歴代ダライラマの秘密の生涯 

アレクサンダー・ノーマン 宮本神酒男訳 

 

2 慈悲深い菩薩チェンレシグ(観音) 

 まずはじめに、はじまりについて。はじまりには、いくつかのはじまりと、無始(はじまりなし)がある。

厳密な話でいえば、「ダライラマ」は14世紀にはじまっている。ダライラマ1世は1391年に生まれているのだ。しかし、その制度が現在の形をとるのは、「偉大なる5世」まで待たなければならなかった。ダライラマ5世の生没年は、1617年―1682年である。

 生前に認められた1世は、実際のところ3世である。すべての上に立った1世は、チベット人によって、前史時代の霧の中にはじまり連綿と続いてきた堅固な法統の43代目とみなされる。この認定の仕方によって、現在のダライラマの精神的法統は、57世代前、すなわち990イオン前に生きた王子にまでさかのぼることができる。

いわゆるダライラマの秘密の生涯というものがある。

われわれがダライラマ制度を理解するためには、その精神的法統に注意を向けなければならない。第一に評価すべきは、慈悲の菩薩(ボーディサットヴァ)チェンレシグ(観音)が、明妃であるターラーとともに、チベット人とチベット国に興味をいだき、それによって、彼(チェンレシグ)の精神的後継者の言葉、思考、行為を通じて、人間の歴史のなかに現れようと企図したことである。この後継者のなかで、もっとも傑出しているのがダライラマだった。

 この法統を継いだのは、ローケーシュヴァラージャという名の王子だった。ローケーシュヴァラージャは若者だったが、惜しみなく人に物を与え、とても評判が良かった。彼はすべての所有物を放棄した。それにはライバルの王に譲渡された家族の如意宝も含まれていた。このことが発覚すると、父親は激怒し、大臣らに賛同して息子を24年間、無頭の魔物がいる荒地に追放した。しかしその情熱ゆえ、国民は王子のことを忘れなかった。刑期を終えて帰国したとき、王子は人々から熱狂的な歓迎を受けた。ライバルの王さえ、かつて如意宝を要求したことを謝罪した。当時ローケーシュヴァラージャが拒否しないことを知っていて要求したのである。しばらくしてローケーシュヴァラージャは妻を娶り、王位に就いた。彼はそれから大乗仏教の教えにもとづいて瞑想をした。おそらく大乗仏教が現れるずっと以前のことだったかもしれないが、精神的な次元においてはすでに存在していたのだ。王子はそうして覚醒した。そして将来、チベットのソンツェン・ガムポ王となることを予言した。

 ローケーシュヴァラージャはブッダ・シャカムニのあとも、仏教世界の卓越した精神的存在でありつづけようとした。チベット人には「慈しみの心で見守る者」チェンレシグとして知られ、短くて謎めいた経典(般若心経)のなかで、依他起性(えたきしょう)というユニークな仏教の概念を説くのは彼だった。

「形は空である(色即是空)、空は形である(空即是色)。空は形にほかならず(空不異色)、形も空にほかならない(色不異空)」(『般若心経』より抜粋) 

 すべての現象は本質的な存在ではないという概念が、ここに結晶化されている。仏教の空(くう)という概念は「無」ではない。それは潜在性の面から解釈したほうがいいだろう。事物は、本質的な存在が空だからこそ、存在するのである。

 空の、あるいは依他起性の教義の創始者として、チェンレシグは仏教哲学の中核にある。しかしながら、このことによって大乗仏教徒やチベット人にもっともよく知られているというわけではない。大半の信仰者にとって、チェンレシグといえば、慈悲の菩薩なのである。

「法華経」によれば、衆生にたいする慈悲の心によって、チェンレシグは彼に祈る者すべてを助けた。彼は帰依する者を、火事から、洪水から、嵐から、窃盗や殺害、幽霊、悪魔から救った。

有名な例としては、7世紀の唐の巡礼僧、玄奘を死の危機からたびたび救ったことが挙げられる。ある晩、若い案内人が彼に向かって刃物を振り回して襲いかかってきたことがあった。しかし玄奘がチェンレシグ(観音)を呼ぶと、この若者はスタスタと寝床に戻って寝たという。

タクラマカン砂漠を越えるときも、玄奘は慈悲深いチェンレシグを呼ぶことによって、すべての悪魔や魑魅魍魎を駆逐しながら、無慈悲な荒地のなかで唯一の生命の痕跡である骨の山や馬の糞をかきわけて進むことができた。

チベットの北端を歩いたときは、地元の部族に襲われたことがあった。矢が彼の膝をかすめたが、慈悲深いチェンレシグが干渉することによって彼は生きながらえることができた。

