歴代ダライラマの知られざる生涯 21 

傀儡と詐称者 

 

 完全支配の妨げになるものを取り除いたラザン汗(ハーン)は、つぎに、廃位に追いやったダライラマの替わりの者を連れてこなければならなかった。この頃までにダライラマ制度は十分よく確立されていて、ローマにローマ法王が不可欠であるように、ラサにはダライラマが不可欠だった。ラザン汗が選んだ男は彼の実の息子ではないかという噂が流れていた。そのことは彼が身元をはっきり認識していたということを示しているだろう。これまでの名が知られていなかったこの僧籍に身を置く者には、ダライラマとして、ガワン・イェシェ・ギャツォという名が与えられた。彼は廃位になった前ダライラマより三歳若いデプン僧院に所属する僧侶だった。このダライラマらしくない候補者が民衆の目にもっともらしく映るよう、ラザン汗はあらかじめパンチェンラマにイェシェ・ギャツォが真正であると認めてもらうように手を回した。実際パンチェンラマは喜んで了承したのだが、タシルンポ寺管轄区にラザン汗がたっぷりと贈り物を届けていたことが功を奏したのだろう。ともかくも権威筋の承認が得られたことにより、「偉大なる五世」の真正な転生であることが認められたのである。彼は1707年、ポタラ宮で正式にダライラマの宝座に就いた。

 六世への虐待と有無を言わさぬ廃位は、ゲルク派の僧侶たちやモンゴル人を多数含む民衆全体に、口に出せない憤りを引き起こすとラザン汗は推測できなかったのだろうか。とりわけ立腹したのはラザン汗自身の部族だった。彼らは憤然として康熙帝に誓願書を出したのである。きわめて外交的に、康熙帝はイェシェ・ギャツォの獅子宝座にふさわしいという主張が正しいかどうか、パンチェンラマに再調査をするよう要請した。そして驚くことではないが、パンチェンラマはすでに主張が正しかったことが確認されていると回答したのである。一方の康熙帝はモンゴルの隣人たちと敵対しないように気を配り、賢明にもこの新参者の公認を保留した。その代わりに彼はラザン汗を監視すべく清朝廷から監督官を派遣したのである。

 公式には清朝の使節は「ラザン汗が不満分子を抑え、僧侶や(亡くなった)デシの支持者らの秩序を回復するのを助けるように」と命じられていた。非公式には、彼は清朝のチベットへの関心をつなぎとめる任務を課されていた。とはいえ使える手立てが限られていたので、皇帝からの特命とはいっても軍事的なものというよりは外交的な性質のものだった。これはつまり成功するかどうかはラザン汗の善意にかかっていたということだった。康熙帝が考える以上に彼の威信を認めてくれる者がいなかったので、ラザン汗が清朝に忠誠を誓っていたにもかかわらず、皇帝の威信は限定的なものだった。チベット全体に影響を広めようという試みが失敗する運命にあることを皇帝はすぐに思い知らされることになる。1710年春、公式にイェシェ・ギャツォをダライラマとして認定する詔書をラザン汗に渡し、康熙帝はその役割を終えることになる。その結果ラサに残ったラザン汗が実質上チベットの政治的最高権力者となった。

 十年の長きにわたってラザン汗は中央チベットを個人的な領地として支配した。しかしながらライバルのダライラマ候補が出現し、最初のトラブルの兆候が見え始めるのは避けがたいことだった。さらに状況を悪化させたのは、ツァンヤン・ギャツォが生きているという情報が繰り返し報告されたことだった。

 現ダライラマ(14世)の一番上の兄、トゥプテン・ジグメ・ノルブの自伝の中に、ツァンヤン・ギャツォが北方の平原に着いたとき、地元のチベット人たちに北京への旅をやめてほしいと懇願されたという話が出てくる。もし北京へ行ったなら、彼らには死が、チベットには災難がもたらされるだろうという。ツァンヤン・ギャツォがこの懇願について考えているとき、老人がテントにやってきた。廃位になったこのダライラマが老人に名を尋ねると、彼はセンゲと答えた。彼らがキャンプしている場所の近くの湖の名を尋ねると、老人はクンガ・ノールと答えた。ツァンヤン・ギャツォはこの連結する二つの名前は予言的だと考えた。「センゲは獅子を意味する。力のために立つ野獣だ。クンガは幸福を意味する。ここから出発するのが正しいという徴(しるし)だ。つまりそうすることでわが人民はしあわせになるということだ」。彼はテントから外に出て、消えた。

