのインスピレーションは、チベットの伝説からもたらされていた。シャンバラの地として知られるヒマラヤ山脈の向こう側に隠された王国の言い伝えである。

 シャンバラ伝説は19世紀の著名なチベット学者アレクサンドル・チョマ・ド・ケレシュによって紹介された。それを取り上げ、広く拡散したのが、神智学運動の創始者、ロシア人神秘家でペテン師のブラヴァツキー夫人だった。著書『シークレット・ドクトリン』(1888)のなかで彼女は、チベットで神秘家の秘密の同胞団に加入するための秘儀儀礼を受けたと主張していた。

彼女の神智哲学を熱狂的に支持したのがアニー・ベサントである(古代の智慧 1897)。彼女は奥深い山中の僧院で修行する全知の尊敬すべきラマや苦行者といったチベットの一般的イメージを創り出すのに一役買った。

「この地には不徳や邪悪の兆しさえ見えない。戦争や敵という言葉すら知られていない」

 じつに社会が発展しているので、それは究極の覚醒に向って進化していく。人間の目からは見えなくなり、霊的な平行世界を動くようになる。シャンバラへ通じる隠された隙間は存在するが、それを見つけることができるのは純粋な心を持った人だけである。彼らだけがこの隠された天国へ行くことができる。シャンバラはいつも求められるゴールである。それは天界の王国へと通じる入り口でもあるからだ。それはまた世界軸とつながっているので、シャンバラは天界の勢力を動かす手段となる。それは死すべき運命のわれわれが住むこの世界に影響力をもっているのだ。このようにシャンバラの国王は人間世界を見つづけ、自己破壊しないよう人間性を守ろうと干渉してくることがある。伝説が言うには、この暗黒の時代、カリ・ユガのサイクルが終わるとき、人類は物質主義的になっていき、苦悩が増えるなか、時代は幕引きを迎える。邪悪な勢力はシャンバラ侵攻の道を探り、最後の国王は王国を守るため介入せざるをえなくなる。彼はこの究極的終末戦争において「目覚め」の敵と戦うことになる。

 シャンバラ伝説は覚醒の敵を認識するだけではない。来たる終末の正確な時間と場所を提供してくれる。

 

 「ニドルジェ(木・猿)」の年(625年)、メカ(メッカ)の国でダルデンという名の教師が新しい宗教を創始し、ラロの教え(イスラム教)を広めた。たくさんの非仏教徒がラロの宗教を帰依し、たくさんの仏教寺院を破壊した。ラロの宗教は千年つづくだろうと説明される。将来たくさんの民族が軍に加わるだろう。「ドンガク・火・猿」の年(2327年)、反・神の化身と考えられるラロの王が、インド西部のティリ(Tri-li)と呼ばれる場所に軍を集めるだろう。彼はシータ河(ツァンポ・ブラフマプトラ川)の南のインド中央部とチベットすべてと世界の半分を支配するだろう。彼は誇り高く、狂人のように、野生の象のように支配し、ラロの家臣たちもこの王以上に強い者は地上にはいないだろうと感じるようになる。こうして彼らは軍を率いてシャンバラへと向かっていく。

 そしてインド側のシータ河の岸で、ラロとの激烈な戦いがはじまる。25代目の四姓の主、ダクポ・コロチェンがシャンバラの黄金の獅子に支えられた玉座に登る。彼はラロの王を刺し殺し、ラロの反・神の軍隊も同様に12神の軍に敗れるだろう。そしてインドからはじまり、時計回りにほかの土地も四姓の主によって統治されるだろう。ブッダの教えは大いに花開くだろう。人間の寿命は延びて1800年に達するだろう。そして新しい時代がはじまる。

 

 シャンバラがどういうものであるか、チベットでは何世紀にもわたって論議されてきた。物語はチベットから出てくるものの、伝説の起源はカーラチャクラ・タントラ、すなわち時間の糸の輪と呼ばれる準・魔術的・宗教的教えに遡ることができた。カーラチャクラ・タントラは、マハーヤーナの教えの最高位のレベル(無上ヨーガ・タントラ)に属している。手短に言えば、それは突貫的な神秘的瞑想の実践を提供してくれる。人生いっぱいでなく、何年かの実践によって覚醒を得ることができうるというわけである。

