5 最後の秘境、俄亜(オーヤ)村へ

「秘境」という観光用語は使いたくはないが、途中の峠で季節外れ(四月下旬)の大雪に見舞われ、あやうく遭難しそうになり、また目的地の村に一妻多夫や女性の通い婚などの奇異な風習が残っていれば、そういう言葉を冠したくもなるだろう。前世紀前半、探険家でもあったジョセフ・ロックでさえ、向かう途中に怪我を負い、オーヤ村の重要性を熟知しながら断念した。中国の民族学者四人も80年代初頭にはじめて訪れたとき、ひとりは骨折、ひとりは脳震盪、ひとりは腰の筋違え、と惨憺たるありさまだったという。(宋兆麟 2003

 なぜオーヤ村が社会人類学のオープンミュージアムのようになったかといえば、その歴史とおおいに関係がある。明代、麗江の木土司は実質小さな国の王といってもいいくらい地域で権力をふるっていた。木土司の管家にワホカジャという者があり、毎年秋になると猟師一同を連れてオーヤあたりに狩りに入り、春、獲物とともに麗江に戻ってきていた。あるとき詳しい経緯はわからないが、ワホカジャは木土司の許可を得て、牧畜や馬の飼育を専門とする人などを連れてオーヤに移り住んだ。このときトンバ・ドタというトンバ(宗教祭司)を連れていたことがのち意味をもってくる。

 明代嘉靖(15221566)から万暦にかけて(15731620)木土司は明朝の支持のもとチベットと何度も戦火を交えた。オーヤ村はその最前線であり、領土拡張の起点となるはずだった。

 ワホカジャの後裔はムクァ(木官の訛ったもの)と呼ばれ、近年までオーヤ村では首長のような役割をもっていた。私はこの家を何度か訪ねたが、共産中国になってからの落ちぶれぶりは著しく、裕福な一族であっただけに、その落差をまのあたりにして目頭を熱くした。

 チベット文化の影響を強く受けながらも、元朝や明朝の庇護下に入ることによって生き残りをはかってきた木氏にとって、都の麗江の漢化は避けがたかった。社会形態やトンバを中心とする特異な宗教文化が変容しながらも発展するなかで、オーヤ村はいわば忘れられた存在だった。一妻多夫、一夫多妻、二夫三妻などの兄弟姉妹婚、交差いとこ婚、男の、あるいは女の通い婚など、社会人類学者ならば奮い立たずにはいられないような古風の社会制度を残しているのはそのためである。トンバの宗教活動もまた他地域で失われたものが数多く残されているのではないかと思う。現在12人のトンバが現存しているといわれるが、私が訪ねたときも新築を祝うトンバたちの宗教儀礼が日常的な行事としておこなわれていた。

ただ最近も、私はオーヤ村のトンバが宗教儀礼で使用する道具をトンバ自身がある博物館で売却している場面に出会った。博物館だからまだいいものの、文化的価値のある財産が流出するのは避けられない状況にある。外部から通じる道路がなく、貧困を打破する方法がないためである。

 発展から取り残されていることが、古い文化を残すのに役立っている面がある。送魂路に関しても、より古いものが残っているはずだ。

 

 オーヤ・アナワ村→ チャコムツドゥ(火葬場)→ ブルトズメ(東義河下流)→ …… → ムルスジメ(無量河下流)→ …… → 樹(ス)氏発祥地 → 楊(ヤ)氏発祥地 → 和(ホ)氏発祥地 → 梅(メ)氏発祥地 → …… → ムルルツェス(ナシ族発祥地)→ …… → ジュナロロク(山麓) → ジュナロロトゥ(山中腹) → ジュナロロカ(山頂) → ズンズブルク

 

 東義河、無量河は実在する川であり、それを北上するということは、四川西北方面へ向かって遡るということだ。しかしこれらの川から先の地名はほとんど特定されず、青海省へ向かっているのだろうと想像されるにすぎない。

 白地(雲南省北部の白水台あたり)の祭天のなかで「ゴロォが来た!」と叫ぶ場面がある。彼ら自身由来がわからなくなっているが、このゴロォは青海省のチベット人ゴロクのことであり、周辺の民族に恐れられてきた。そういうことからも、ナシ族は青海省から来たのではないかと考えられるのである。またナシ族を構成する主要四氏族の発祥地が別々であることから、四川西北か青海あたりの四つの部落がひとつにまとまったのではないかと推察することができる。

 そしてナシ族発祥の地がムルルツェスである。始祖ツォゼリウが天宮のチュラアポからツェフボボを娶って住んだのがムルルツェスなのだ。おそらくここが天にもっとも近い村であり、祖先らの住む楽園なのだろう。そして地上と天宮を結ぶ階梯の役割をもち、宇宙山でもあるのがジュナロロ(ジュナルァラ)山なのだ。最終地点のズンズブルクに関しては、いままでの調査報告に載っていないため、はっきりとはわからないが、天宮のことを指すのではあるまいか。