シャティアル、
ソグド人の夢の跡

 宮本神酒男

ソグド商人は日本にまで来たのか

 ソグド人はどこへ消えてしまったのだろうか。少なくとも千年以上の長きにわたってシルクロードの主役を務めてきた、ソグディアナ(サマルカンドとブハラを中心とするトランスオクシアナ)を本拠地とする隊商の民族は、なぜ滅んだのか。いや、滅亡したことより、興亡の激しい中央アジアで、強大な国家を形成しなかったのに、かくも長い間存在感を示したことのほうが驚きとみるべきなのか。

 伊藤義教によれば、正倉院御物の「羊木(ひつじのき)蝋纈(ろうけち)屏風」には、隠し絵的にゾロアスター教の開闢神話と軍神ウルスラグナ(Verethraghna)の場面が織り込まれていた。この屏風が日本で作られたとするなら、ゾロアスター教徒のソグド人が渡来した可能性がきわめて高い。彼らはどこからこの東の果ての島まではるばるやってきたのだろうか。

 六世紀にはすでに相当数のソグド人が中国にやってきていた。それはおびただしい数の墓およびその壁画、石彫が示している。聖徳太子の時代にはすでに、中原全体に、とくに東端の山東半島にまで、ソグド人の活動範囲が広がっていた。渤海国にもその痕跡は残っているという。(姜伯勤『中国ゾロアスター教芸術史研究』)

 

*北斉(550−577)の安陽(河南省)の石棺の彫刻。

*北斉の青州傅家(山東省)のソグド壁画。

*北周(556−581)の西安の薩宝安伽墓図。

*隋(581−618)の太原市(山西省)の虞弘墓図。

*隋の天水(甘粛省)の石棺。

 このほか敦煌や新彊のジムサ、ホータンなどからミトラ神や女神ナナなどの壁画やレリーフが多数発見されている。しかしこの文の主題ではないので、ここでは詳しくは触れないことにする。

 

シャティアルはソグド人の
巨大交易市だった

 パキスタン北部インダス川沿いのシャティアルには、500以上ものソグド文字の石刻が散在していた。散在していたと過去形で書くのは、カラコルム・ハイウェイに沿ったこの地域はいずれダム湖に沈むことになるのだが、沈む以前に、原理主義の影響もあるのか、すでに多くの岩が破壊され始めているからだ。

 ソグド文字が刻まれたのは、4世紀から6世紀頃と推定されている。ソグド商人がもっとも活発だった時期だ。この交易を得意とする民族の奔流は中国に押し寄せ、その余勢が日本列島にまでたどり着いたのではないかと私は推測する。

 

 私がシャティアルに近い町チラースを訪ねたのは、前年につづいてまたしてもラマザーン(断食月)期間中の2008年9月のことだった。ホテルの前の通りでタクシーをつかまえ、値段交渉をする。シャティアルまで一時間余りにすぎないが、ほかにもいくつか立ち寄る場所があるので、半日チャーターということになる。

町を出たところに検問所があった。なぜか係官が頼みもしないのに「案内する」といって強引にタクシーに乗り込んできた。よほど暇なのか、チップ目当てなのか。地元民だから岩絵や石刻について詳しいだろうと思って受諾したが、足手まといになるだけであまり役に立たなかった。それでも、シャティアルのほか、ハンバリ、トルなどで岩絵探しをするとき、連れがいると(運転手も参加した)案外、楽しかったが。岩の上を跳ね飛びながら岩絵を探すのは、子ども時代に帰ったみたいで興奮の連続だった。

 シャティアル橋はすぐに見つかった。道路(カラコルム・ハイウェイ)から橋に向かって車を徐行させながら下っていくと、眼下に巨大な岩がいくつもごろごろと転がっていた。岩絵を多数見てきた者には、この種のツヤのある岩には、岩絵や石刻があるとピンとくるものだ。しかしここの岩が他と違うのは、ソグド文字の割合が極度に高いということだった。

 とはいえシャティアルの岩に書かれた文字はソグド文字だけではない。カローシュティー文字、ブラーフミー文字、シリア文字、パルティア文字、中世ペルシア文字、中国語、おそらくヘブライ文字も発見されているという。