 菩薩であるチェンレシグは、阿弥陀仏(アミターバ)、すなわち無量光のブッダとして、ブッダの行動面の、完全に覚醒した者の姿をとった。このように彼はいつでも、どこでも、苦悩の世界から脱出できない人を助ける機会があれば姿を現した。

疲れ果てた旅人が川を渡れずに困っていると、霧の中から橋の姿で現れることもあった。彼は自在に必要に応じて無限に姿を変えられるだけでなく、同時に異なる場所に出現することができた。

 一般的に菩薩は、人々のメンタルの許容量に応じて異なる方法で現れた。般若心経で彼は空の理論を説明し、高い能力をもつ人々に法を説いている。しかしベナレスのエピソードでは、青虫たちに法を歌って聞かせるために、蜂に姿を変えている。また「鳥たちの仏法」という「伝道の書」ともいうべき愉快なチベット語経典では、カッコウに身を変えて仲間のフクロウに法を説いている。

「この地上のささやかな喜びは、まじないのよう、夢のよう、空の虹のよう、荒涼とした谷間にこだまする声のよう」

チェンレシグはチベットと特別な結びつきがあると信じられている。その結びつきは彼の覚醒に先行していた。チベットの白蓮経によると、魔物や魔女に満ちた、文化が未発達のこの雪国を見て、ブッダが足を踏み入れていないこの野蛮な地の衆生を救おうと、チェンレシグは誓いをたてた。

 ほかの書には、チェンレシグはチベット人の父として描かれている。伝承によれば、ブッダ・シャキャムニの没後百年に、その下にチベットが隠れていた湖が干上がり、チベットが姿を現した。その場所に杜松(ねず)の森が生まれ、国全体を覆った。

しばらくするとチェンレシグが猿として現れた。猿はこの大きな森の中に家を建てた。彼が慈悲の恵みについて静かに瞑想していたとき、自分の子供をすべて死なせてしまっていた、肉欲の塊のような岩魔女が近づいてきて、この霊長類の神秘家に激しく迫った。その結果、同情したチェンレシグは彼女を(チベット人は彼女を女神ターラーに比定している)妻として受け入れた。

 よく知られた言い伝えによれば、この尋常ではない祖先の話はいまもその痕跡を見ることができるという。最初の猿と岩魔女の交わりから6人の子供が生まれ、そのなかからとくに名高い二つの家系が現れた。

 

 猿の父方の特徴に関していえば、彼らは忍耐強く、信仰心が篤く、哀れみ深く、勤勉だった。彼らは徳を備えることに喜び、弁も巧みだった。

岩魔女の母方の特徴に関していえば、彼らは欲深く、怒りっぽく、おカネ好きで、もうけ話ばかりに目がいき、貪欲で、競争心が強く、おしゃべりで、たくましく、勇猛であり、行動的で、落ち着きがなく、集中力がなく、向こう見ずだった。彼らの心は過剰な五毒に悩まされていた。彼らは他人の失敗を聞いて喜んだ。彼らはまたとても凶暴だった。(サキャパ・ソナム・ギェルツェン) 

 

 チベット人のこの神話はあまりにも印象が強かったので、チベット人自身と、また7世紀の仏教伝来以前のチベットの歴史とおなじくらいよく知られていた。そしてチェンレシグにたいする民間の信仰があまりに篤かったので、多くのチベット人がすでに世界の常識的な見方を知っていたにもかかわらず、20世紀末にいたるまで猿祖先神話の真偽が問われることはなかった。時間のスケールがまったく違っていたにせよ、一部の信仰者にとって、ダーウィンの進化論はこの神話を実証するように思われた。西欧でも創造論者の教義を受け入れつづけたように、チベットでも、シャカムニの死とチベット統一の間の数千年間、この聖なる猿と岩魔女のあいだに祖先が生まれたという神話を文字通り信じる人々が途絶えることはなかった。

 しかしながら、ほかにもなじみ深い神話があった。インド発祥のチェンレシグの生まれ変わり36代が、7世紀、ソンツェン・ガムポ王としてチベットに生まれたという神話である。この言い伝えが猿神話と論理的につじつまが合わなかったとしても、信仰者の考え方を変えさせることはなかった。チベット人にとって、現代の歴史検証法によって物事が実証されなかったとしても、それが実際に起こらなかったということにはならなかった。それは精神的次元において起こったことかもしれなかった。それは現世のリアリティと調和して起きるのである。伝承によれば、ローケーシュヴァラージャのあと、この劫(ごう)において、チェンレシグのつぎの地上の生まれ変わりが現れる。

「シッダールタ王子の時代、私はカピラヴァストゥでナンバという名のバラモンの少年だった。私は恥ずかしがり屋だった」(サンギェ・ギャツォ)

 この地上のある町の門で――そこは町の不良のたまり場だった――彼は未来のブッダと出会う。未来のブッダは彼に、怠けていないで、他者の利益のために身を粉にして働くよう促した。

