12 ラフ族の原郷ミニトコ

 前に述べたように雲南南部で出会ったラフ族は自らをムッソーと名乗り、古代においてモソ蛮に属していた名残ではないかと推定した。

 南北朝以降、叟部落や昆明部落からラフ族の祖先と思われる鍋ツオ(鉄偏に坐)が分岐し、明代頃からグツォン(古宗、苦聡などの字を当てる)と呼ばれるようになる。いまも雲南の南境には鍋庄(グォチュアン)と呼ばれるラフ族支系が存在している。ややこしい話だが、雲南北部中甸県(現・シャングリラ県)のチベット族はナシ族や白族からグズと呼ばれている。グズはグツォンが訛ったものだ。さらに気になるのは四川西南にグチョンというカムパの一種が分布していることだ。これらはたまたま似ているのだろうか。推察するに、グツォンやグチョン、グズなどの呼称はある大集団を漠然と指していた。これらのなかからラフ族が分岐し、ある一派はチベット化したのだ。いまもラフ族の自称にコツォという語が残っているという。

 ラフ族はひとが病気になると、モパ(祭司)によって招魂儀礼がおこなわれる。魂樹として栗の木が選ばれ、それを削って7段の魂梯が作られる。このときモパは招魂歌を歌いながら、民族移動経路に沿って天神ウサの住む所ミニトコへ飛翔するのである。察するに、重病人の魂は死者の道を歩み始めているので、あの世に入る前にとらえて連れ戻そうというのではなかろうか。ナシ族の祖霊儀礼とおなじく、送魂とは逆に、終点から地名を列挙し、家に戻ってくる。つぎに民族移動に関する民間伝承を挙げるが、「招魂路」とほぼ同じと考えていい。

 

 <ラフ族がもっとも早くに住んでいた場所はミニトコという。赤土の高原ないし高山という意味である。そのまわりにノヘシュポという塩を含む大きな湖があった。彼らはその後ペティナティという大きな部落を建てた。そこには漢族の姿もあった。ラフ族も漢族もそれぞれの首領のもとに生活していた。しかし人口増加に伴い戦争が勃発し、敗れたラフ族はそこを離れ、長い旅に出た。彼らは土地の豊かなアウォアカという山を発見した。そこでいい暮らしをしていたが、またも(中央政府に)圧迫されてそこを離れ、コマシコチ・ロマシロチ(九山と七水が交わるところ)を経て、現在のムミェ・ミミェ(臨滄県)にたどりついた。>

『ラフ族文化史』(1999)によれば、ノヘシュポは、ムニシュショク・ロパシュショク(太陽と月が沐浴する場所)のことで、青海湖をあらわす。プチナチ(ペティナティ)のプチは青海省大柴旦(ツァイダム)地区、ナチはゴルムド市だという。アウォアカトは四川西昌、プロシロは金沙江のことである。この地名の比定作業がどの程度たしかなのかはわからないが、多くの送魂路や神話、伝承が青海省あたりからラフ族の祖先が南下してきたことを裏付けてくれるだろう。