3 謎の戈基人と石棺墓

 チャン(羌)族のよく知られた伝説に『羌戈大戦』というのがある。中国西北から四川西北に移り住んだ頃、土着、あるいは先住の戈基(グージー)人と激しく戦い、最終的にどうにか勝利を収めたという筋である。この戦いが実際にあったことは疑いの余地がないだろう。しかし戈基人とはどんな人々で、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。彼らの子孫は生き残っているのだろうか。

伝説の描くところによると、戈基人は、背は低いがからだは丈夫で、眉は飛び出ていて、歯は指のように太く、首は短く、毛髪は馬のたてがみのようだった。しっぽも生えていて、それが乾くと死期が近いことを悟った。牧畜も播種も知らず、火の作り方も知らず、協調の精神にも欠けていた。洞窟に住み、死期が迫ると底板のない石棺をつくり、みずから入って死を待った。

 日本でいえば土蜘蛛のようなもので、征服者の視点から徹底的に野蛮人として描かれているが、そのなかにも戈基人の姿がほのかに見えてくる。

 チャン(羌)族について付け加えておきたいのは、甲骨文字に書かれる羌族はもちろんのこと、漢代の羌族とも同一というわけではなく、共産中国の時代になって公認された、いわば羌族グループの一員にすぎないということだ。おなじ言語グループに属するプミ族とおなじくらいに羌族だ、といってもいい。プミ族が青海・甘粛のあたりから南下してきたように、チャン(羌)族も南下してきて、戈基人を攻略してその地域に住むようになったのである。

 石碩(シーシュオ)氏によると、四川西北から雲南にかけて分布する石棺葬遺跡は古代羌族が主と考えられてきたが、鄭徳坤氏は1946年に早くも否定し、戈基人と関係があるのではないかと指摘したという。すでに述べた『羌戈大戦』中に描かれる戈基人は石棺葬をおこなうが、羌族は火葬をおこなってきたからである。

 石棺葬遺跡が分布する地域は白狼夷部落が分布する地域と重なり合う。『後漢書』に載った白狼王が朝廷に献じた歌はいまもどの民族のことばなのか、論争が絶えない。ナシ語、プミ語、イ語などたくさんの言語が候補にあがったが、決め手に欠いている。しかしどの言語とも違うのではなく、どの言語でも白狼歌を説明できそうなのだ。

そうすると、石棺葬遺跡の分布=夷族(とくにナシ族、イ族)の分布=白狼王の領土、という図式が成り立ちそうである。そして戈基人=夷族、という図式も、十分成り立つ。戈基人(夷族)は北方からやってきた羌族に押し出されるように、南方へ移動していったと考えられる。戈基人は消えたのではなく、ナシ族やイ族、ラフ族、ハニ族となってさらに南方へ旅をつづけるのである。