 ソンツェン・ガムポ王までの36代には、6人の国王、4人の王女、7人の少年、唯一王、ウサギ、鳥、羊飼い、さまざまの他者(男性のみ)、人間から動物に変身し、またもとの姿に戻った何人かが含まれていた。彼らの生涯の物語の多くは、悪魔やガルダのような神秘的な生き物にたいしてどう対処したかについて語ったものである。

8代目の生まれ変わり、堅固な信仰ことデパ・テンパは超越した力を持つ馬を所有していた。乗り手が目的地を頭に浮かべた途端にそこに到着することができたのである。この特別な馬に乗ってデパ・テンパは11の頭を持つ悪魔のもとを訪ねた。悪魔は人のなめし皮を張った柔らかい王座に坐っていた。

 人間の姿をしたチェンレシグはこの受け継がれた伝統の中でつねに秀でていた。しかし6代目の生まれ変わり、ラトナダサのとき、彼は上半身が精錬された黄金のようで、下半身がターコイズの色であることをあきらかにして、その真の姿を現した。彼は生まれながらに(通常の32ではなく)40の歯を持っていた。こうした尋常ではない属性は、仏教に通暁した人々にとっては意味深かったけれど、現代の感覚からすれば、36人の生涯の物語は、動物や鳥といった外観はさておき、史実としては受け入れがたかった。

 たとえば11代目の生まれ変わり、マティヴァルダナ王子は、耳の穴から黒い蛇が出ているライ病患者の女の隣に坐っていたといわれる。彼は剣を取り、蛇を斬って30に分割した。すると彼女はもとの若くて美しい姿を取り戻すことができた。そしてふたりは結婚した。

 ほかの生まれ変わりのときには、彼は自分の肉体をめった切りにして(それはすぐに回復した)、肉片をジャッカルに与えた。

 ある人生においては、チェンレシグは「燃える地」のヨーガ行者として現れた。彼は屍林(墓場)が好きで、死体の山の上に坐って瞑想した。

 数人の人生はあきらかに認識できるスピリチュアルな教えをもたらした。おだやかで、鍛錬された、満足げで、やさしく話す若者であったアサンガ王子は父親を説得して狩りをやめさせた。彼は父が追っている獣が国王自身の両親の生まれ変わりであることを指摘して説得したのである。

これは古典的な仏教の教訓話のバリエーションである。無限につづく輪廻のなかですべての生きるものはある地点でわれわれの父であり母であるということをそれは教えているのだ。このことをわれわれは心に受け止め、人間であろうと、動物であろうと、超自然的な存在であろうと、他者のすべてをわれわれ自身の両親であるかのように、尊敬の念を接することを学ぶのである。

 小さな国の王としてチェンレシグは、彼を殺そうとした蛮族の首領を解放するとき、世俗的な教訓を授ける。

「もし彼を処刑したなら、このことは彼の国の人々を怒らせ、彼らは復讐することばかりを考えるだろう」

 しかしながらあまねく認められるスピリチュアルなメッセージをもたらすことができるのはひとりしかいない。それは29代目のリンチェン・チューである。

 

 昔、ある町にリンチェン・チューという名の純粋で、ヴェーダに通暁したバラモンがいた。町の中心にライ病の女がいた。食べ物がなく、容器に苦しめられていたので、彼女は立つことさえできなかった。リンチェン・チューは彼女を見て憐れみの情を持った。彼自身は儀礼をおこなうことによってきれいだったが、女を自分の庵に運び、食べ物をあげ、傷口の膿を洗い流し、薬で治療を施すと、彼女のすりむけた肌を柔らかな布で包んであげた。

 

 現代人の眼には、チェンレシグの生まれ変わりはとっぴな存在に映るかもしれない。しかし地上に転生したチェンレシグの役割は、シャカムニ・ブッダの役割と本質的には変わらないのである。道徳を極めるには仏教がもっともすなおで、静かな方法であると考えたとしたら、それは間違っている。この見方をするなら、シャカムニ・ブッダは世俗的ではない精神的な教師であり、哲学者である。彼を超自然的な存在に祭り上げているのは、熱狂的な信者たちなのである。超自然的であろうが、仏教徒による創造物であろうが、その教えを受け入れた大衆を支配し、規律を与えるために、政治的に移用されうるのである。しかしこれは誤解を与える考え方かもしれない。これら初期の物語からわかることは、ブッダはありふれた人間ではないのだ。疑いなく、古くからの伝承によれば、彼は奇跡を起こす者であり、世界にあまねく存在する神々を信じているだけでなく、それらを率いているのだ。彼はたんなる霊感を得た教師ではなかった。それはちょうどイエス・キリストが愛に関する変わったアイデアを持った政治的活動家ではないのとおなじである。しかしイエスがその奇跡の力を見せるとき寡黙であるのにたいし、ブッダは隠さず、すべてをあきらかにした。イエスが本当に神の子であるかどうか徴(しるし)を示せと言われたとき、愚弄するように言い返した。「徴(しるし)を求めるのは邪悪で信仰心のなお世代です」もうひとりの同様に徴を求められた者は、徴を示すことに同意し、さらに時間と場所も公に発表した。その日が来ると彼は「空への道」を上り、彼自身の姿をあらわにした。