 チベットの文献によれば、カーラチャクラ・タントラはインドで最初に登場してから60年後にチベットにもたらされたという。インドにそれをもたらしたのはチルパという若い男だった。966年、このチルパは何も宣言せず、知られることもなく、ビハールの偉大なる仏教センターのナーランダの門に着いた。そして正門にカーラチャクラの大宇宙小宇宙の神秘的な印を残した。彼はインドのはるか北方にあるシャンバラから来たと主張した。ナーランダの学長は偉大なる学者ナーローパだった。彼はチルパとカーラチャクラの教義について論議し、敗れ、この新しい教えを受け入れることにした。彼は多くの弟子のこの教えを伝授し、そのうちのひとりが1026年、チベットに入って教えを広めた。時輪は12年の動物のサイクルを取り入れていた。それはウサギ、竜、蛇、馬、羊、猿、豚、ネズミ、牛、虎である。それはチベットにはじめて採りいれられた、時間のサイクルだった。ナーローパはそれに5つの要素、地、気、火、水、木を加えたとされる。彼はこれをアティーシャに伝授した。彼はのちにチベットにやってきてこれを紹介した。

 カーラチャクラの教えが今日まで絶えることなく、グルから弟子への強固な法統によって受け継がれたのは、ナーローパの数人の弟子がはじまりだった。14世紀にはガンデン寺の創建者で、ダライラマ、パンチェンラマ両者の教師でもあった偉大なる高僧ツォンカパによって、これらいくつかの法統がひとつに統合された。そしてこれはゲルク派の核となる教えとなり、ふたりの転生ラマのもと、パワーと資産を蓄えることによってチベット仏教の中心的存在となり、正統な権威をもつようになった。

 チルパは謎の多い人物である。彼がだれなのか、どこから来たのか、われわれは知らないのだ。彼はガルワル出身のシヴァ派のヨーギではないかと論じられてきた。というのも「シャンバラ」は「幸福の源によって保たれた」という意味であり、「幸福の源」はシヴァ神、すなわちヨーギのタントラの神を表わすごく一般的なヒンドゥー教の同意語なのである。

 ほかの教派は、シャンバラをベユルと呼ばれるヒマラヤの隠された安住の地の民間信仰と結びつける。21の隠された地があるという。これらはすべてタントラ大師パドマサンバヴァ(チベットではグル・リンポチェ)によって、危険な時代にも信仰深い者たちが隠れ家として修行できるようにと、何世紀も前に見えなくされたのである。それぞれのベユルは特別な危機が訪れるたびに使われる。そしてそのときまでは明かされることがなく、閉ざされている。条件が整ったときにのみ、アクセスすることができるという。

 そのようなベユルが実在するかどうかは、論ずるまでもない。近年、少なくとも半ダースのベユルの位置が確認され、チベット語で書かれたガイドを使って探索がされているのである。1つはブータン、1つはシッキム、4つはネパールで発見された。これらガイドはいわゆる「回復された文学」、すなわちテルマと呼ばれる「隠された宝」の範疇に含まれる。テルマとは、適切な時期に、占ったり嗅ぎ分けたりして宝を見つけ出す特殊能力をもったテルトン、すなわち「宝を探す者」によって再発見されることを願いつつ隠された、聖なる(仏像などの)物や経典のことである。

 それぞれのベユルのテルマには、ベユルがどこで発見されるか、入り口がどこにあるか、入るときにどんな儀礼をすべきかなど、涙ぐましいほど詳細に描かれている。たとえばあるベユルに関連したテルマのなかで(「ヨモギの谷の隠された谷へのガイド」)グル・パドマサンバヴァはつぎのような条件を挙げている。

 

 人々の幸せが終わりに近づいたとき、近隣諸国がチベットへの侵攻をはじめたとき、チベット人はモン(モンゴリアンと非チベット民族。おそらくアッサムに接するモンパ族の地域。*訳注:南方の民族を総じてモンと呼ぶ)の国境の南方へ向かい、隠された地に逃げなければならない。チベット人は彼らが生まれ育った土地、田畑、富、使用人、その他すべてを断念し、石でもって粉々に砕かねばならない。必死にやればその場所にたどりつくことができるだろう。

 開けるべき扉のしるしがある。偉大で、そして小さな山ティセ(カンリ・リンポチェ、カイラス山)は破壊される。それは扉を開けるしるしである。サムイェ―寺院が破壊されるとき、3つの神聖なるものに捧げものが献上されなくなったとき、扉を開けるときはもう来ている。シュリーの地域で紛争が激しくなったとき、扉を開けるときはもう来ている。ツァン地方の法が破られ、地方政府が瓦解したとき、扉を開けるときはもう来ている。マンユルの王の子孫が殺されるとき、扉を開けるときはもう来ている。もしディン・ツァム(チュンビ谷)の国境で紛争が起きたら、扉を開けるときはもう来ている。もしディ山とディ・チュン山の上に要塞が建てられたなら、扉を開けるときはもう来ている。これらはきわめて明確な扉を開けるときが来たことを示すしるしである。

