9 ひとは三つの魂をもつ
魂はいくつあるのだろうか? という問いは、現代人には唐突に聞こえるかもしれない。しかしたとえば、Soul(魂)Spirit(精神)Mind(心)のように、人間の内面を統合する三つの要素だといえば、それほど非科学的な話ではなくなるだろう。
我々は中国にならって魂魄ということばを使う。たましいに相当するのは魂であって、魄は形骸、すなわち肉体である。別の言い方をするなら、魂は非物質なるものであり、魄は物質である。『礼記』によれば、魂=陽、魄=陰である。おなじく『礼記』によると、人は死ぬと、魂魄は分離し、魂は天へ上り、魄は地へ帰る。
『淮南子』は「形は生の捨なり、気は生の充なり、(精)神は生の制なり」と述べている。形態、生命、精神の三者が不可分の関係にあることを説いている。
中国にはまた三魂七魄という道教の典籍に好まれる観念がある。『雲笈七籖』によれば、三魂とは、第一が生命魂、第二が智慧魂、第三が欲望魂である。これは天・中間・地に対応するだろう。七魄についてはあまりはっきりしないが、死ぬと、七日で一魄が散じるので、49日で七魄すべてが散じるという。ということは、魄は単純に肉体とすべきではなく、形而上学的な、観念的な「からだ」と考えるべきだろう。
トゥチャ族など中国西南の民族にはしばしば三魂七魄が見られるが、あきらかに道教の影響である。(馬昌儀1996)モンゴル人は、魂は三つかあるいはそれ以上あると信じている。頭頂にあると考えられるのが、スルドという魂で、それが失われるとその人は死ぬ。頭頂付近にはテンゲル(tenger)という小さな孔があいていて、父なる天とダイレクトに通じている。ほかの二つの魂はアミ(ami)とスンス(suns)で、身体の七つのチャクラをたてに貫いている軸のまわりを振幅している。このふたつは転生する。チベット・インドの影響を強く受けた魂観である。
チベット・ビルマ語族の多くの民族は、魂は三つだと信じている。このことは送魂路と深く関わるので、すこし詳しく見ていきたい。
ナシ族の三つの魂は生命を維持する魂、影の魂、そして死後祖先の地へ帰っていく魂である。死ぬと、一番目の魂はなくなるが、そうすると二番目の影の魂もまた消えるというのだ。
これは私の推量だが、一番目の魂は、グルジェフやチャールズ・タートがいうところのロボット的な意識、つまり日常の習慣的な無意識に近い意識のことで、二番目の魂は覚醒した意識のことではないだろうか。この魂があってこそ我々は「生きている」という実感があるが、生命を保つ魂がなくなると、あえなく消える「影」のようなものにすぎない。三番目の魂はもっとも重要な魂である。原郷→民族移動→現在地→原郷、というサイクルを描き、輪廻転生とはちがった意味で永遠回帰を成就するのだ。
雲南イ族の三魂は、家で霊牌を守る魂、墓を守る魂、陰間(祖先の地)へ行く魂である。家の中や墓場にいる魂なんて、浮かばれずに彷徨する霊みたいだが、彼らにとっては三番目の魂が陰間へ向かっていかないと、それこそ浮遊霊になってしまうのだ。陰間は永遠の休息地である。
しかし巴莫阿依氏の見解では、そこが最終目的地ではなく、母胎に魂は投じられ、転生するという。のちに述べるように、インド・ネパール国境地帯のラン族(ビャンス族)と同様である。
四川大凉山イ族の三魂は、墓場を守る愚かな魂ナゲ、祖先の地へ帰る賢い魂ナイ、風のように自由な、愚かでも賢くもない魂ナジである。貴州イ族もまた三魂は、宗祠にとどまる魂、火葬場を守る魂、ミニ(大方県イ族の祖先の地)へ行く魂であり、イ族の霊魂観はだいたい同じようなものである。
イ族は魂をイと呼び、水をたてにならべて中間に横線を引いたような彝文字をあてるが、この文字には、霊魂のほかに影、像、名の意味がある。影が魂の比喩であるのはナシ族とおなじだ。イ族の古文献には、「太陽が出て、影が生まれた。日が赤々と出て、影から魂が生まれた」「世に影があり、霊魂が出現した」「あなたとともに影があるということは、魂があるということだ」「影が見えないということは、霊魂は西天(西方浄土)へ行ったということだ」など影が魂そのもののように語られている。わが国でも「ひとの影を踏んではいけない」と言うのは似た感覚なのかもしれない。(巴莫阿依 1994)
リス族もイ族とほぼ同様の霊魂をもち、墓場を守る魂、家のなかの宗祠を守る魂、そして冥界か天上へ行く魂の三魂を信じる。最初の魂は、お供え物が十分でないと、浮遊霊となり、人や家畜に害を与える。二番目の魂に関しても、きちんと祭らないと、外に出て、浮遊霊や白虎精と化して戻ってきて害をもたらす。三番目の魂が無事に旅をつづけるために、矢を放って妨げる餓鬼を殺さなければならない。
アチャン族の三魂も同様で、墓場へ行く魂、家の中で祭られる祖先魂、「鬼王」のところへ送られる魂の三つである。
プミ族の三魂のうち、ひとつは遺灰(骨の灰)を埋めた公共墓地である缶缶山へ送られる。そこでハングイ(プミ族祭司)は灰の痕跡を見て、亡魂が転生したか、どこかの家に生まれ変わったかを知る。二番目の魂は家のなかの囲炉裏のそばに行く。三番目はずっと北方の大雪山の上の祖先の地へ帰る。
ドゥロン族の霊魂観は違っていて、生きているときの魂ブラと死後変じたアシのふたつである。ブラはチベット語の魂ラ(bla)とあきらかに同源である。ちなみにアシに相当するチベット語はナムシェ(rnam shes)。ドゥロン族は、ブラはひとつではなく、九つだともいう。ひとつでも欠ければ人は気分が悪くなり、たくさん欠けると病気になる。シャーマンがそれらを取り返せば病はよくなるが、すべてを失うと、死んでしまうのだ。この九つの魂という観念は、ネパールのタマン族やニンバ族も同様に持っている。
ジノー族は命運を司る女神ピモが男に九つ、女に七つの魂を与えたと信じている。前述のように9と7は男と女を表す(おそらく聖なる数)が、魂の数までそれにならうというのはどうしてだろうか。三つの魂は「よい魂」で、別の三つの魂は「悪い魂」だという。(残る一つないし三つは中間だろう)もし「よい魂」が悪鬼に襲われ、食われてしまったら、その人は死んでしまう。
上述のようにネパールのタマン族は九つの魂をもつと信じている。ドゥロン族と同様ブラと発音し、チベット語の原形といえる。ブラには影という意味合いもあり、ナシ族やイ族と同様の観念をもっているとみられる。驚いただけでもブラが失踪することがある。
ブラがなくなると、ソ(生命力。チベット語ではsog)も失われ、病気になり、死に至る。なぜ九つなのかははっきりしないが、九という数字は吉祥の数字なのである。言葉だけでなく、霊魂観に関しても、タマン族やドゥロン族にチベットの原形を見ることができるようだ。(Holmberg 1989)