11 モソの夢経とチベットの死者の書

モソ(自称ナズ)は言語的にも文化的にもきわめてナシ族に近いため、当然ナシ族支系という扱いを受け、「女国」「走婚(通い婚)」といったキャッチフレーズばかりが躍っているように思われる。宗教祭司のダパも、ナシ族のトンバと比べ絵文字をもたないぶん、下に見られる傾向がある。

 しかしたとえば臨終の際にダパのよむ「夢経(ジム・クァ)」は、モソのまれなる死生観を物語っていて、たんなるトンバの類似品ですますわけにはいかない。題のジム・クァは悪い夢、不吉な夢、といった意味で、内容も人を底知れない不安に落とすような悪夢そのものである。

<天空は無辺でゆるぎないのに、夢の中で青空が倒れてくる。大地は広く堅固なのに、夢の中で足もとが割れる。人の身体はしっかりしているのに、夢に中では風に揺れる。

そういった日常的に見る悪夢とかわらない薄気味悪いフレーズが延々と続く。死におもむくときにこんな不安にさせる詩をうたうべきなのだろうか。バルド・トゥドル、いわゆる「チベット死者の書」が中有(バルド)の間に、魂をより高いところへ導くためによまれるのと大いに異なるではないか。

 しかし思うに、死と夢を同一ととらえるモソの死生観(それはチベット・ビルマ語族の死生観だ)があってこそ、「チベット死者の書」が成り立ちえたのではないかと思える。エヴァンス・ヴェンツの『チベット死者の書』がベストセラーになったのも、米国などでドラッグ文化がさかんになった時期であり、LSDが引き起こす幻覚や夢の世界が同書に描かれる世界を連想させたからにほかならない。

夢経はおなじ調子で後半に入り、<夢の中で、夏なのに雪を食べ、年月は有り余り、昼と夜が逆転する>とつづき、<夢の中で、祖先の起源地に長寿樹があり、長寿樹の下で涼をとる。奇怪な夢を見たので、占いをするが、結果は出ない。

 これらの夢を見たのでダパに身にまとわりついた魔鬼を祓う儀礼をひらくようお願いする。精霊に守ってもらうよう祭ってもらう。寿命は尽きているので、心安らかに、はるか遠くの祖霊に迎えてもらおう>と、終結する。魂は祖先の生まれた場所へたどり着き、悪夢から脱却するのである。

 モソは夢の世界と死の世界は非常に近いものと考え、夢の中で祖先と会うことができると信じている。もし夢の中で魔物に拉致されたら、魂が肉体から離脱したのとおなじであり、その人は病気になるか、死んでしまうだろう。ここに至ると、モンローの幽体離脱とかなり近いといえる。