 翌年、モンラム・チェンモが開かれている間、時の宰相とネチュンの神託の両者が群衆の中で乞食に向かってひれ伏している光景が――ダライラマに対してのみ行われるやり方で――見られた。この「乞食」はカムの豊かな婦人の家畜の群れを世話している素朴な羊飼いとして生活しているのだという。

 ほかの伝説によれば、ツァンヤン・ギャツォはラサを去ったあと、不死の力(シッディ)をあきらかにし、今日までこの世界に存在してきた。それは中世のキリスト教伝説の変装した、精神的な援助を与える「さまよえるユダヤ人」のようなものだった。それは準備ができた人々にとってもっとも必要な、精神的な変容なのである。ダライラマ十三世が1920年代にラサに駐在した英国公使チャールズ・ベル師に話したのは、この伝説のバリエーションだった。ダライラマ七世の時代、ポタラ宮の大集会殿にツァンヤン・ギャツォが姿を現すことがあった。十三世が言うには、彼がダライラマであった時代、異なる時期に何度か目撃されたという。十三世はまた六世がダライラマであったとき、同時に複数の場所に現れる修業をしていたと述べている。これらのことは信心深い人々の間に混乱をもたらし、すべての宗派の僧侶が眉をひそめた。

 ツァンヤン・ギャツォに関した残存する記録でもっとも詳しく描かれたものは『聖なる琵琶の調和 美徳の至上の行為に関する教えを含む、耳に心地よい全知なるガワン・チューダク・ペルサンポ伝』という本である。それは第一人称で書かれていて、現ダライラマの長兄が語った伝説とほぼ同様のエピソードではじまる。老人の名と近くの湖の名を結びつけたしるしが示されたあと、ツァンヤン・ギャツォはテントを出る。このバージョンでは、彼が出発すると砂嵐に見舞われ、五里霧中のなかにいるかのようになってしまう。まったく何も見えない彼がよろめきながら歩いていると、遊牧民の少女と出会う。この少女に導かれて彼は安全な場所にいたることができたのである。砂嵐が収まると、少女は消えていた。喉の渇きに苦しめられ、マメだらけの足を引きずってよろよろと歩いていた彼は放浪するヨーガ行者になろうと決心した。彼は隊商の一行に加わり、最終的にはアラシャンにたどりつく。

 彼の一連の冒険物語が始まった。たとえば、つぎのような場面だ。

 

 わたしはある家庭を訪ねた。そこには頭のない男がいた。妻やほかの家族に説明を求めると、彼の頭は切断されたとのことだった。切断後三年が経過しているが、彼はまだ生きていた。無限の哀れさを覚えながらわたしは彼をよく見た。彼は両手で胸を叩いていたが、家族によれば腹が減っていると言っているとのことだった。首のところには穴が二つあいていた。穴のひとつに家族は鍋から暖かくて柔らかい大麦の粉(ツァンパ)と水を流し込んだ。泡がブクブクと出ると同時に食べ物は吸い込まれた。

 

 のちにツァンヤン・ギャツォはセラ寺へ行き、そこで寺主から教えを受ける。それからツォンカパの訪問によって聖化されたダクショ寺(Drag Shog)に移動した。ダクショ寺を出発点にわれらの主人公はチベット東南部の聖地をめぐる巡礼の旅に出た。旅の途中、六世が現れたという噂が広がり、彼はラザン汗の兵隊によって逮捕された。ふたたび奇跡が起こり、つまり砂嵐に守られ、元ダライラマはインドへ向かう。

