15 謎を解く送魂路:ヌー族
中国の50余りの認定された少数民族のなかでもっとも複雑で、わかりにくい民族がヌー族だろう。ヌー族は四つの支系、すなわちアロン、アヌ、ヌス、ロル(Ruo rou)に分けられる。これらは言語学的にいえば別々の民族といってもいい。なぜそんなバラバラの民族が束ねられうるかといえば、楊浚氏の説によると「怒子(ヌー族)はリス族が怒江に入る前、怒江、あるいはランツァン江(メコン河上流)沿岸にすでにいた人々の総称」だからである。
アロンとドゥロン族は語彙も60%が一致し、ほぼおなじ民族だといえる。かえってほかのヌー族との差のほうが大きい。またアヌは土着民族と外来民族のミックスだという。ある家譜によれば始祖はポラチンという名で、玉皇大帝の娘と結婚し、現在の直系の子孫は28代目だという。玉皇大帝という名前が出てくるだけで、この伝承の信用性が失われてしまう。民族移動を示す手がかりも得られない。
ヌスもまた土着と外来の混合だが、ヌスはノス、ナス、ナシなどとおなじく「黒(大)」+「人」の意であり、父子連名もみられることから、イ族に近いといえるだろう。伝説によれば、天上からやってきた蜂の群れが蛟(みずち)と交配し、ヌー族の女始祖ムンチョンインが生まれた。ムンチョンインは長じて虎、蜂、蛇、キョン、アカシカ等の氏族と交わった。蜂氏族の家譜をみると現在は6代目である。4代で百年とすれば1500年以上もこの氏族はつづいているということになる。
彼らトーテムを奉ずる人々にも民族移動の痕跡は見当たらないが、おなじヌスのなかでも、たとえば甲努(ジャヌ)村のラジョ氏は蘭坪県(プミ族の分布の西南端)営盤街ラグディのレム人(白族支系)だったという伝承をもつ。彼らの祖先は村のなかの戦いに敗れ、首領ラゾムに率いられて、山を越えて逃げる。着く場所ごとに雄鶏を天にささげ占うが、なかなか吉と出ない。
ようやく山の中腹の蝋牛氏族の土地を見出すものの、当然、蝋牛氏族との間に争いが起こった。蘭坪土司の仲裁で土地の一部が与えられることになり、彼らは定住し、言語や習慣を蝋牛氏族から学んだ。これは、二百数十年前に実際に起こったできごとである。
甲努ヌー族(上述の人々の子孫)の送魂歌は蘭坪から現在地点までの移動を遡るものと考えていい。送魂路の終点は蘭坪県石登の小格拉、大格拉である。おそらく終点は移動する前の村にもっとも近い聖地であり、そこから天上の祖先のつどう場所へ行けるのではないだろうか。
ロルの出身地に関してもさまざまな説があるが、永勝県のイ族支系ランウォ人と言語も習俗もおどろくほど近い、という発見があった。(李道生説)ランウォ人自身、イ族とみなされているがイ族ではないと主張している。彼らはアチャン族とおなじく、古浪峨(ロンウォ)人の後裔なのだ。ロルの「引路歌」も送魂路を示している。
ウォピ(峨皮)→ ジャンモ → ピディナ → トウォ(兔峨)→ …… → 大華 → 大休息所 → 大華小休息所 → オルプ山
このオルプ山がどこにあるのかはわからないが、永勝県のランウォ人の村よりはるか北方であることはまちがいない。四川か、あるいは青海省方面にまで遡れるかもしれない。