ラン族(Rang)は他の民族と同様、独自の固有文化を持つ民族である。長い時間と空間のなかで、ラン族の社会は周囲からの影響を受け、ドラスティックに変化してきた。世界の潮流に無縁ではいられないのである。そのなかで独自の文化を守ることに我々は心がけてきた。もし近代化の流れに飲み込まれてしまったら、ラン族の文化は消え去ってしまうだろう。ラン社会は他に同化され、その独自性も失ってしまうだろう。

 それゆえ、ラン族の文化、とりわけ葬送儀礼のときに読まれるセーヤーモ(Seiyamo 死者を神に祭り上げる意)、あるいは「カラスの物語」は、ラン族民俗の要として、保護されるべきものなのである。これらはけっしてヒンドゥー文化ではない。セイヤーモ、あるいは「カラスの物語」は、亡魂が死者の世界、あるいは天界へと導かれるその助けとなるものだ。この儀礼において、まず、死者に似せて美しいジュ(Jyu)という偶像が作られ、死者の衣服や装飾品が飾られる。ジュが完成すると、ふたりの導き手が任命される。ジュの右手、つまり席の左側(この席は最上席と考えられる)に座るセーヤクチャ(Seiyakchha)が魂のガイド、アマリチャ(Amarhichha)。左手側に座るのが、葬送儀礼の場所を定める役目を持つバリチャ(Barhichha)。一般的にはアマリチャがセーヤクチャと呼ばれる。(*バリチャはセーヤクチャではないこともあるということか)

ジュ(偶像)が完成すると、故人の家族、親戚、隣人らは、死者の魂が神の地に居場所が見つけられるようと、米、お香などが捧げられる。ふたりのセーヤクチャも米やお香などを捧げ、儀礼を行なったあと、亡魂は神と同格とみなされ、尊敬されることになる。実際ラン族社会では、亡魂(祖先)は神以上に拝まれるのである。亡魂が神の位置に祭り上げられるためには、アマリチャとバリチャによって障害物や悪霊を防がなければならない。死者を導くことは、セーヤクチャのガイドという意味で、セーヤーモと呼ばれるのである。この書の別名は「カラスの物語」である。死者を悼むことばは、荘厳な調べとともに読まれるだろう。ことばは地域の言語、あるいは「さかさまことば」(Janalwu)が使われる。葬送儀礼においてことばだけでなく、すべての活動がさかさまに行なわれるのである。たとえばピンダ(pindandの下部に点。供え物の団子)を供えるとき、手を後ろ向きに差し出したり、服をさかさまに着たり、などなど。それゆえセーヤーモを読むとき、右から読むことがあるが、それなどはラン語とはまったくちがって聞こえる。それはラン語の古代のかたちに近いとも言われる。

 ラン族は葬送儀礼をグワン(Gwan)と呼ぶ。

グワンのあいだ、セーヤクチャは偶像を祀りながら、死者に向かって言う。
「ヌ・シミ(新しい死者)よ! 冥界で悪霊に虐げられないように我々はチュンチュン・ングブ(chun chun nglbu 呪語)やカンカン・ベト(Kan kan beto ピンダ)、ジュを捧げるのだ。心配するにはおよばない。今日からはいかなる魔物もおまえに触れることはできないし、行く手に立ちはだかることもできない」。

 彼らの信ずるところによれば、死者の魂が住むところはカイラス山近くのチュンルン・グイ・パトゥ(*原文はKshyunlong guwi patu)である。新しい亡魂はセーヤクチャによってこの地へ送られる。ここは九つの農地(?)の頂上であり、階段を登った上に魂のやすらぐ場所があるのである。セーヤーモはまた「カラスの物語」とも言われるが、それはもっとも重要な第三章によるのである。このなかでミヤ・ミサル(ミヤ=天 ミサル=神)の物語が語られる。この天神の住む場所は、ソーサ村(Sosa)近くのパティ・チャウダンス(Pati Chaudans)のトゥルティン・グン・トゥルティン(Tulthin gun Tulthin)という所である。天神ミヤ・ミサルは権力をもち、富裕で、宝石の装飾品や金銀、ダイアモンドなどをふんだんに持っていた。しかし一人息子が突然死んだのだった。息子の死をいたみ、天神は息子が蘇るすべを必死で探した。そこで天神は金銀を薪のかわりに積んで、貝(の宝石)で火をつけようとした。しかし火は着かず、息子も蘇らなかった。天神はますます悲しくなるばかりだった。そのとき、カラスがどこかから飛んできた。あわれな様子を見て、カラスは言った。

「天神さん! あんたの息子は生き返らなかったし、金銀の薪で葬式をあげることもできなかった。それが自然の摂理ってものさ。あんたがやるべきことは、そんなことじゃなく、きちんと葬式をあげて、魂を天国へ送ることじゃないかね。金銀じゃなく、石を積み上げ、その上に燃えにくい木々を置くのだ。息子さんの身体は(燃えたあと)五元素に帰るだろうよ、つまり火、空気、水、土、そして血(ママ)にね。言い換えるなら、亡魂は肉体から救われる、ということだ」。

 カラスの話を聞いて、ミヤ・ミサルは葬送儀礼をうまく行うことは、人間の生き死にをどうするかということに直結していると感じた。こうしてミヤ・ミサルは葬送儀礼、グワンの仕方をカラスから学んだのだ。ふたり兄弟の妹もまた、兄弟との不道徳な性的関係によって、兄弟を失うことになった。地上から、(ミヤ・ミサルの)葬送儀礼をはじめから終わりまでずっと見ていた。彼女は兄弟の葬送儀礼もおなじように行われるべきだと考えた。地上でミヤ・ミサルの行った葬送儀礼を最初に模倣して行ったのは、この妹だと言われるのである。この本はこのように葬送儀礼(グワン)の仕方を述べたものである。

 

 最後に、拙書がラン族社会に役立つことを願ってやまない。いかなる叱咤激励もよろこんで甘受するものである。

                         編者(Jagat Singh Nabiyal