 

 彼が示した徴(しるし)とはつぎのようなものだった。第一に、彼は自分の頭から立ち昇る大いなる火を起こし、自分の足から水を流した。それから彼は彼の身体の上と下で火と水を混ぜた。それから彼は自分の背中から火を、胸から水を出した。そして右目から炎を、左目から水を出した。そしてその反対もそれぞれ出した。右の鼻から火を、左の鼻から水を出した。そしてその反対もそれぞれ出した。そして右耳から火を、左耳から水を出した。そしてその反対もそれぞれ出した。

同様に、肩、手、脇、脚、足、親指、踵(かかと)から火と水を出した。すべての驚くべきことは見られた。そして一本の髪の毛から水が、もう一本の髪の毛から火が出てきた。それから彼は6つの栄光を送り、空中をあっちやこっちへと歩いた。

 

 現代人の観点からすれば、36人の生まれ変わりの伝記はとくに意味あるものとは思えないが、ダライラマ制を守る側からすると、それは意義のあることだった。彼らはダライラマとして転生する者が異なる属性を持っているなら、それについて熟考しなければならない。

こうしたことから、ソンツェン・ガムポ王に先立つ最後の二人の生まれ変わりの意義を理解することが重要である。二人のうちのひとり、ツクラ・ズィン王ははじめ、仏教の敵として描かれている。

敵どころか、彼はパーム油とゴマ油をまぜて作った火で、覚醒した者を焼き殺そうとしたのだ。仏教徒にとって、覚者を殺すのは、考えられるかぎりもっとも重い罪である。しかし次第にわかってきたのは、彼が覚者に危害を与えることができないことだった。

ツクラ・ズィン国王は懺悔し、仏法の熱烈な信奉者に転じる。しかしチェンレシグとして現れるために、殺害を犯そうとするのは信じがたい話である。どうしたらひとりの覚者はもうひとりの覚者にそんなひどいことができるだろうか。

 この疑問は、ダライラマ制度の根幹部にある難問といえよう。それぞれのダライラマは前任のダライラマの転生である。そして初代ダライラマは歴史上実在した19人のチベット人の王に連なるとともに、36代のインド人にも連なっているのだ。チェンレシグの連続した転生、あるいは化身、顕現というのは、それぞれが異なることを述べているが、いったい何を意味しているのだろうか。

 素朴な民衆の立場から見ると、チェンレシグ自身はこれらの異なる人々のなかにうまく現れている、あるいは魂に入っている。より鍛錬された仏教徒の目から見ると、このつながりはもっと微妙である。彼らの間にはスピリチュアルな連続性があるのだ。それぞれのカルマが、慈悲の行為を通じてチェンレシグとつながっているのかもしれない。

 殺し屋の菩薩(ブッダになろうとする者)の場合、彼は生まれながらのチェンレシグではなく、前世の慈悲深い行為によってつながりがあると考えられるチェンレシグが、彼が懺悔し、慈悲によって目が開かれたときにはじめてあらわれ、他者の利益のために身を犠牲にするのだ。

 言いかえるなら、慈悲によってのみダライラマの系譜は規定され、特長づけられることになる。しかし同時に「慈悲」という言葉は正確に理解されねばならない。他者の苦悩にたいしての共感だけでなく、その感情にたいして反応しておこされた行為も意味しているのだ。法を説く、あるいは捧げること自体、慈悲深い行為とされ、求めに応じて法を説くときのみ基本的な教えが与えられる。

 仏教の修練を深める、あるいは信望を増加させるいかなるおこないも、思いやりとして一般的には解釈される。このことから、前歴史の系譜の最後を飾るゲワ・パル王は重要である。時系列的にはありえないが、彼は、チベットに仏教をもたらした偉大なる信仰の宣教師であり、普及者であるアティーシャの父とされる。聖者の父であることからも、彼が強い慈悲の心を持っていたことが証明されるという。

 外の人間にとっては、この何でも慈悲という言葉でブッダダルマ(仏法)の行為が解釈されるのは、受け入れがたい。おなじ論法が教義を守る際にも用いられる。どんなおこないもおなじ論法であたるのは危険このうえない。ロブサン・ギャツォ殺害も、ゲルク派の純粋さを守りたいという一心によって引き起こされたのだ。