ケサルの愛馬と関羽の赤兎馬   宮本神酒男 

 『ケサル大王物語』(君島久子著 1987)を読んで少々気になってしまったのは、ケサルの愛馬が三国志でおなじみの赤兎馬の名で呼ばれていることだ。チベット文化は想像以上に中国文化の影響を強く受けているのだろうか。もしそれが間違いなら、どうしてこのような恥ずかしい間違いが生じたのだろうか。

 ケサル王の馬には、チベット語でキャンゴ・ペルポとかキャンゴ・カルカルなど、なぜかさまざまな名がある。直訳すれば能力のある、すさまじい、野生の、荒々しいキャンということになる。キャンというのは、野生種のロバである。ロバといっても、見かけと大きさはポニーに近く、競走馬のような力強さは感じられない。鹿のような柔らかなラインを持った、赤茶色の毛並が美しい気高い生き物である。

 私の経験からいうと、チベット高原でキャンの群れと遭遇する機会はけっして少なくない。キャンの群れを見かけてそっと忍び足で近づいたことがあるが、キャンはすぐ全速力で逃げ出すということはなかった。はっきりと見える距離に接近したとき、キャンの群れはこちらに気づいているようには見えなかったが、いつのまにか少し離れたところにたむろしていた。得られそうで得られない、そんな不思議な、神秘的な雰囲気がチベット人に好まれているのかもしれない。

 ケサルの愛馬が馬(rta)ではなくキャン(rkyang)と呼ばれるのは、そうした神秘性を強調するためであろう。その姿は、なよやかなキャンではなく、フェルガナ産の汗血馬のように立派なはずだ。また神馬であるなら、馬頭明王(サンスクリットでハヤグリーヴァ、チベット語でタムディン)の化身であり、その身体は赤色でなければならない。実際、ケサル王がまたがる馬は赤く描かれる。*チベット仏教図像辞典を見ると、24種ほどのタムディンが紹介されているが、すべてが赤色というわけではない。

 君島氏が赤兎馬という語を用いたのは、漢訳ケサル王物語に赤兎馬と記されていたからと思われる。物語中、ややこしくて見慣れない名前ばかりなので、漢訳者は三国演義でおなじみの関羽の愛馬の名を借用したのだろう。演義では赤兎馬はもともと董卓の馬であり、呂布の手に渡った。その後曹操のものとなり、関羽を引き留めたかった曹操は赤兎馬を関羽に譲った。赤兎馬は一日に千里を走るタフで速くて賢い馬として描かれる。歴史書の三国志には呂布の馬が記されるが、名はとくにない。

 赤兎馬は、正確には赤菟馬である。菟(と)とは古語で(あるいは楚国の方言で)虎という意味である。於菟(おと 現代中国語音wutu)という虎を表わす言葉は、『春秋左氏伝』などに登場することもあり、古来より日本でも知られていたので、人名に使われることがあった。先日島根県津和野町の森鴎外記念館を訪ねて気づいたのだが、鴎外は息子に於菟と名付けている。

 南方熊楠も『十二支考』のなかで「我が国で寅年に生まれた男女に於菟(おと)という名をつける例がしばしばある」と述べ、その由来を『左伝』に求めている。このエピソードは捨てられた子供が虎に育てられるという話で、ローマ帝国の建国者ロムルスがオオカミに育てられたという神話を思い起こさせる。この子(のちの楚国宰相令尹子文)は闘穀於菟と名付けられた。すなわち闘氏の虎の乳で育った者という意味である。

 レコン(青海省同仁県)のニェントフ村(土族)の冬の祭り、ウトゥ祭のウトゥも虎という意味であり、於菟という字が当てられうる。レコンの土族はモンゴル系でありながら(吐谷渾の末裔という説がある。吐谷渾人もおそらくモンゴル系)チベット化した人々だが、彼らは古代中国の文化もまた継承しているのである。しかし現在の一般の中国人には於菟と聞いてもなじみが薄く、多くの人は意味すらわからない。

 中国人自身が兎とをおなじであると勘違いしてしまったのだ。同音なので、なじみ深い字で代用するようになった。簡体字を推し進めたことの弊害である。

 つまり赤兎馬とは、赤虎馬である。赤いウサギではありえない。古代においても、現代においても、中国で「あの馬はすばらしい。ウサギのようだ」とは言わない。虎のように強くて速い、炎のような赤褐色の馬という意味なのだ。ケサルの愛馬も馬という名にふさわしいが、チベット人がその名を知っていたとは思えない。

 このように、赤兎馬とケサルの愛馬はまったく無関係である、と言いたいところだが、いつの頃からか(おそらく清の乾隆帝の頃から)ケサル=関羽という信じがたい図式が形成された。ラサのポタラ宮の近くにあるケサル廟は関帝(関羽)廟であり、見かけはケサル像というより関羽像だった。北京の雍和宮の中にあるケサル廟もまた関帝廟と見分けがつかない。

