2 ナシ族の葬送儀礼

 ひとつの空間でお坊さんたちとシャーマンがそれぞれの儀礼を同時に遂行している図はなんとも奇妙である。お坊さん、というのは具体的には一山越えた村のチベット仏教ゲルク派の寺に属する僧侶で、民族的にはモソ(ナシ族支系)だ。シャーマンというのはボン教の影響が濃い民間宗教祭司トンバである。

  故人の家に入ると中庭に牛がつながれていた。牛には麻糸が結び付けられていて、ピンと張られた糸は正房を横切って、裏側の床の穴に安置された遺体に結び付けられていた。遺体は白い麻布でぐるぐる巻きにされ、胎児のような体勢をとっていた。しばらくして牛は家の裏手に広がる空き地へ牽かれていき、屠殺人によって殺された。牛は故人のお供をするのか、あるいは冥界への道中、お金のかわりに使われるのか、いずれにしても生贄である。僧侶は当然関わることができない。牛が殺される頃、家の形をした棺桶が親戚によって作られ、四面の絵は故人の甥にあたる青年が描いていた。正面の似顔絵は、チベット風の帽子をかぶり、いきいきとしていた。

僧侶らは正門を入ってすぐ右の建物の二階に陣取り、祭壇をこしらえて、読経と儀礼をおこなった。午後しばらくたって、正房に入り、火塘(いろり)のまわりで経を唱え始めた。正房というのは、手前半分は土間、奥の半分は壇上のように高くなっていて、火塘もその中央に設置されている。そこへトンバが入ってきて、土間で絵文字のトンバ経典をもち、ちらちらと見ながらよむのである。ときおり念経の声にかき消されまいとするかのようにトンバは声を張り上げた。

 暗くなる前に僧侶たちは寺院へ戻っていった。日没後、火塘にくすぶるおき火だけの暗がりのなかで、トンバは死者のために舞いを舞った。動物舞いと思われるが、具体的に何の舞いかはわからなかった。トンバには何かが乗り移ったかのようで、鬼気迫るものがあった。死者の霊のようなものをもっとも感じたのはこのときだった。

 そのあと家から外に出て、親戚縁者の男たちが紙製の兜をかぶり、紙製の剣をもち、かがり火のまわりを素っ頓狂な声をあげながら、踊り、回った。重苦しい空気は吹っ飛んで、無礼講的な享楽の時間がはじまったのである。厳粛なまま終わる日本の葬式とはずいぶん異なるのだ。

 二日目の朝、洗馬儀式がおこなわれた。数匹の馬が五色の紙飾りに彩られ、湖畔に牽いてこられる。トンバと助手ふたり(見習いの十代の兄弟)は神杖をもち、太鼓を叩きながら、経文を唱える。親戚縁者だけでなく、近所界隈の人々数十人もあつまり、しだいに期待感が高まっていく。

 半時間ほどして一匹の馬がブルブルっと震えると、人々のあいだから「おおっ」というどよめきが起きた。故人の霊が馬に乗ったのである。騎馬に選ばれた馬は牽かれて火葬場とのあいだを三度回る。楊福泉氏によれば、この儀式は敦煌文献に記録されている古代チベットでおこなわれた馬の生贄の名残だという。しかしもしかすると古代羌族の風習の名残かもしれない。

 麗江などほかの地区では、葬送儀礼のとき牛だけでなく、羊やニワトリが生贄にされることがある。とくに羊に関しては、民族の起源を探る場合、重要である。

 最終日の朝、いよいよ遺体は家型の棺に入れられたまま、村から2、3キロ離れた森の中の火葬場に運ばれる。遺族らは長い白い麻布をかかげて行進するが、女性は村から出ることが許されていないので、激しく慟哭しながら路上に崩れ落ち、脱落していった。

 この日はトンバも参加していない。火葬場で待ち構えているのは僧侶たちである。彼らは地面に曼荼羅を色の付いた砂で描き、そのうえに松枝の薪を九段に組んだ枠を置く。そして白の麻布を巻いたミイラのような遺体を棺から取り出し、その枠のなかに入れる。僧侶たちはそこから10メートル離れたところに祭壇を作り、年長の僧侶たちは五仏冠をかぶる。読経などの儀式を終えると、いよいよ点火され、遺体の収められた枠は激しく燃え上がるのだった。