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 ジェレミア・レイノルズはオハイオ州ウィルミントンの若い新聞編集者だった。彼はシムズの講演を聞き、信奉者になった。そして最終的にシムズの講演ツアーに参加し、マネージャーとなり、共同講演者ともなった。いっしょに全国ツアーに出た。

 しかしふたりは仲たがいすることになる。争いの元となったのは、地球空洞説そのものだった。レイノルズはこの説を信じてはいたものの(少なくとも可能性はあると思っていた)が、彼にとってしだいに重要ではなくなっていった。極地探検のほうがもっと重要だと彼は感じるようになっていた。科学の発展や商業上の利益、国の威信のために極地探検すべきと考えたのである。一方のシムズは、極地に穴があるという理論を下ろすつもりはなかった。パートナーシップは壊れ、ふたりはライバルになり、それぞれ自説を眼目として講演をおこなった。同じ日にマンハッタンで別々に、競うように講演をおこなったこともあった。

 シムズは自分の理論のあくなき戦士だった。しかし長旅は彼の健康をむしばんでいた。1827年に彼は倒れ、講演活動や執筆をつづけることができなくなった。探求の日々は終焉を迎えた。

 レイノルズはマントル説を提唱した。彼は極地探検の主要提唱者として多くの場所で講演をおこない、多くの聴衆を集めた。講演者としてはシムズよりもうまかった。はっきりとわかりやすく話し、ユーモアのセンスも持っていた。地球空洞説に言及することはほとんどなかった。彼のテーマは極地遠征の必要性だった。

 彼はまた南極地方についてのレポートを書いた。そこに行ったことのある人々、たとえば捕鯨船やアザラシ狩り船の船長などへのインタビューがそのもとになっていた。最終的に彼は政府から遠征の費用を出させることに成功した。ジョン・クインシー・アダムス大統領が遠征を支持したのである。海軍のスループ艦が適していた。プランは実行されようとしていた。しかし不運なことに、アダムスは再選されなかった。プロジェクトも潰えてしまったのである。

 しかしレイノルズの信念はかたかった。いまや私的な事業をつづけることになってしまったが、遠征の資金面を支えるグループを集めることができた。1829年10月には三隻の船――アンナワン号、セラフ号、ペンギン号――が南極に向けて出航した。彼らの目的は三つあった。アザラシを取ること(投資者に利益をもたらす)、科学データを収集すること、南極に上陸することである。船長はみなアザラシ交易のベテランだった。科学調査グループにはレイノルズ自身が加わっていた。

 


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