 仏法が広まる最後の500年のあいだ、50歳を過ぎた人の歯が抜け落ちるとき、扉を開けるときは来ている。チベットから国王がいなくなり、彼らの身内でいさかいが激しくなり、僧侶たちは誓いを破り、タントラの実践修行者が戒を破り、犬のようにさまよい、人々は恥ずかしげもなく肉や血を食らい、子供のない女たちは乱交を楽しみ、人々は人生について深く考えなくなり、からっぽの、あるいはまちがった心で争って食べ物や富を得ようとし、そういったことで、チベットにはもはや幸福がなくなってしまうだろう。徳を求めて、隠された地へ向かって旅に出るときのしるしである。

 

 ガイドは読者を隠された谷間の入り口へと直接導く。エベレスト山の東数マイル、マカルーの北にそれは位置する。2週間の瞑想が必要とされ、それにつづいて血の犠牲を含む複雑な儀礼がおこなわれる。

 

 彼らはドゥ(mdos)儀礼(精霊を捕える糸の儀礼)をおこなってデギェ(魔鬼の八部)の行為のバランスを取らなければならない。彼らはメンツン(場所の女神)に食べ物を献じ、17枚の赤いギャンブ(神像などが掘られた木版)を建てなければならない。7羽の黒い鳥を献じる。ナーガが穴のなかで生きるように、ナーガのためにトルマを作り、水を捧げ、ダンギェ(食べ物の献上儀礼)を供え、黒い羊を加えて、祈祷の歌を捧げる。

「隠された地を探すヨーギンの邪魔をするなかれ」

 お酒を捧げよ。そしてパドマサンバヴァを招聘せよ。彼らは水の流れにさからってはならない。

 

 霊的に価値がないものを除く複雑な儀礼を完了すれば、最終的に隠された地にアクセスすることができるだろう。

 このテーマに関する教えからベユルが三層に存在することがわかる。もっとも低い層には、通常の感覚を通して、いかなる霊性も感じられないが、それでもポジティブな思考と幸福感を与えてくれる、平和な、肥沃な谷がある。より高い層では、ベユルは真の秘密の場所のヴィジョンとして、ヨーギンは楽しめるだろう。もっとも高い層では、もっとも高い霊的な目覚めに達した人々にとっては、神秘的なエクスタシーを得ることができた究極的なリアリティの場所である。そこでは永遠の若さと美しさと智慧を得ることができるだろう。

 まったくもっておなじ思考法がシャンバラにも採られている。シャンバラはベユルではないが、かつて存在し、いつかまた現れる地上の楽園である。パンチェンラマ3世は『シャンバラへの道』のなかでこのように示唆し、三局面においてシャンバラが存在すると述べている。カーラチャクラの達成の状態のヨーギのシンボルとして、覚醒した人の浄土として、地上の物理的な場所としての三局面である。

 11世紀にシャンバラがチベットに登場して以来、教師たちはその存在の本質について論議してきた。ある者にとってそれはデワチェン、すなわち西方浄土のブッダ、アミターバの天界の王国に似た形而上学的な極楽だった。しかし別の者にとっては、それは実際に地理上においてかたちのあるものだった。12世紀以来、チベットの歴史書はこの世界の6つの基本的な国として、チベット、インド、中国、プロム(ホータン)、ブルシャ(ギルギット)とともに、シャンバラを挙げているのだ。

 地上のシャンバラがどこに位置するかについて、地理学の言葉としてシャンバラを受け入れる者全員が、インド亜大陸の北、チベットの西にあることに同意する。あるパンディットたち、たとえば18世紀の学者ロンドゥ・ラマはほとんどそれを特定している。カーラチャクラの論考のなかで彼は、シャンバラはヒマラヤ山脈の北、カンリ・ティセ山脈の西端近くに位置すると述べる。ヒンドゥーの論者もほぼ似た結論に至っている。

 もしこの地上にあるなら、ジェームズ・ヒルトンがシャングリラと名を変えたシャンバラの位置は、チベットの西方でまちがいないだろう。

 しかしなぜ? なぜチベット高原の、こんな人里離れた、極寒の地に地上の楽園を置いたのだろうか。