5 天崇拝とム

 私が白水台近くの村に住むナシ族の友人と四川省のナシ族の村を訪ねたとき、村人たちと「熱い」論点となったのが、祭天(天祭り)復活だった。ナシ族を称して「祭天の民(ナシムプゾ)」というほど、天というものはナシ族にとって重要であり、祭天が死に絶えて久しいのは由々しき事態なのである。

 白水台でその傍らの村が年に一度祭天を行なうだけで、ほかのすべての地域、同地区の他の村でさえ、祭天を行なうことはないのだ。祭天の中核となるのは犠牲であり、トンバ経典にもブタ(脚の白い黒ブタがよい)やヒツジの生贄の仕方が縷々と述べられている。天神をなだめ、平安と五穀豊穣を祈るのである。

 ナシ族だけでなく、チベット・ビルマ語族のほとんどが天崇拝民族だといってもいい。チャン族やイ族、ラフ族、ハニ族、そしてもちろんチベット人も含まれる。これらの民族のほとんどが天をムと呼ぶか、ムを含む語で呼ぶ。チベット人がナムと呼ぶのは、むしろ例外的なのだ。

 そうして考えると、古代チベットやチベット周縁に出てくるムという語は、天を指す場合があるかもしれない。たとえばムタク(rMu thag)。吐蕃初代王ニェチ・ツェンポから七代目王までは死後、魂はこの縄を登って天に帰っていた。ムは古代チベット四大氏族のひとつム氏である。ということはムタクとは天縄という意であり、ム氏もまた天氏ということになるのではなかろうか。

 また四川省西北にボン教の聖山ムルド(dMu rdo)がある。この場合もムが天を意味しているかもしれない。(しかしldoに似た語は他の言語に見られない。Mu rdoという綴りなら境界石をあらわす) 四川省西北松潘県にもムルゲ(dMu dge)という知られた地名がある。いっぽうチベット自治区にはムのつく地名はほとんどない。

 ナシ族の送魂路上、最終地点に近づくと、ムのつく地名が一挙に増える。李霖燦(1984)が記録した送魂路についてはあとでくわしく述べたいが、最終地点ジュナルァラ山の前、ムルシュジズは、実在する川、無量河だ。その前はムルチコル、さらに前のムルトクプアは、木里(県)を指す。このようにムのつく地名が増えるのは、天に近づいているからではないだろうか。

 モンゴル軍が雲南を攻めたあと権力を握ったナシ族土豪は、木氏だった。元、明の時代、地元の人々が木天王と呼ぶほど木氏の力は大きかった。この木(ムー)は天を意味していたにちがいないが、そのことをあからさまにすれば、唯一の天王である皇帝にはむかうことになるにちがいなかった。またナシ族を指したモソ蛮のモソも、ム(天)ソ(人)だったかもしれない。このように、ナシ族はム(天)と関係深かったし、四川西南にはムのつく地名が多かった。

 そうなると気になるのが、敦煌文献のなかに残るピャーの使者がムの国を訪ねる箇所である。この箇所の解釈に関しては、日本(山口瑞鳳)と中国側の学者とでおおいに異なるのだ。原文を読むと、ピャー部族とム部族は二大勢力といってもいいほど権勢を分かち、婚姻関係もあったことがわかる。

 話のポイントはツァンメード(山口訳:ツァンポ江下流の谷 訳:ツァン地方下部)を出発した使者が、道に迷って悪鬼の国(Srin gi yul)に着く。そこで「(ム国なら)東南へ行け」と言われ、なんとかム国にたどりつく。山口訳では、ツァン地方のピャー国(ピャーは美称)の使者がシャンシュンのム国へ行くということになるが、原文ではム国は東南になくてはならない。チュ・ジュンジェ氏は、ム国はチベット東部にあっただろうと推測している。

 それではシャンシュンはム国ではないのだろうか。シャンシュンはどこにあるのだろうか。チュ氏はチャン・クン氏の論を引用し、「古い文献ではシャンシュンの位置は吐蕃の北部と東北部となっており、後世の文献で西部と西南部にあったとするのと矛盾する。

 しかし9世紀後半、吐蕃が混乱し、民族の移動があり、このときボン教の起源も東部から西部に移ったのではないか」と主張している。この時期カシミールのシャーマニズム的な密教の影響を受け、西部や西南から(ボン教が)輸入されたと言われ始めたのではないかという。

 ムのつく地名が四川西北および西南に数多くあること、ムが天を意味するなど、ム国がチベット東部にあったほうが、おさまりは、たしかにいい。しかしそうなるとチベット古代史を大幅に書き換えなければならないのもたしかなのだ。リンブー族はかつてチベットのことをムデン(ムの国)と呼び習わした。この場合のチベットは、やはりチベット東南部のことだろう。

 南下したチベット・ビルマ語族の視点からいえば、筋が通っている。中国西南だけでなく、ネパールのリンブー族やグルン族など、ほとんどのヒマラヤの民族もまたム(天)を奉じる人々なのである。彼らもム(天)国やその周辺から移動してきたのかもしれない。