13 民族移動を文化に高めたハニ族
ハニ族のいわば過去(祖先)から現在(生きている自分たち)を経て、未来(子孫)へとつながっていく感覚は、祖先崇拝というような一言ではあらわせない。
前述のように、老人が死ぬとき、最期の一息を子どもが受け継ぐという習俗がある。これをサツェパという。サツェパの「サ」は、気息であり命である。チベット語のソク(srog)と同源だろう。ツェは断つこと。「パ」はしっかり支えること。元陽県のある村では、孝子(通常は長男)は老父の首を抱きかかえるようにして持ち上げ、最期の息を吐かせる。孝子は袖に、あるいは自分の口に吹きかけさせ、それを受け取るのである。
紅河県のある村では、孝子が老父の最期の一息を左手で掬い取り、米櫃や箱のなかに入れて、保存する。もちろん象徴的にではあるが。人間は一生の間に10億回呼吸するとして、その最期の一呼吸はその人の一生を代表してもいる。
こういった死生観をもつハニ族に民族移動を取り入れた史詩が発達しても驚くことではないだろう。『アペツォンポポ』や『ヤニヤガツェンガ』『プガナガ』をはじめ民族がどのようにして現在の場所へ至ったかを記した神話伝承がじつにたくさんあるのだ。
神話伝承の移動経路とイァラ(亡魂)を祖先の地へ送るツォボチュ儀礼の際によまれる送魂路とはかならずしも一致しない。しかしそれは多くの民族においても同様のことが言えるわけで、本来は一致していたはずなのである。
『アペツォンポポ』によると、ハニ族の祖先がもっとも早く居住していたのは、はるか北方のフニフナ(バヤンカラ山脈か黄河長江の源流地帯)だという。フニフナとは赤い石と黒い石が混じってうずたかくなったものを意味する。人口が増加し、食料が不足したため、彼らは南へ移動し、水草が豊かなシェスィ湖(四川西北と青海の間)のほとりに住んだ。
その後森林火災などの自然災害にみまわれ、竹林のあるガルガツェ(四川西北)に移った。しかし先住のアツォ人との関係が悪くなり、雨が多く温暖な谷、ロロプチュ(四川西北)に移動した。アツォ人やプニ人との交流はさかんだった。ところがそこでも疫病が発生し、死者がたくさん出たため、大河を渡ってさらに南へ向かい、ふたつの河に囲まれた平原ノマアミ(四川西南)にたどり着いた。そこで農業を発達させ、ゆたかな暮らしを得た。が、ラポ人の侵略を受け、敗れてセウツォニャ(大理)という平原に逃げる。
そこでの戦いを避けるため、さらに東のグハミチャ(昆明)へ。先住のプニ人の許可を得て、グハミチャに住むようになる。しかしハニ族の人口が増え、栄えてくると、プニ人と衝突し、またも南方へ。ナト(通海県)、スチ(石屏県)などを経て、彼らは現在の哀牢山地区に至ったのである。(地名の比定は王清華氏の論文を基礎とした)
葬送のツォボチェ儀礼ではイァラ(亡魂)は祖先らのつどう場所、ダチュアへと導かれる。このダチュアはロロプチュであろうと考えられている。民族の記憶のなかでもっとも幸福で満ち足りた生活を送ったのが、ロロプチュであり、祖先がつどうべき場所なのである。