 これだけの民族、とくにソグド人がシャティアルに集まってきたのはなぜだろうか。故イェットマル博士の考えでは、ここは一大交易センターだった。北方から来たソグド商人は、ここシャティアルで、カシミールやガンダーラ南部から来た商売相手と会ったのである。

 アフガニスタン東部のワハン渓谷やパキスタンのチトラルから南下する場合、ダレル川に沿って降った可能性が強い。ギルギットからだと、カルガーの大仏近くのシュコ・ガーに沿って南下し、ハンバリ川を下ってインダス川に達する。このようにシャティアルは交通の要衝であり、文明の十字路だった。

 法顕の『法顕伝』に陀歴、玄奘の『大唐西域伝』に達麗羅として登場するのはダレルのことであり、おそらくこのシャティアルである。『法顕伝』によると、この国にむかし羅漢(高僧マドゥヤーンティカ)がいた。羅漢は工匠をつれて兜率天に昇り、弥勒菩薩の妙相を観察させ、戻ると木を刻んでその像を作らせたという。玄奘もこの金色に輝く巨大な木像を目撃している。玄奘に同行した慧立(えりゅう)によれば、ダレルはウジャーナ(ウディヤーナ)の旧都だったという。旧都かどうかはともかく、ガンダーラの中心地のひとつであったことは間違いない。また高僧マドゥヤーンティカはアショーカ王即位十八年にカシュミールに派遣されている。このカシュミールとは、ダレルのことだったのかもしれない。あるいは、高僧マドゥヤーンティカがカシュミールへ行って弥勒菩薩像について学んだのかもしれない。

 ダレルがシャティアルなのか、さほど離れていないチラースなのか、はっきりしない。しかしシャティアルがソグド商人の拠点であり、巨大交易市であったことは疑う余地が無い。弥勒菩薩の木像は跡形もないが、岩には仏像の岩絵も残っているのだ。

 言うまでもなく、ソグド人の大半はゾロアスター教徒であり、一部はマニ教徒、あるいは仏教徒だった。チラースの岩絵には、ペルシア風の筆致ながら仏教的要素を描いたものが少なからずあるのだ。中央アジアではソグド語に翻訳された仏典も多く見つかっている。大乗仏教成立期におけるソグド人の役割はかなり大きなものがあっただろう。中国密教成立に寄与した不空はサマルカンド出身であり、ソグド系の可能性がある。マイトレーヤ(弥勒 Maitreya)=ミスラ神(ミトラ Mithra)という俗説もたんなる類似とは言い切れない。マイトレーヤ(弥勒)はミスラのような光明神ではないが、ミスラ神を信仰する者の多いソグド人の仏教徒が、ダレル(シャティアル)の弥勒菩薩像を作ったということは十分に考えられるのである。

 

 

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インダス川に架かるシャティアル橋。その近辺に岩がたくさんあり、ソグド文や岩絵が刻まれる。

シャティアル橋のソグド文はオスカー・フォン・ヒニューバーによってかなり解析された。

これもソグド文が刻まれた岩。

上の写真の岩にも見られるが、男性器を動物化したような不思議なものは何なのか。

カローシュティー文字主体の岩。

フンザの岩絵の人物画と似ている。ということは国王だろうか。

馬の絵は比較的多い。隊商に欠かせない存在だった。

後光のようなものが描かれているので、この人物は菩薩とみるべきだろうか。

このように破壊された岩の残骸も目に付く。この国には文化財を保護しようという気概が感じられない。

迷路もよく見られるモティーフ。永遠を表すのか。

これも不思議な図形。一種のヤントラか。

タムガス(Tamgas)という関係を象徴する図案。土砂に埋まっているので、案外古そうである。

岩絵はこの摩滅ぶりからすると相当古い。ソグド人でなければ、サカ人など他のペルシア系か。

さまざまな時代、さまざまな民族によって書かれた。左にはヒンドゥーの三叉矛が見える。

佛教画は比較的新しい。中央は巨大ストゥーパか。