8 北上しないイ族の送魂路
ナシ族やモソの送魂路が北へ向かっているのと比べ、イ族の送魂路は雲南北東部の昭通や雲南中央の昆明など、さほど遠くないところへ伸びている。なにか根本的にちがうのだろうか。イ族は古代羌族の末裔ではないのだろうか。
考えられるのは、イ族の先祖の南下があまりにも古いできごとで、民族のアイデンティティ形成はそれと比べるとわりあい最近の(といっても二千年以上前だが)ことにすぎないのだ。民族発祥のことをイ族は「六祖分支」と呼び習わしている。ある時期、ひとりの英雄的な始祖の部落が分裂し、六つの部落に分かれたというのだ。送魂路を遡ると、分裂した地点、すなわち始祖の部落に行き着くということになる。
四川塩辺県イ族の送魂路を見てみよう。
家 → ボスワト(塩辺県岩門郷) → (塩辺県各地)→ オジョシュモ(西昌Qiong海)→ …… → ルウナビ → …… → リムモグ → …… → ムニルジ → ティチョムア → …… → ティトゥゴオ → グルガル(祖先の地)
オジョシュモのオジョは現在も四川イ族の中心都市である西昌を指し、キョウ(Qiong)海は郊外にある湖のことだ。『史記』に、西域に派遣された張騫が現在のアフガニスタンと思われる大夏でキョウの竹杖を発見して驚いたというくだりがあるが、当時すでに西昌は交易の中心地でおおきな町であったことがうかがわれる。
ルウナビに関しては、「生死はここで分かれ、死者はそのまま進み、生者はもどる」という。ルウナビは実在する場所であるのに、なかば観念的な存在になっているのである。リムモグもおなじように生死を分かつとしているが、つづけて、古侯(グホ)は左の道を、曲侯(チョニ)は右の道を進む、という。グホとチョニは、六祖のうちの二部落なのだ。ムニルジに着くと、グホの馬は休み、チョニの馬は水を飲む。ティチョムアでは、ドゥブが馬の鞍を下ろし、ドゥスが馬に水を飲ませる。ドゥブとドゥスはイ族の祖先部落であり、このあといくつかそれと関連した地名が列挙される。
最後のティトゥゴオは、古代史書に書かれた朱提とおなじであり、現在の昭通ではないかと見られている。古代イ族の大部落が昭通近辺にあったことを物語っているようだ。ティトィゴオを出た段階ではまだ生の世界へもどることができる。冥界の門前までやってきて引き返すことがいかに多かったかを物語っているだろう。しかし大半は先導する犬のあとを歩いて、祖先のいる地グルガル(Gulugaru)へ入っていくのである。そこで死者は銀の器の食べ物を食べ、金の桶に入った水を飲む。あの世のものを口に入れたら、もうこの世へはもどれないのである。
四川普格県や喜徳県、美姑県のイ族の送魂路は、塩辺県の送魂路と多くの点で共通している。祖先のいる地へたどりつく前に、アリユチュ(普格)やマロユトゥ(喜徳)という泉のある場所に立ち寄る。中央民族学院の調査では、昭通の北西数十キロのところに実在する泉だという。ここで亡魂は三口、水を飲む。
そのあと普格バージョンでは(儀礼に使う)布と塩において、白と黒の選択を迫られる。白を選べば生者の世界へもどるべきだし、死者は黒を選んで先へ進むべきなのだ。美姑バージョンでは道が三つに分かれる。右の赤い道、中間の白い道、左の黄色い道から中間の道を選ばなければならない。喜徳バージョンでも同様の三つ又道があらわれるが、それは路線の最後である。
そして祖先の住む地、あるいはその手前の場所にたどりつく。モムグル(普格)モムプグ(喜徳)ユボリティとングムアプ(美姑)である。美姑バージョンのユボリティは水源という意味であり、四川西北の岷江や青海省の黄河の河源ではないかと期待してしまうが、はっきりしない。
普格バージョンのモムグルは具体的に描かれている。
<モムグルはとてもすばらしいところだ。家の前には穂が波打ち、稲を結び、稲穂は金色に輝く。家の後ろも葉が海のようになびき、蕎麦の実を結び、蕎麦は金色に輝く。ここには水があり、水の中には魚が躍っている。ここには山があり、獣たちが群れをなしている。山には崖があり、蜂蜜が垂れ下がっている。平地では稲を植え、丘では蕎麦を撒き、高地では放牧し、山では狩りをし、崖では蜜を採る。あなたのお父さんがいて、男の子は父の前で遊び、女の子は母の前で遊ぶ。これからはずっとあなたはここに住むのだ。>
モムグルのモは天、ムは地、グルは中間を意味する。民族史詩の『レオテイ』によればモムグルとツツプウはおなじであり、昭通を指す。昭通は天と地のあいだの、いわば世界の中心であり、六祖が分かれた聖地なのである。もっとも、いま昭通に行ったところで、そこはよくある地方中都市にすぎない。モムグルとは、民族の集合意識のなかに残った三千年前の美化された、聖化された町なのである。