 生地を通って旅をつづける途中、彼はミデ(mi ‘dre)、すなわち伝説的な「忌まわしき雪男」の攻撃を受ける。傷つけられることなく逃げることができ、彼はなんとかインド北部に達した。しばらくして彼はチベット人巡礼団に加わるが、またも攻撃を受ける。今度は襲ってきたのはロラン、すなわちゾンビである。ゾンビが「炎のような拳」で襲いかかってくると、みな蜘蛛の子を散らすように逃げたが、ツァンヤン・ギャツォは彼らを殴り飛ばし、岩で灰になるまで叩き潰した。最終的にプラハリ寺院に達し、元ダライラマはここで六か月間、チャクラサンバラの瞑想をおこなった。

 元ダライラマのインドでの最後の冒険は釈迦牟尼の母が子を産む前に見た夢に出てくる伝説的な六本の牙を持った象との出会いである。百年に一度現れるというこの象の外観について彼は描写する。

「山が動いているかのような姿はとても美しく、人は長時間それを見つづけることができない」

 仰天した彼は、象に向かって三度伏し拝んだ。それは「右回りにわたしのまわりを回った」。それが回り終わったとき、「一周回るごとにわたしの前に巨大な糞を残した。それがもっとも吉兆のできごとだった」。

 1714年までにツァンヤン・ギャツォはチベットに戻っている。一年後、彼はデプン寺を訪ね、ネチュン神託の公開降霊会に参加した。不幸にもネチュンはまたも彼のことに気づき、彼に近づき、剣をふるって挨拶をする。いかめしい顔をした神は空気を読み、以前の主人に注目が集まらぬよう、あらゆる方角に突き進む。1716年、元ダライラマはラサからアムドへ戻った――彼が消えてからちょうど十年後のことである。そこで彼自身の地位を確立し、地元のモンゴル人統治者(実在の人物)とその妻との親交を深めた。聖者としての名声は高まり、地元のモンゴル人部族社会にあって非常にたくさんの訪問者を受けることになった。しばらくして彼はある僧院の寺主になっている。その座に就くとき、式典はダライラマ五世のために用いられた大テントを使用した。しかし先代ダライラマに贈られたのが三十頭の馬だったのに対し、新しい寺主に贈られたのは三百頭のラクダ並みの大きさの白馬だった。それらはみな比べるものがないほど美しく、耳の色の違いで一頭ずつ識別することができた。

 二年後、中国人に対するモンゴル人の大きな反乱が起きている真っ最中に、彼の僧院は破壊された。新しい用地で僧院の再建が始まるまでに四年の月日を要した。そして僧院として再開するまでにさらに三年を必要とした。彼らはたびたび中国人の長官に対したっぷりと賄賂を贈らねばならなかった。でなければ彼らは作業を邪魔しようとしたのである。再建がついに完成しようとしたとき、長官は兵士に建物を引き倒すよう命じた。さらなる賄賂が必要とされたのである。しかし突然、長官は「九つの穴から血を噴き出して」死亡した。

 このとき以来ダクポラマ(広くこの名で知られるようになった)の生活は落ち着いたものとなった。やがて彼は14の寺院の寺主となった。多くの貴族を含む何千人ものモンゴル人の尊敬される師となったのである。若きダライラマ六世の無軌道ぶりを考えると皮肉なことだが、彼はパンチェンラマとヴィナーヤ(律)、すなわち寺院の修業の規則のテーマについて書簡を交わしている。そして1748年の四月八日に寂滅している。

 ダクポラマとツァンヤン・ギャツォを同一人物とみなすチベット人は今も相当数いる。実際、秘密の伝記が真正なる経典であると亡命チベット政府が公式に認めたのはごく最近である。というのも重なってしまう時期があれならば、ダライラマの正当性を脅かすことになりかねないからだ。しかしチベット人にとってのチェンレシグ(観音)は、いつ、どこで人々によく恩恵をもたらすかを明らかにする能力を持っていた。そしてつづいて一目見ただけで彼はおなじやりかたでやろうとする。しかしそれはパラドックスなのである。