*スタンによれば、チャンキャ・ラマ2世ロルペ・ドルジェ(1717−1786)が見た夢の中に関帝(関羽)が現れ、「関帝は中国だけでなく、チベットでも崇拝されるだろう」と告げた。これは関羽がケサルの姿で崇拝されるということを暗示しているのだろうか。
 スタンは驚くべき指摘をしている。すなわちチベット人やモンゴル人は関帝廟をケサル廟と呼ぶというのだ。中国人が行くところ、どこにでも関帝廟は作られる。(横浜中華街の関帝廟も中華街ができる前の1862年に建てられた)
 するとラサのケサル廟も、もともとは中国人が建てた関帝廟だったのかもしれない。清朝がラサにアンバン(駐蔵大臣)を置いたときに建立されたのだろうか。
 また『如意宝樹史』によれば、ジョンツェン・シェンパ、ケサル、ベグツェは関老爺(関帝、関羽)の化身だという。ジョンツェン・シェンパは文成公主とともにラサへ来た大臣であり、ベグツェはヤクシャ(夜叉)だった。18世紀にはケサルと関羽の同一化が進んでいた。


 チベット人全員が賛成するとは思えないが、チベット人の英雄と漢民族の英雄を同一視する気運はたしかに一部で存在した。そうだとすれば、ケサルの愛馬が赤馬であってもおかしくない。チベットの山神(yul lha)は通常白馬に乗った武将として描かれていて、赤い馬に乗る神はそんなに多くない。しかし、虎のように勇猛で力強く、敏捷な赤い馬なら(少なくともウサギでないなら)そんなに悪いことでもなさそうだ。

 以上のことから、ケサルの語り部が語るケサルの愛馬は三国志演義の赤兎馬とはまったく関係ないのだけれど、ケサルと関羽の両英雄を同一視しようという動きが一部にあったのはたしかで、それにつれて赤菟馬(赤虎馬)とケサルの愛馬を同一視する流れがあった可能性を否定はできない。とはいえ、両英雄の同一視に、中国によるチベット人の同化政策が見え隠れするようなら、手をこまねいて座視するわけにもいかない。大半のチベット人は赤菟馬の名を知らないし、興味も持っていないのだから。

*リコン・ジェードゥク(ri bong jal 'drugs)ということわざがある。「ポトっという音を聞いたウサギ、びっくりして逃げ惑う」という意味である。果実が水面に落ちたときのポトっという音を聞いてウサギがびっくりして逃げ惑い、ほかの動物に知らせると動物たちも逃げ惑い、山全体が大騒ぎになったというたとえ話だ。
 この寓話に表れているように、ウサギはすばしこいが臆病な小動物といったイメージをチベット人は持っている。駿馬のたとえとしてこれほど不適切な動物もないのだ。(『チベット神話伝説大全」にはウサギに関係する伝説や寓話が10個収められている)
 辞書を見ると、野ウサギの部位は薬として用いられている。たとえば脳髄(ri bong klad pa)は腹痛や下痢に効く。心臓(ri bong snying)は精神的な病に効果がある、など。
 一方、虎(sTag)は強さ、勇猛さの象徴であり、寺院の名に使われることも多い。(たとえばブータンのタクツァン寺院は虎の穴の意)
 タク・セン・キュン・ドゥク(sTag Seng Khyung 'Brug)とは、爪をもつ四大強獣、すなわち虎、獅子、ガルダ、竜のこと。タクセン・カトゥ(sTag Seng kha 'prud)とは両雄(虎と獅子)相まみえるという意味。タクダ・シクダ(sTag 'dra gZig 'dra)とは虎のごとく、豹のごとく(強い)という意味。タクシュム(sTag zhum)とは、内では虎のようだが、外では猫のよう、という意味。内弁慶ということだろう。もしかすると外では気弱な男だが、家の中ではDV夫のような男を指すのかもしれない。
 このように虎はチベット人にとって強さをイメージするが、ケサル王物語において強く、勇猛なのはケサル王であり、ケサル王の愛馬ではないのだ。この点からもケサルの馬が虎でないことを指摘しておきたい。








チベットの流鏑馬(サムイェ―寺近く)



チベット文化圏では競馬がさかん。偶然か、白馬より赤い馬のほうが速い(写真はラダック) 



走ったあとの騎手に駆け寄り、ねぎらいの言葉とギー(バター)を献じる若い女性(*いや、おそらく穀物を渡している)。身近な英雄である。ケサルも競馬に勝って英雄となり、国王となった。(おなじくラダック)