17 気宇壮大な神話:ジンポー族

 ジンポー族の人類誕生から祖先の長い移動を経て現在の地点に至る話はスケールが大きく、もし正確であるなら(つまり後世の創作である可能性を捨てきれないが)チベット・ビルマ語族の歴史の空白部分が一挙に埋められるのだ。

『景頗族創世史話』(童栄雲2001)を参考にジンポー族の歴史をまとめてみたい。

 

<地球形成後1656年、全表面が水没するほどの大洪水が発生した。人類祖先キン・セン・シャブラン(Hking Seng shabrang)の一家は木鼓に乗って助かり、アララト山(Ara rat Bum)に漂着した。アララト山の頂上は平らなので、生存には適していて、人類は繁栄した。この山の別名はパミラ・ブム・ガ(Pamira Bum Ga)すなわち目玉の大きさで貴い平頂の山、あるいはニクルム・チュングイ・マウ(Nyik lum Chyunghui Mau)すなわち肝臓をおなじくする同祖の地方ともいう。

 人類祖先キン・セン・シャブランから長男の黄色人種が分かれ、アシャ・ダン(Asha Dan)に住んだ。二男の黒色人種が分かれ、アープリガ・ダン(Ahpriga Dan)に住んだ。三男の白人種が分かれ、ウロパ・ダン(Uropa Dan)に住んだ。これらは紀元前22世紀から21世紀頃に起きた。

 紀元前221年頃、黄色人種の子孫、羌族の一支であるジンポー族の祖先がモンゴリヤ(Monggo Liya)を出発し、マジョイ・シングラ・ガジ(Majoi Shingra gaji)またの名ケンコ・マジョイ(Hkyen hko majoi)すなわち氷と雪の地方に移った。もうひとつの別名はジンルム・ピピッ・マウ(Jinlum pyi pyit mau)すなわち腎臓のような形をして横断山脈にはさまれた地である。

 マジョイ・シングラはポチュ・サンセ・マウ(Hpokyu Sangse Mau)すなわち落ち葉がうずたかく積もる場所ともいう。またヌトッ・ジャラ・マシャニ(Ntot Jara masha ni)すなわち門の外に雪が積もっているところに住む人々(ヌトッ氏族)をあらわす。ヌトッ氏族は劣悪な環境を抜け出し、マジョイ・ティンケ(Majoi Tingke)そしてブムライ・ケッ(Bumlai hkyet)山の峠にたどりついた。ここは有名なヤルツァンポ河の大峡谷である。

 峡谷を渡ることができたのはイタチだけだった。木に登り、つる伝いに渡ったのである。ヌトッ氏族の首領シャワ・ガム・モン(Shawa Gam Mon)は「木を切って橋を作ればいいのではないか」と提案した。ヌトッ氏族の兄弟たちはこの危険な橋を渡るとき、叫び声をあげたが、その声によって名前がついた。

 長男マリプ(Marip)部落、二男ラト(Lahto)部落、三男ラパイ(Lahpai)部落、四男マツォ(Matso)部落、五男マラン(Maran)部落の名前はこうしてできた。

 紀元100年頃、ヌトッ氏族の祖先はヤルツァンポ峡谷を渡り、ミャンマー、中印が接する辺境地区マリク・マジョイ(Mali hku majoi)に達した。マリカ川源流地域という意味である。ここはマリ・ティンケ(Mali Tingke)すなわちマリ小峡谷ともいう。あるいはフドン・ヤンダン・マウ(Hudung Yangdan Mau)すなわち源流茅草平原とも、シンジム・ヤン(Shinggyim Yang)すなわち人類繁栄可能な高原ともいう。これにちなみヌトッ氏族はシンジム氏族とも呼ばれる。マリク・マジョイ、すなわちシンジム・ヤンは古代ジンポー族が発展した最初の場所だった。

長くマリク・マジョイに住んだあと、ふたたび移動をはじめた。マリカ川やマリク・プンノン沼(Mali hku hpung Non)を渡り、大草原に出た。ナンジェ・パ草原(Nanje Pa)である。ここに住んだのは、隋、唐代にあたる。

 そのあとまた移動を開始し、カバッ・ダン(Kabat Dan)などを経て、パンカイ・ガ(Pang hkai Ga)すなわち大草原に着き、開墾した。さらにいくつかの土地を経て、最終的にヌコン・ヤン(Nhkong Yang)に落ち着いた。ここには長く住んだ。>

 

 以上はジンポー族の起源地から現在地に至る移動の伝承である。時期がこまかすぎるなど、手が加えられたという印象はぬぐえないが、モンゴルから青海・甘粛を通ってチベット自治区東部を南下し、ヒマラヤ山脈にあたると東へ転じ、ミャンマー北部を南下したということは、おそらく民族の総意といってもいいだろう。

大半はイラワジ川上流を南下するが、一部はずっと東へ進み、怒江(サルウィン川上流)東岸にまで達している。徳宏州盈江県崩董の送魂路は、そこ(現・雲竜県)から西へ進み、ミャンマー域内を西から南へカーブするように下り、ふたたび中国内に入った路線があったことを示している。下の路線の地名の大半はミャンマー国内なので、ここでは省略した。

 

崩董 → 瓦翁崩 → …… → サドン( Sadung ミャンマー)→ …… → 怒江水頭 → 蝋孟

 

送魂路は数千年にわたる民族の移動ではなく、長くとどまっていた場所から現在地へ至るたかだか数百年の移動しか反映しないことがわかる。怒江水頭や蝋孟は一定期間、ジンポー族の中心地のひとつであったと思われる。やはり祖先のつどう場所として聖化されたはずであるが、人々の記憶から現在はほとんど消えかかってしまっている。